花が咲く


 この世界に漂う君。
 どうか安心してくれ。
 この星は柔らかな光に満ちる。
 そしてきっと、一面の花を咲かせるだろう。




 河野家に激震が走ったのは、十二月二十四日の午後であった。
 クリスマスは家族で過ごすことが恒例となっている河野家では、嫁にいった長女も夫と娘を連れて実家に帰ってきたところだった。今年から河野姓になった矢那が中心となり飾り付けられた家の中は賑やかで、二歳になってよく喋るようになった華子は家の中にサンタクロースの飾りを見つけるたびに「くりしゅましゅ!」と嬉しそうに指差した。
 台所に入った静が今夜のパーティの下準備をしていた矢那をねぎらいながら腕まくりをし、武一が目尻を下げて華子を抱き上げ、ダイニングテーブルで広中が開いていた参考書を正平が覗き込んだその時、ソファに寝転がって本を読んでいた綱が爆弾を投下した。
「あ、そうだ。今日彼女くるから」
 最初に反応したのは静と共に台所にいた矢那である。
「え? 今日?」
「そう、今日。言い忘れてたけど」
 矢那は「あら」と言ってからダイニングにある椅子を数えると、困った様子で首を傾げた。
「困ったわね。椅子が足りないわ」
 すると正平がにっこりと笑う。
「ああ、それなら僕が二階から持ってきましょう。綱君の部屋にある椅子、いいよね?」
「あ、いいよ。俺が持ってくる」
 そう言ってソファからむくりと起き上がった綱を、この家の長男と長女は質問責めにした。
 なにせ河野家の次男である河野綱が家に彼女を連れてくることなど、これまで一度もなかったからだ。
「ちょっと待て綱彼女ってどういうことだいつから付き合ってるんだ、どんな子なんだ、何をしてる子なんだ」
「何歳なの? 写真ないの? どうして今日来るってもっと前もって言わないのよ!」
 武一は華子を下ろして、静は台所から出てきて弟に詰め寄る。
 なかなかの迫力であったが、二十六年間この二人の弟をやっている河野綱は、こんなことで押し黙ったりしなかった。
「半年くらい前から付き合ってる。いい子。花屋の従業員だよ。二十三歳かな。写真はない。今日会えるんだからいいだろ? 前もって言わなかったのはさっきも言ったけど忘れてたから」
 つらつらと弟の口から出てきた情報をすぐに処理できない二人が黙り込んだ隙に、ダイニングテーブルで受験勉強をしていた三男が問う。
「どこで出会ったの?」
 綱はソファの背もたれに肘を置いて弟を振り向くと答えた。
「患者としてうちの病院にきたんだ。チワワを飼っててさ」
「……チワワ」
 武一が呆然と呟いた。
「ちょっと武兄、気にするところはそこじゃないでしょ!」
 静は兄の脇を突っついてから、きっと綱を見据えて言った。
「あのねぇ、あんたも。彼女を初めて自分の家に連れて来るっていうなら、段取りってものがあるでしょ段取りってものが! もう学生じゃないんだし、クリスマスにうちに呼ぶってくらいなんだから真面目に付き合ってるんでしょう?」
「結婚するつもり」
 二回目の爆弾投下であった。
「結婚!」
 武一が叫ぶ。
「すばらしいことだ。おめでとう、綱君」
 正平がにこにこと笑いながらぱちぱちと手を叩いた。それを見た華子もまたにこにこと笑顔で手を叩く。無垢な二歳児である。
「プププププロポーズはもうしたのか!」
 一人動揺を隠せない武一がどもりながら言った。
「いや、俺はしてない。されたんだ」
「は?」
「彼女に、結婚しませんかって言われたから、いいですよって」
「お前ちゃんと考えたんだろうな!」
 武一がひときわ大声で怒鳴った。
「結婚っていうのは受験と違うんだぞ! 失敗したからってそう簡単にやり直せないんだ!」
 いつも優しい伯父の大声に驚いた華子が、ぴゅっと父親の背後に隠れてしまう。怒鳴りつけられた当人である綱は眉をしかめて耳に指をあて、「武兄……ご近所まで聞こえるよ……」と苦言を呈した。
 綱はソファから立ち上がると、持っていた本をテーブルの上に置いて言った。
「安心してよ。別に軽い気持ちじゃないし。特別結婚したいと思ってたわけじゃないけど、彼女が結婚したいならいいかなと思ったんだ。失敗してもいいって思ってるわけじゃないし、俺はいたって真面目だよ」
「……そ、そうなのか」
 思わず声を張り上げてしまったことを恥じるように、武一が一度目を伏せて「……早とちりした。すまん」と謝罪した。
 しゅんと肩を落とした夫を、エプロンで手を拭いた矢那が近づき慰める。
「彼女が大切なのね」
 立ち上がり、弟と目線を合わせた静が言った。七センチ違いの双子の姉弟は、二人にしかわからない何かを交わすようにして見つめ合った。
「特別な子なの?」
「別に、普通にいい子だよ。今まで一回も風邪を引いたことがないのが自慢なんだって」
「だから綱兄、今日は朝からちゃんと着替えてたんだね。いつもならジャージのままなのに」
 広中が納得したように頷く。
「健康なことが一番だよね、綱君」
 華子を抱き上げた正平が言うと、綱は一度悲しげな表情を見せた。しかし兄弟達がそのことに言及する前に、ふうと息を吐いて笑う。
「……そうだね。太陽みたいな子だよ。植物を育てるのが上手なんだ」
 その時、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴らされた。
 慌てたのは長男と、女性二人である。
「ちょっと、綱、何時に来てって言ってあるの?」
「えーと、昼過ぎの好きな時間に来てって言ったかな」
「まぁまぁ、大変! 広中君、申し訳ないんだけど二階から椅子を持ってきてくれる? 綱君はちゃんと彼女をお迎えして!」
「おい綱! 彼女の名前はなんというんだ!」
「日向」
 河野綱は答えた。
「……笹原日向さんだよ」