26.事件を目撃する

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 用事っていうのはこれだったのか。
 とわたしは最初に思った。
 なんというかわいそうな奴。
 普段から穏やかな学生生活を心がけていれば、放課後に呼び出してくるのはあんなガラの悪い先輩方じゃなくて可愛い後輩ちゃんだったかもしれないのに。
 ともあれ自業自得である。前にトイレで目撃した時みたいに好戦的な態度を取るからいけないのだ。……まぁ、人のことは言えないけれども。
 そう思って見ていると、やがて殴り合いが始まった。
 熊を囲んでいる生徒達の一人が殴り掛かってきたのだ。しかし熊はそれをひょいと躱して殴り返す。バキという痛々しい音がここまで聞こえてきた。すると殴られた生徒はあっさりとその場に倒れる。え? 一撃なの? 何それ熊強すぎない? こわ!
「てめぇ!」とかなんとか叫んで他の生徒達も一斉に殴り掛かるが、熊はまるで子供をあしらうようである。
 はー。すごいわ。本気で喧嘩強いのねー。
 まー君達とどっちが強いかな。あの人達も昔は相当やんちゃしてたからなー。
 感心して見ているとあっという間に立っているのは熊ともう一人だけになった。なんか喋ってるけど聞こえない。
『ちっ……お前強いな』『……お前もなかなかやるじゃねぇか』的に友達になってたりしたら面白いのに。って、あ!
「危ない!」
 熊の後ろで倒れてた生徒が立ち上がったのだ。しかもその手には石かなんかの凶器を握りしめているっぽい。わたしは咄嗟にそう叫ぶと、制服のポケットに手を入れてそこにあったものをぺいっと投げつけた。
 し、しまったあああ!
 投げてから心の中で悲鳴を上げる。
 それは生徒手帳だった。ずーっと制服のポケットに入ってて化石みたいになっていたのをすっかり忘れていた! しかも空中落下するそれははひゅるるるるぺし、と熊に殴り掛かろうとする生徒のずっと後ろに落ちてしまった。うん、意味なし!
 バキ! ゴン!
 しかし熊は正面の生徒を殴り倒すと(残念ながら友情が育まれることはなかったようだ)、くるりと鮮やかに回し蹴りをして背後で凶器を振りかぶっていた男子生徒も昏倒させた。
 ……間違いない。あいつたぶん空手かなんかやってたんだ。
 そう思うくらい、熊のその身のこなしは美しかった。
 あの大きな身体からは想像できないくらいに流れるような動きだった。まるで踊ってるみたいだ。あんなにも長い四肢を、熊は自在に操っている。
 ……ずるい。
 なぜか、強くそう思った。
 あの男の前にはきっと道など必要ないのだ。その両の脚でどこにでも踏み入れていける。強い強い意志と力。なにものも彼を遮ることなどない。
 だから。
 ああも、自由に見える。
 その時熊がこちらを見上げてきてばちりと目が合ったので、わたしは慌てて窓の下に隠れた。
 止まっていた心臓が唐突に動き出す。
 う、うおおおお!うおおおお!
 今、目が合ったよね? 見つかった? ってゆうかわたし生徒手帳落としてるし! あれにわたしの顔写真とか名前とかばっちり載ってるし!
 恥ずかしすぎる!
 いや、怖い! なんだか今すぐこの場から逃げ出したい!
 そう思ってじたばたと暴れていると、「お待たせー」と魔王が戻ってきた。
「さー帰ろうか、円ちゃん」
 鞄を持った魔王がそう言いながら歩いてきて、どこからか取り出した鍵でわたしを拘束していた手錠を外す。魔王は解放されたわたしの手首を見て少し申し訳なさそうな顔をした。
「あ、ごめん。ちょっと赤くなっちゃったね」
「別にいいですこれくらい」
 わたしはそう言って立ち上がった。すると魔王はきょとんとした様子でこちらを見上げて首を傾げる。
「……あれ? 円ちゃんなんかあった? なんか顔も赤くない?」
 う、る、さ、い、だ、ま、れ!
 わたしは心の中でそう叫ぶと、魔王を置いてさっさと化学室を後にした。





 のだが、結局魔王に家まで送られた。
 魔王はこちらに気を遣っているのかあまり話しかけてくることはせず、一定の距離を保って歩いていた。家についたところで振り向き、「ありがとうございました」と一応礼を言うと魔王は苦笑した。
「円ちゃんは人がいいなぁ」
「そうですね。やっぱりさっきのお礼は撤回します」
「いえいえ、せっかくいただいたものですから大事にきっちりしまっておきますよ」
「明日の朝も誰か来るんですか?」
「うん。丸が来る予定」
「迷惑です」
「はは。つきあってやってよ」
「なんにですか?」
「玄の道楽」
 わたしは目を眇める。
「道楽なんですか?」
 すると魔王は驚いたような顔をした。
「あれ、なんだと思ってた?」
「……」
 魔王が笑う。
 その笑い方はどこか艶美で、彼が中学時代王子ではなく魔王と呼ばれていた理由を彷彿とさせた。
「円ちゃん」
 彼は言う。
「僕はさっき君を玄の女だって言ったけど、勘違いはしない方がいいよ。それは決して、恋愛感情的な意味じゃない」
 夕暮れ時の空の色が魔王の背後を彩っている。
 魔王の言葉と表情はまるで芝居がかっているように見えた。それもひどく不愉快な悲劇だ。
「玄は、純粋に新しいおもちゃとして、君を気に入っているんだ。須磨の次のおもちゃだよ。だから須磨だって、大人しくマド部なんていう部活に参加してるだろう? 玄に自分よりもっと気に入るおもちゃができれば、須磨への被害は減るからね」
 この男は。
 牽制しているのだ。
『理由がいるか? 俺がお前を気に入ったんだ。ただそれだけだよ』
 わたしが間違えてしまわないように。
「すごく迷惑です」
 わたしは答えた。
 すると魔王ははは、と声を上げて笑う。
「やっぱり玄が君を気に入るのもわかるよ、円ちゃん」
 わたしはなんだかこれ以上話していたくなくて、カンカンと音を立てて急いで階段をのぼり部屋の鍵を開けるとさっさと部屋の中に入って扉を閉めた。乱暴に靴を脱ぎ、入ってすぐ右にあるキッチンの前に鞄を放る。すたすたと奥の部屋に入って襖をあけ、中から布団を引きずりだすと、ぐちゃりと固まりになったままのそれの上に身を投げ出した。
 ひんやりとした布団が頬に触れる。
 魔王につきまとわれながら帰っている間、わたしはずっと考えていた。
 わたしが求めていたものはなんだった?
 孝重郎と出会うまで、わたしはなんのために生きていた?
 ウメはあまりに自由奔放だったし、父親の家では邪魔者だった。
 わたしはわたしだけの手が欲しかった。
 そしてすがりついたのだ。
 孝重郎に。
 彼を自由だと思った。大人だったし、いわゆるワルだったから。
 けれど。
 違ったのかもしれない。
 本当に自由だというのは、きっとあいつみたいな男のことを言うのだ。
 他者に遠慮せず、自分のやりたいことをやる。そのために行動し、縛られることもない。
 周囲は絶えず輝き、最後にはその手で欲しいものを勝ち取るのだ。
 強い意志を秘めた双眸でまっすぐに相手を見据えて。
 その時ビー、とチャイムが鳴った。
 最初に思い浮かんだのは魔王だ。あるいはまー君かもしれない。けれどどうも来客を迎える気分にならない。居留守を使おうかと思ったその矢先に、もう一度ビーという音が部屋の中に響いた。
 わたしは息を吐くと立ち上がった。
 うちには覗き窓なんて大層なものはないので、念のためチェーンをかけ扉を少し開けると相手を確認する。
「はい……」
 そう答えてわたしは絶句した。
「よお」
 目の前には、熊がいた。
 って、ちょっと待て! 今なんかどきんとしたのは間違い! ミス! 誤作動! 絶対にそんなあれではない!! ……はず!



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