底の見えない笑顔する他人なんか信用しちゃいけません3

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 静の笑顔の裏にあるのが底の見えない怒りであるのなら、この男の笑顔の裏にあるのは底の見えない考えと言うべきだ。
「華子の名前はね、シズがつけたんですよ。よかったね、華子。優しい伯父さんたちに会えて」
 そう言って、正平は腕に抱いた娘の頬を指の背でくすぐった。
 そうすると華子は顔をくしゃっとして笑う。
 その笑顔を見て、正平も笑う。
「……」
 武一は、突然現れたこの男にどういう対処をしたらいいのか皆目検討がつかなかった。
 殴り倒すには毒気を抜かれてしまっているし、かといってあっさりと仲良くなれるほど人間できていない。なんにせよ、華子を前にしたこの男は、少なくとも武一が想像していたような『クソ男』にはとても見えなかった。
 武一は、男の左手薬指にされた極めてシンプルな指輪を見た。
「……あんた、静とは結婚してるのか?」
 これでこいつがノーと答えたらとりあえず殴ろう、と武一は決めた。
 確率は低いだろうがあの指輪がただのおしゃれで、この男が結婚もしないで女を孕ませた馬鹿野郎だというのなら殴るのに躊躇いはない。
 正平は一瞬意外な事を聞かれたかのような顔をすると、微笑んで言った。
「はい」
 今度のは完全に含みのない笑顔だった。
 その笑顔を見たとき、武一は、この男が結構若いのではないかと思った。
「失礼だけど、年は?」
「二十七ですよ」
 驚いた。
「同い年じゃないか」
「ええ、そうみたいですね」
 正平が驚かない所を見ると、静から聞いていたのだろう。
 武一は居心地の悪さを感じた。
 この男は静から兄弟について色々聞いているのだろうが、こっちはこの男についてまったく何も聞いていない。ただ「クソ男」なのだという情報しかないのだ。
「仕事は?」
「自営業を少々」
「静を雇ってた会社と何か関係が?」
「はい」
 と、言う事は建設事業か……。
 静は学生時代に建設会社で通訳のバイトをやっていて、そのコネでそのままその会社に就職した。
 さすがにそれですぐ海外勤務だと言われたときは驚いたが、通訳になるのが彼女の昔からの夢だと知っていたので行かせたのだ。まさかその勤務先で結婚して子供作って帰ってくるなどとは武一は夢にも思わなかった。
 しかも夫だというこの男。結構かっこいいし。
 武一はこっそりとため息をついた。
 いつも。
 いつもいつもいつも。
 何か問題を持ち込んでくるのは、結構単純で人にだまされやすい所のある長男でなく、物事に異様なほど淡白な次男でもなく、年のわりに頭が回りすぎるほど回る三男でもなく、少しも後ろを振り返る事なく自分の道を突っ走る長女なのだった。
 両親が死んだ時兄弟達をばらばらに引き取ろうとした親戚達に自分達だけで暮らすと啖呵切った時も、兄弟達に黙って死ぬほどバイトして英会話学校へ通って睡眠不足でぶっ倒れた時も、からまれた友達を助けようとして不良グループに目をつけられた時も、彼女は自分の突っ走った道を疑う事などなかった。
 いっそ見ていて清清しいが、心配はつきない。
「あんた、一体静に何やったんだ?」
 しかしいくらそんな彼女でも、生まれたばかりの乳飲み子抱えて夫のもとを飛び出して海まで渡るなんて尋常ではない。
 よほどの事があったのだろう。
 聞くと、正平は華子を抱いてない方の手を左の頬にあてて撫でた。
「いや、ちょっと怒らせる事をしてしまいまして……」
 と、その時。
「くちゅんっ」
 華子がくしゃみをした。
 これに男二人は慌てた。
「え、華子、寒いの?」
「そういえば結構長いこと外にいるから……」
「あ、じゃあ今日はこの辺で」
「あ、はい」
 正平はあっさりと娘を武一に返した。
 あまりにあっさりとしたその様子に武一が少々拍子抜けしていると、それに気付いたのか正平は苦笑した。
「さすがに攫って行こうとは思いませんよ。そんな事したらそれこそシズに殺されても仕方ないですからね」
 シズ。
 彼が妹をそう名前で呼ぶのを聞いて、武一はやっとこの目の前の外人が妹の恋人……いや夫なのだと思えてきた。
「それでは、またお伺いいたします。今日は失礼いたします」
 そう言って正平は頭を下げると、さっさと公園を出て行ってしまった。
 少しその後姿を見送って、武一は反対の公園の出口に向かった。
 華子を見てみると、彼女は満足げに目をしばたかせている。
 その目は青い。
 透き通るような青い色だ。
 あの男と同じ色だった。
 武一はため息をついた。
「はぁ。娘を嫁にやるってのはこんな感じなんだろうなぁ」
 河野武一二十七歳。
 知らない間に嫁に行っていた妹に寂しさを感じる冬であった。




 公園から出て少しすると、正平のポケットで携帯が鳴った。
『なんだ』
 さきほどまで武一と話していた時とは違う、仕事用の口調で出ると、電話の向こうからは聞きなれた英語が聞こえてくる。
 その電話の内容に、正平は青ざめて立ち止まった。
『まさか……!』
 一気に血の気が引いた。
 心臓が大きく脈打つ。
『……わかった。お前もそっちが片付いたら日本へ向かってくれ』
 そう言って、携帯を切る。
『くそっ……』
 彼には珍しい悪態をついて、正平は早歩きで歩き出した。
 時間がない。
 連れ戻されるとか、そういう状況ではなくなった。 
 早くしなければ。
 妻と娘の命が危ない。


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