彼は一本、線をひく。
 守るように。
 何者かの侵入を、恐れるように。
 まるで親鳥のようだ。
 彼はきっと、彼のその聖域に近づく者を全て、警戒するのだろう。
 そう、そこにあるのは、紛れもない境界線。
 外界の全てをはじく、境界線。


境界



 ぱしいん!
 甲高い音だった。すごく痛そうな音。
 私は給湯室の前を通り過ぎる所でそれを聞き、ついつい好奇心にかられて中を覗いてみた。
「ふざけないでよ!馬鹿にして!」
 痴話喧嘩だ。
 しかも同期の。
 私は眉をひそめて、ばつの悪い心地になった。
 男の方も女の方も知っていたからだ。別に仲がいいというわけじゃない。ただ単に同じ年に会社に入って、研修の時に同じグループになったというだけ。それから後違う部署に配属されてからは、せいぜい社内ですれ違う時に挨拶をかわすくらいの仲だった。
 女性の方は少し尻が軽いイメージで、男性の方は真面目な印象があった。
 今はその男の方が殴られたのか、赤くなった頬をこちらがわにして顔を横に向けていた。女の方はほとんどこちらに背を向ける形で立っているが、男を殴った方の手を握り締めて怒りで震えているようだった。
「......悪いけど」
 そう言ったのは男だった。
 彼のその声音に、殴られた憤りは感じられなかった。ただただ、無関心でクールな雰囲気。
「クリスマスは家族で過ごす事に決めてるんだ」
 彼はまっすぐに彼女を見るとそう言った。頬は爪でひっかかれたのか、みみず腫れみたいなのができていたけれど、彼は少しも痛そうに顔をしかめる事はしなかった。
 なぜか、どきりとしてしまった。
 別に私を見ているわけじゃないのに。
「もういいわよ!」
 女はそう怒鳴ると、踵を返して給湯室を出ようとした。私は慌てて、たまたまそこを通り過ぎただけのように装った。そしらぬ顔をして歩き出した私の横を、彼女がばたばたと騒がしく走っていく。
 よかった。ばれてないみたい。
 私は女がエレベーターの中に消えてしまうと、そっと後ろの給湯室の方を振り返ってみた。
 心臓がひっくり返るかと思った。
 彼がこちらを見ていたのだ。
 給湯室から出た所で、まっすぐに私を。
 まるで時間が止まったかのように感じた。彼の視線から目を離せなかった。
 けれどそれはあまり長い時間ではなかったのだと思う。彼の方がふいと顔をそらし、こちらに背中を向けて向こうの方に歩いていってしまった。その時私は、なぜだか寂しく感じた。いかないで、と追いかけてみたくなった。
 もちろんそんな事、しなかったけどね。




 私が彼、河野武一を初めて見たのは、彼が新入社員代表として壇上に立った時だった。彼はとても私と同じ年には見えないくらいに落ち着いていて、賢そうに見えた。なんでも有名国立大を卒業したとかで、文句なしのエリート新人ってやつ。私には彼が、雲の上の人のように感じた。
 研修で一緒になって、ラッキーとか思った。やっぱりいい男とはお近づきになりたいでしょ?河野君は自分から他愛のない話をする事はなかったけれど、話しかければ答えてくれたし冗談を言えば静かに笑った。クールビューティー。それが彼についたあだ名だ。
 別に美形ってわけじゃないけど整った顔立ちだし、彼に憧れる新入女子社員は多かったと思うわ。
 もちろん私だって憧れなかったわけじゃないけど、たとえば給湯室のあの娘みたいに進んでアタックしようとは思わなかった。だって彼はなんだかバリヤーを張ってるように見えたからだ。
 近づきすぎると痛い目見そうね。
 そう思ったの。
「ふーん。そういうの、お高くとまってる、って言うんじゃないの?」
「沙耶、知った風な口きかないの。彼はそんなんじゃないんだから」
 椅子にまたがるように座って背もたれに顎を乗っけた妹を、私はむっとして嗜めた。沙耶は私より十年下の妹で、まだ中学一年生のくせに言う事が本当にませている。最近の中学生って、皆こんなんなのかしら?
 現に沙耶の部屋にはアイドルのポスターなんかが貼られている。私が中学の頃は、アイドルよりも漫画の方がはやっていたものだ。私は沙耶の青いベッドの縁に腰掛けていた。
 組んだ膝に頬杖をついて言葉を探す。
「そうね......一つ高いところにいるんじゃなくて、一歩後ろに下がってるかんじよ。入ってくるなって言ってるのね、きっと」
 うん。
 そんなかんじ。
 入ってくるなって目が言ってたの。給湯室で自分を殴った女をまっすぐに見た時も、廊下で私を見ていた時も。
「......そういえば、意外だったな。家族を大事にする人なのね」
「は?なに?」
 たぶん、河野君がクリスマスに誘われたのを断ったから、喧嘩になったんだろう。彼は言ったのだ。クリスマスは、家族と過ごすからと。二十三になる男にしては珍しいと思う。普通男の子って、高校生にもなるとクリスマスは彼女か友人と過ごすものじゃない?かっこわるいとか言って。実際、うちの真ん中の弟は中3で彼女ができてから、クリスマスは外で過ごしている。生意気ったらないわ。
「お姉、その人の事好きなの?」
 沙耶の言葉に、私は目を見開いた。
「どうしてそうなるの?」
 沙耶は背もたれの上で両腕を交差させ、そこに顎をうずめるようにしながらにやにやと笑って言った。
「だってさっきからずっとその人の事話してる。今日一度目が合っただけなんでしょ?」
 そう。そうだ。けれどその一度の視線の交差が、私の中の何者かを呼び覚ましたのだ。
 そしてそれは決して恋ではない。そんな甘やかな感情ではなく、それは。
「馬鹿ね」
 私は笑った。
 やはり沙耶はまだ子供だ。すぐに愛だの恋だのを持ち出してくる。
「知的好奇心って呼ぶのよ」
 この感情は。
 彼の事を知りたい。
 できることなら、聞いてみたい。
 あなたは何を守っているの?
 まるで傷ついた親鳥のように。
 ねぇ、何をその腕に抱いているの?




 といっても、私と彼は部署も違うし、話す接点がほとんどない。
 彼が私の事を覚えているかどうかも微妙なところだ。いや、先日の給湯室事件の時の事を考えると覚えていない確立の方が高い。彼は私に何も声をかけずに、行ってしまったのだから。
 世間はもうすぐクリスマスだ。
 実は私は、今まで男の子とお付き合いというものをしたことがなかった。告白はされた事はあるが、顔が好みじゃなかったので断ってしまった。沙耶は、お姉は面食いなのよ、と言う。そうかしら?今まで私があまり恋というものをしてこなかったのは、運命の人に出会ってないからだと思うんだけど。そんな私を、弟は笑う。
 姉貴は夢見る少女だからな。
「あの、部署はちょっとわかんないんですけど」
 昼ごはんから帰ってくると、受付に男の子が一人いた。この時間にここにいるのだから、大学生だろうか。
「どうしたんだろうね」
「誰かの親戚じゃない?」
 スーツ姿の人間ばかりのこの社内で、ラフな私服の男の子は目立つ。
 一緒に御飯を食べに出ていた弘子と波江の会話を聞きながら、私もなんとなくその男の子を見ていた。手には茶封筒を持っているから、波江が言っているように誰かの忘れ物を届けに来たのだろう。
「河野武一って言って......」
 え?
 何ていった、今。
「綱!」
 私が思わず立ち止まって受付の前の男の子をまじまじと見ていると、後ろから声がして、男の子がこちらを振り向いた。もとい、私の横を通り過ぎて男の子に駆け寄っていく男性を、だけど。男性はもちろん、河野君だった。私は驚いた。河野君が走ってる所を、初めて見たからだ。
 自分の所に駆け寄ってきた河野君に、男の子は持っていた茶封筒を差し出した。
「はい。持ってきたよ」
「おーさんきゅー。助かった!」
「あとこれ。静から。お腹すいたら食べてだって」
「何?」
「ケーキ」
「おお、いいねぇ。さすが我が妹」
「じゃ俺四限あるから」
「あ、おい待てよ。昼まだだろ?一緒に食べようぜ」
「時間は?もう昼休み終わるんじゃないの?」
「大丈夫大丈夫」
 そう言って、河野君は男の子を連れて会社を出て行ってしまった。
 いや、誰だあのひと。
 その後姿を呆然と見送りながら私は自問する。
 「さんきゅー」とか、「一緒に食べようぜ」とか。
 あんなフレンドリーな。
 いや、誰なのよあのひと。
「へぇ、河野さん、弟いたんだね」
「弟さんかわいー。河野さんも、やっぱ家族の前では雰囲気違うねー」
 弘子と波江が言う。
 雰囲気違うの次元じゃないわ。
 がらりと変わったもの。
 どうして?
 なぜ?
 半ば混乱した私は、はっとしてある答えに行き着いた。
 境界線だ。
 あの男の子は、彼の境界線の中にいるのだ。
 だから彼は、人に対して一線を引いていない時の表情を見せた。
 彼の守るべき場所。
 なるほどわかった。全て謎が解けたわ。
 家族だ。
 これが彼のキーワード。
 サンクチュリアだ。




 その後、同期の飲み会で彼と話す機会ができて、私は積極的に彼に話しかけた。それからなんとなく付き合うようになり、現在、もう四年になる。
 雲の上だと思っていた彼は、思いのほか近い存在だった。
 彼の両親が亡くなって、今は兄弟四人だけで暮らしているのだと聞いた時は、ああだからかと思った。
 彼は守っているのだ。
 両親から託された家族という絆を、必死になりながら。
 他人に一線を引いていたのは、あまり自分の中に入り込んで欲しくないからだろう。自分の、家族の中に。それは独占欲と言えるかもしれない。自分の領域に他人が入ってくる事を許さないその頑なさは。
「メリークリスマス!」
 パン、という景気のいい音と共にシャンパンのコルクが開けられた。
 河野家では毎年、シャンパンを開ける役は武一さんと決まっているらしい。しゅわわという音と共にあふれる泡で手を濡らし、彼はその液体を私のグラスに注いでくれた。
「メリークリスマス」
 彼はそう笑う。
 境界線の中で。
 私が彼の境界線の中に入れたのは、三年前だ。
 初めて彼の家族に紹介してもらった時。
 そして、家族のクリスマスに私も参加させてもらうようになった時から。
「メリークリスマス矢那さん!これからも武兄をよろしくね」
 静ちゃんが笑う。
 その隣で、彼女の夫である正平さんが娘の華子ちゃんにプレゼントを渡していた。綱君は一人もくもくと料理に手をつけ、未成年の広中君はジュースを飲んでいる。
 知的好奇心だと言った。
 沙耶に。
 けれど沙耶の方が正しかったのかもしれない。
 もしかしたら私は、武一さんに恋をしていたのかもしれない。きっと、あの給湯室で彼の目を見た時から。いやもしかしたら、新入社員代表で壇上に立った彼を見た時から。
 だって私はこんなにも嬉しい。
 この場にいられる事が。
 彼の境界線の中にいられる事が。
 今はまだ結婚はできないけれど。
 不安なんかない。
 だって彼は、幸せそうに私に笑いかけてくれるしね。
「どうした?矢那」
「ううん。今年は二人も家族が増えたね、武一さん」
「ん?ああそうだな。これで三人増えた事になるな。父さんも母さんも喜んでるよ、きっと」
 ああ、嬉しいの。
 あなたが、私も家族に加えていてくれる事が。
 だって「家族」は、あなたのキーワード。
 境界線のあっちとこっち。
 その境い目。
 ねぇ、私の運命のあなた。
 知っていた? 境界線。
 私はずっと、その中に入りたかったのよ。