16.気まずい雰囲気にさらされる

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 ピ、ン、チ!
 その瞬間わたしの中に浮かんだ数十通りの脱出方法はどれも不自然すぎるからと脳内会議で却下になった。一番自然なのは「尿意をもよおしたふりをして部屋から飛び出す」というものだが乙女としてどうにかそれは避けたい。二度目だし。
「あれ? 八木原さんと樋口って知り合い?」
 と理子嬢が問う。一方わたしはまだ怖くて振り向けないでいる。いやいやちょっとまだわたし昨日のローファー事件を引きずっているので、今舜のブリザードアイを受ける自信ないよ!
「……まぁな。安西、これ探してたプリント俺のファイルに混じってた」
「うわ! 本当だごめん! ありがとう!」
 理子嬢はそう言うと、固まるわたしの横を通り過ぎて舜の方に駆け寄る。
「今なら古賀先生職員室にいるよね? ちょっと行ってくる! じゃあごめんね八木原さん、昼休み中はここ好きに使っていいから! また今度落ち着いて話そうね」
「あ、はい」
 わたしは失礼を承知で振り向かないまま答えた。
 心の中でわたしが行かないでー! と悲鳴を上げていることなど知らない理子嬢は、「じゃあ、樋口ありがとう」と言ってすったかたーと生徒会室を出て行ってしまう。(実際には走ってないのだけどわたしの心境的にはこんなかんじ)
「……」
「……」
 いや、気まずいわー。
 背後に舜がいる気配がびしばしする。どうしてお前も出て行かないんだ! もう用事は済んだんだろ! わたしなんかとは話したくないんだろ!
 そう怒鳴りつけてやりたいができるわけもなく、わたしがいつまでこの拷問に耐えなくてはいけないのだろうと静かに考え始めた時だった。
「円、どうしてお前綾小路に近付くんだ?」
 その質問の意味を、わたしは咄嗟に理解できなかった。
 まさか舜がそんなことを気にするとは思っていなかったからだ。
「……は?」
 思わず振り向く。すると案の定、まっすぐわたしを鋭く睨みつけていた舜の黒い双眸と目が合った。心臓がぎゅっと縮まる。息苦しくなる。
 舜は口の端を上げて嘲るように笑った。

「兄貴の代わりを見つけたのか?」

 その瞬間、わたしの頭にかっと血が上った。
 いつものあれだ。ほとんど無意識に立ち上がると、近くに置いていた紅茶の入ったマグカップを取り上げてそれを舜の横の壁に投げつける。
 ガシャン! と陶器の割れる音がした。床は当然ながらびしょびしょになり、舜の制服も濡れて眼鏡には水滴が飛んでいる。けれどわたしはすぐに正気に戻ることができず、ふーふーと警戒する猫のように肩で息をしながら舜を睨みつけた。
 ……なんで。
 そんなことを言うんだ。
 代わり?
 そんなわけない。
 代わりなんかいない。
 彼の、代わりなんて。
「……」
 舜は頬にかぶった紅茶を乱暴に拭うと、眼鏡に水滴をつけたまま一歩こちらに足を踏み出した。パキリ、と陶器の破片が割れる音がする。上履きの底は薄いから、大きな破片を踏むと貫通してしまうかもしれない。そう思って、咄嗟に「危ない」と声を上げてしまった。
 しかしその言葉に舜は一瞬ひどく傷つけられたような顔をした。どうしたと問う間もなく奴は大股でこちらに向かってくると、わたしの肩を掴んで後ろにぐいと押した。
 倒れる! と思ったが、すぐお尻に何かがぶつかってそれは回避する。けれど奴がそれでもぐいと押してくるので、わたしの上半身だけが倒れ肩と背中と後頭部をしたたかに固いものにぶつけた。……いってぇ。隅にあった机だ。そう気付いた時には、舜がのしかかるように覆い被さっていた。
「離して!」
 わたしは咄嗟にそう怒鳴った。しかしすぐにぐいと喉を締め付けられ、息が詰まる。喉が痛い。わたしは両手を振り回して暴れた。手の先が舜の眼鏡にひっかかり、かしゃんと飛ぶ。舜はすぐにわたしの両手を掴んで動きを封じた。喉を押さえつけていたものが離れたために一気に気管に空気が入り込み、げほげほと咳き込む。
 その隙に、奴はわたしの両手首を片手で持つと頭の上で押さえつけた。
 なんでお前こんな人を押さえつけるのスムーズなんだ! 変態! そう心の中で罵倒した。
 自由になった舜の左手が眼鏡を奪う。
 すると舜の顔が見えなくなった。ぐぐぐ。卑怯だぞ!
 眼鏡を取られてはなんかぼやーっとした何かが目の前にあるのだけはわかるかな。うん。という状態になってしまうのに!
「円」
 舜の声がわたしの名前を呼んだ。
 わたしは目尻にじわりと涙が浮かぶのをこらえきれなかった。
 舜の声は、孝重郎に似ている。
 当然だ。
 二人は兄弟なのだから。
「……孝重郎の代わりがいないことなんてわかってる」
 わたしは引き絞るような声を出した。
「わかってるよ。それにわたしは誓ったんだもん。孝重郎の願いを叶えるって。楽しい高校生活を送って、ちゃんとここを卒業するって。決めたの!」
 わたしは叫んだ。
「舜がわたしのことを嫌いなのはわかってる! 孝重郎のことを大好きだったのも知ってる!! でもどんなに邪魔されても、わたしはこの高校生活だけはちゃんと送ってみせる! 孝重郎がそう願ったんだから! わたしはそれを叶えてみせる!!」
「お前が兄貴の名前を呼ぶな!」
 そう怒鳴って、舜がわたしに顔を近付けてくる。潤んだ視界の中で、なんだ頭突きか! とわたしは目を瞑ったが、予想していたような衝撃はこなかった。
 その代わり、数日前もわたしが車に轢かれそうだったところを救ってくれた声が聞こえた。
「ええと、樋口先輩? 昼休みの生徒会室でそれはまずいんじゃないかと思うんですが。 あとドア開いたままですよ」
 なんというタイミング。
 もうわたし魔王のことは忘れます! やっぱりあなたは王子様です行武先輩! とわたしは心の中で盛大に拍手を送ったのだった。





 ……腰が。
「イタタタタ」
 変にアクロバティックなことをしてしまったのでわたしの腰が悲鳴をあげています。
「大丈夫?」
「あう、大丈夫です……」
 なんとか若さでカバーします。
「それより片付けないと……」
 生徒会室には先ほどバーサーカー八木原円が破壊したマグカップの破片がちらばってるし、床は紅茶で濡れていた。樋口舜はというと、王治が声をかけた直後ぐいとわたしに奪い取った眼鏡を押し付け(すぐ返すなら奪うな!)、何事もなかったかのように落ちた自分の眼鏡を拾い(舜の視力は遠くのものがぼやける程度)すたすたと部屋を出て行きやがったあのやろう。
 まぁ、これやったのわたしなんで文句を言う筋合いではないのですが……。
 ちょっとしゅんとなりながら、とりあえず破片を拾おうとわたしがポットの側のナプキンに手を伸ばした時、その手を王子が止めた。
「いや、円ちゃん今樋口先輩に襲われてたでしょ? 大丈夫?」
 とイケメンがわたしの目をまっすぐに見て真摯な声でそう言ってくるんですがどうぞ!
 っかー! これだから顔のいい男って嫌ね! 無駄にどきゅんとしちゃうじゃないのさ!
「あ、ちょっと喧嘩してただけです。襲われたとかそういうんじゃないんで大丈夫です」
 わたしは空いている方の手を振ってそう言った。てゆうか舜がわたしを襲うとかありえないわー。いやいやないない。絶対ない。天地神明に誓ってない。
 すると王子は少し戸惑ったような顔をする。
「え? でも今……」
「いや本当ないです。彼とわたしはなんていうか前世からの因縁? みたいなんでともかく相性が悪いんですよ。目が合えばガンをつけ合う仲なんですよ」
 実際初めて会った時から舜はわたしに喧嘩腰だった。
 まぁ、そうなっても仕方がない状況だったから特にどうとは思わないけど。
「ええと……樋口先輩と円ちゃんってどんな関係なの? 差し支えなければ聞いてもいいかな?」
 おお。それ聞きますかー。
 普通そういうのって遠慮して聞かないよね。さすが王子! 贅沢な暮らししてきたから(注:イメージです)遠慮って言葉知らないのね!
 うーん。まぁ助けてもらったしいいか。別に秘密にすることじゃないし。変に詮索されるのもやだし。
「ええと、兄です」
「え? でも名字違うよね?」
「はぁ。ええと、わたしのは母の名字なんです。樋口センパイとはだからいわゆる腹違いの兄妹ってやつですかね?」
 わたしはへらりと笑ってそう答えた。
 ちなみにわたしは舜とは血がつながってるけど、舜の兄である孝重郎とは血がつながっていない。そう、この辺は少し複雑なのだ。
 ーー困った両親のおかげでな!



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