モノクロ

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 僕は。
 君に出会うまで無機質な世界の中にいた。
 別に絶望していたわけでも、失望していたわけでもないけれど、君と出会ってからのあの薔薇色の生活を考えると、それまではまったくモノクロの、味気ない世界だったんだと思えてならない。
 それくらいに君との出会いは僕を変えた。
 両親が死んだのは九歳の時だ。交通事故だった。
 学校でその知らせを聞いた。
 もちろんその時は悲しくて大きな声で泣いたが、僕には僕を包んでくれるぬくもりがあった。
 アイザックとベル。
 僕のもう一人の父と母だ。
 死んだ父の片腕と秘書であった二人は、僕を本当の息子のように育ててくれた。
 おかげで僕は自分に愛情が不足しているなどと考えた事はなかったし、周りが思っていたよりもずっと早く両親の死から立ち直った。
 薄情だとは思っていない。死んだ両親の事をいつまでも引きずっていてはアイザックとベルに申し訳ないし、父が残してくれた財閥を継がなくてはいけなかった僕にとって、そんな所で立ち止まっている余裕はなかった。
 両親が死んでしばらくは、アイザックが会長代行を担ってくれた。その傍ら彼は僕に仕事を教え、僕はそれを吸収する事に集中した。
 アイザックはたぶん参謀としての才能があったのだと思う。僕は思いのほかスムーズに会長職を継ぐ事ができた。それは全て財閥をそのように整えてくれたアイザックと、僕を決して甘やかさずに育ててくれたベルのおかげだ。仕事の重責は僕には追い風だった。やらなければと思うと、疲れている暇などなかった。
 名実共に会長に就任したのは成人してからで、当時僕は各財界誌の紙面を飾った。
 若い財閥会長の誕生は、大きなニュースだったからだ。
 僕は有名だったし、そのおかげか周囲に女性は事欠かなかった。
 その中で恋愛もしたし、仕事も忙しくて、僕は自分の人生をそれなりに彩りに満ちたものだと思っていた。
 そんな時に、君に出会った。
 アメリカの、とても庶民的なカフェで、僕たちは初めて出会ったんだ。
 まるで映画か何かみたいに。




 とにかく空腹だった。
「もうどこでもいいから止めてくれないか」
 正平は隣に座っていたサミュエルに懇願するように言った。
「ここにハムサンドならありますが」
「嫌だ。暖かいものをテーブルについて食べたい。十五分だけでいい」
 完全なわがままだった。
 そもそも朝食を抜いたのも、正平の希望だったのだ。アメリカに着いてからは時間を最大限に有効利用したスケジュールが組まれていて、滞在中の三食全てが某かの企業のトップとの食事だった。下手したら四食あった。今朝と今日の昼食だけが、その中休みだったのだ。
 昨日の夜食べたハンバーグも腹にもたれていた。若き財閥会長が朝食を拒否したのは当然だったかもしれない。
 それでも人間、腹の中のものを消化すれば腹は減るのである。
 それを見越してハムサンドを携帯していたサミュエルであったが、彼の上司はそれなりにお坊ちゃまだった。
「あ、あそこのカフェでいいよ。コーヒーと暖かいスコーンが食べたい」
 サミュエルは時計とスケジュール表を見る。そしてため息をついた。
「十五分だけですよ」
 正平は満面の笑顔を見せた。
「十分だ」
 まったく、この二つ年下の上司は有能でたまに嫌になる。
 サミュエルは思った。
 あの頭の中には、これからのあらゆる予定が刻みこまれているに違いない。そうでなくては、今そのスコーンとコーヒーに割ける時間が最高で十五分である事などわからないからだ。
「その店の前で止めろ」
 サミュエルは運転手に声をかけた。
「了解いたしました」
 従順な運転手は、流れるようなハンドルさばきで緑色の外装をしたそのカフェの前に車を止めた。
 パイが売り物のカフェらしかった。もちろん、コーヒーとスコーンもある。
 コーヒーも紅茶も同じくらい好きだった正平は、アメリカでも別段不便は覚えなかった。
 ドアをあけるとジャズが聞こえてくる。ドアベルが鳴った。
 店内には小さなテーブルが十と少し、それにカウンター席があった。学生が多い。勉強道具をカフェに持ち込む学生の姿はイギリスでもアメリカでも変わらない。
 ぽつりぽつりとあいたテーブル席の一つに腰を下ろす。
 窓際のテーブルで外を見ると、行きかう人と車が見えた。
 サミュエルはカウンターに行っている。コーヒーとスコーンと、きっと自分のためにカフェオレを注文している。
 彼のすぐ目の前、カフェの正面の道に車が止まった。
 高級車だ。
 後部座席が開き、中から女性が飛び出してきた。車内の人間となにやら言い争っているようだ。彼女は乱暴に車のドアを閉めると、苛立った様子で、けれど逃げるように正平のいるカフェの扉を開けた。
 彼女はカウンターに行くと、流暢な英語で「コーヒーを」と言った。
 正平のいるテーブルに戻ってきたサミュエルが、トレイをテーブルに置きながら聞く。
「何を見ているんですか?」
「彼女、日本人だ」
 正平の視線を追ってサミュエルも振り返る。
 日本人と中国人は見分けがつきにくい。サミュエルは片眉を上げた。
「中国人では?」
「日本人だよ」
 別に東洋人が珍しいわけではない。最近はイギリスにだってアジア企業が進出し、語学留学しに来る学生も増えている。
 彼女の乗っていた車はもうどこかに走り去っていた。
 カウンターでコーヒーだけを受け取った彼女は、店内を見渡した。
 正平達のすぐ隣の席が空いていて、そこに向かって歩いてくる。
 正平はわけもなくどきどきした。
 彼女は肩までの黒髪で、目の色も黒だった。化粧は控えめで、口紅はしていないようにさえ見える。着ているのは薄い黄色のシャツに、グレイのスーツスカート。すらりと伸びた足に、ヒールのある靴を履いている。背筋がまっすぐに伸びて、視線にも迷いがなかった。肩に皮でできた鞄をかけている。とても若い。顔だけ見れば学生のように見えた。
 彼女は椅子に腰を下ろした。
「いいカフェですね」
 正平は彼女に話しかけていた。
 彼女は最初、自分に話しかけられている事に気付いていない様子だった。正平がにこにこと笑いながらずっと彼女を見ていたので、視線に気付いた彼女が怪訝そうに正平をちらりと見た。
「いいカフェですね」
 正平はもう一度言った。
「……そうですね」
 彼女は答えた。
「日本語でなんていうんでしたっけ? カフェって。ええと、『き』でしたよね。『きっさて』だったかな」
 正平の母が日本人だった。幼い頃は母との会話は日本語だった。けれど母が死んでから使っていない言語なので、もうよく覚えていない。ヒヤリングならある程度できるかもしれない。
「さぁ」
 彼女はそっけなく言うと、正平から視線を逸らした。面倒だから話しかけるなという雰囲気がありありとわかる。
 最近では、日本語を勉強している欧米人は珍しくない。
 こうやって話しかけられる事も初めてではないだろう。勉強したばかりの言語を使おうとなれなれしく話しかけてくる奴は決して少なくないに違いないのだ。
 彼女はコーヒーを口に運んだ。どこか苛立っているように見える。
「アーネスト様」
 サミュエルが呼ぶ。
 正平はそれを聞いていなかった。
「ねぇ君」
 正平はさらに言った。
「名前は何?」
 彼女は聞こえないふりをする。
「僕には二つ名前があるんだ」
 それでもかまわず正平は続けた。
「父がくれた名と、母がくれた名だよ。アーネスト=正平=ウェントワース。正平は、こう書きます」
 彼は内ポケットからペンと手帳を取り出して書いてみせると、にっこりと微笑んだ。
「君の名前は?」
 これまで生きてきて、彼に名を聞かれて答えなかった女性なんていなかった。それなのに彼女はがたりと立ち上がると、眉間に深く皺を寄せて彼を見下ろした。
「あんたうるさい」
 彼女はそうはき捨てると、まだ一口しか飲んでないコーヒーを置いたまま店を出て行った。
「……アーネスト様」
 サミュエルが呆れたような声を出す。
 正平は困惑していた。
「うるさい?」
 彼は心の底から言った。
「どこが?」
「アーネスト様」
 サミュエルはため息をついた。
「とりあえず温かいうちにコーヒーとスコーンを召し上がってください」
「どういう事だサム」
 アーネストはひたすらわけがわからなかった。
 これまで彼が名乗ってうれしそうに声を上げない女性はいなかったし、彼に微笑みかけられて恥ずかしそうに頬を染めない女性もいなかった。
「どうして彼女は怒ったんだ?」
 自分の若い上司が心からそう言っているのがわかったので、サミュエルは頭を抱えたくなった。




 彼女の名前はコウノシズというらしかった。
 決して調べたわけではなくそれは自然と知れた。その週末に出席したパーティに、彼女がいたからだ。
 日本から進出してきている会社の主催しているパーティだった。正平が呼ばれたのは、そこの社長が父と友人だったからだ。
 彼女は上司らしき男と二人できていて、黒いパンツスーツの上下を身に着けていた。こういう場では、女性はドレスを身につけてくるのが普通だ。けれどかっちりと髪を一つにまとめ眼鏡をかけた彼女は、おそらくそういう格好をしなければ子供だと思われて誰にもとりあってもらえないのだろうと思った。
 正平はこの中では地位的には上位にいると言っていい。ウェントワース財閥の会長という肩書きは、けして安いものではない。
 こういう場では、初対面の人間と喋る時誰か知り合いに紹介してもらうのが定石だ。彼女とその上司は、パーティが始まってからしばらくして、主催者の男に連れられて正平のもとへやってきた。
「日本の、藤崎建設という会社から出向してきているミスターヤザキとミスコウノだ」
 そう言って紹介されると、彼女はにっこりと微笑んで名詞を差し出した。
「失礼いたします。シズコウノと申します」
 彼女は正平を覚えていないようだった。カフェで会ったあの無礼な男と目の前の財閥の会長が合致しないのも無理はないのかもしれない。
 正平はにこやかに答えた。
「アーネスト=正平=ウェントワースと申します」
 彼女ははっとした。
「ミスターウェントワースは、お母様が日本人でいらっしゃったとか」
 ヤザキと名乗った男が言った。腹が出ていて、特に熱くもないのに汗が吹き出ている。身につけているそれなりの値段のするスーツが少しもったいないようにも思えた。
「はい。これは、父と母がくれた名前です」
 正平がそう言うと、彼女はさっと俯いて小さくなにごとかを言った。
『ちくしょう』
 日本語だろうか。
 次の瞬間顔を上げた彼女は、先ほどまでの笑顔に戻っていた。
「ちょっと、失礼いたします」
 そう言うと彼女は踵を返してスタスタと人の間を縫って歩くと、部屋を出て行った。
「お手洗い、ですかな」
 いささか不躾だった部下の態度に、ヤザキがさらに汗を噴出させながら言う。
 けれど正平はそれを聞いていなかった。
「ちょっと失礼」
 言うと、彼は手に持っていたグラスを近くのテーブルに置いて、彼女を追いかけるように会場を後にした。
 後から考えても不思議だった。
 どうしてあの時、彼女を追いかけなければと思ったのか。
 日本女性で親しい人は他にいくらでもいた。
 それなのに、彼女を。
 どうしてこんなにも気にしていたのか。
 会場のすぐ外の廊下を歩いていた彼女は、乱暴に髪を止めていたゴムを取りながら歩いていた。手には既にコートを持っている。濃い茶色の、ロングコートだ。クロークに預けていたのを受け取ったのだろう。
 彼女は帰ろうとしているのだ。それは一目見てわかった。
 正平は小走りで彼女の後姿に追いつくと、肩を掴んで彼女を振り向かせた。
 振り向いた彼女の目は、光るような黒だった。
 そうだ。あえて彼女と他の女性の違いを挙げるのならば、こんな目の日本女性は他にはいなかった。
 射るような、深い、双眸。
 彼女は一瞬睨むように自分の肩を掴んだ手を見て、そしてその手の持ち主を見て目を丸くした。
「ミスター……」
 彼女は困惑したように言った。
 正平は笑顔のまま聞く。
「どうして帰られるんですか?」
「……本気で聞いていらっしゃるんですか?」
「もしそうだったら?」
「とんだ皮肉に聞こえます」
 きっぱりとしたその返答に、正平は笑った。
「僕は別に怒っていませんよ」
「まさか」
「怒っていたのはあなただ」
 言うと、彼女はばつが悪そうに少し目を細めてから正平をまっすぐに見返した。
「あの時は、ちょっと、いらついていたんです」
 彼女は頭を下げた。柔らかそうな髪がさらりと流れる。
「八つ当たりと同じでした。あの時は失礼いたしました」
「先ほどもそう言って下されば帰る必要はなかったのでは?」
 ウェントワース財閥の会長を怒らせたとなっては会社に有益ははずがない。だから彼女はあの時なにも言わずに会場を後にしたのだと正平は気付いていた。
 顔を上げた彼女は、顔をしかめて笑うという器用な芸当を見せた。
「あの豚のために謝罪したと思われては癪なので」
「どのみちあなたの立場は悪くなるでしょう」
 あんなにも不躾な態度で途中退席したのだ。日本からわざわざ海外に出向してきている人間の態度としては、いささか致命的と言わざるを得ない。
「いいんです。あの豚に足を触られるのはもううんざり。それでも仕事を失うわけには行かないから我慢しましたけど、あいつのために頭を下げるのだけはごめんだもの」
 彼女は首を振ると、自嘲気味に笑った。
「わざわざこんなことを言うなんて、復讐のつもりかしらね私。ヤザキの印象が悪くなりましたか? あいつはあれでも藤崎建設のアメリカの支社長だもの。私の発言は会社にとっての不利益を呼んだのと同じね」
 彼女の頬は少し紅潮していた。
「酔っていらっしゃるのでは?」
 正平はなるべく丁寧に聞いた。
「そうかもしれません。一口二口しか飲んでないんですけど、さっき頭に血が上ったから……」
「横になられますか?」
 すると彼女は怪訝そうに正平を見上げた。
「そういう台詞がどう聞こえるかご存知ですか?」
「部屋に連れ込もうとしているわけではありませんよ。ここの救護室にご案内いたします」
「ああ」
 彼女は噴出した。
「やだ。私ってば、邪推してしまったのね。失礼いたしました。でも安心なさって。大丈夫です。私は一人で。ありがとうございます」
 言って、彼女は先ほどよりももっと深く頭を下げた。
「お気遣い感謝します。お礼に一つだけ教えて差し上げます」
「なんですか?」
 彼女は悪戯っぽく目を細めて笑った。
「カフェは日本語で、『喫茶店』というんですよ。ミスター……正平=ウェントワース」
 たぶん、あの瞬間だった。
 あの瞬間にすべてが奪われた。
 半ば呆然としたあの意識の中で、彼女の連絡先を聞きだした自分を褒め倒してやりたい。あの後会ってうちの会社で働かないかと申し出なければ、藤崎建設をクビになった彼女はきっと日本に帰っていただろう。
 彼女のなにが違ったのか。
 あの黒い双眸は、獣を狩る獅子のようなすばやさで僕のすべてを奪っていった。
 ベルに泣きついてしまうほど、僕は彼女にいかれてしまった。
 イギリスに行ってから何度もデートに誘ったが、彼女はがんとしてそれを断った。
 一社員とグループの会長という立場をわきまえてのことだったのだろうと今は思うが、それにしたって融通がきかない。
 僕が懇願してやっと、彼女は一緒に映画を見に行ってくれたのだ。
 あの時のうれしさといったらなかった。
 彼女と見た映画は今までの最高傑作だと思ったし(実際はそんなに客が入っていなかった)、食事も今まで食べたどんな高級料理よりも美味しかった(実際は彼女の要望で中流のレストランに入った)。
 僕は彼女に完全にいかれていた。
 いや今も。
 たぶんそれは変わらない。
 シズ。
 君はきっと知らない。
 君の。
 その黒い双眸の奥にある暗い闇も、兄弟の話をする時の優しい顔も、華子を見ている時の聖母のような微笑も。
 僕には愛しいものに思えてならない。
 どうしてだろう。
 君と他の女性達のなにが違うのか。
 考えても答えは出ない。
 ただわかっている。
 決定的に。
 君だけが僕のすべてを捧げるひとだ。
 君が僕の世界を塗り替えた。
 君はあの一言で。
 僕という人間を創り変えてしまったのだ。
 狂ったように君を求める愚かな男に。



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