29.熊と口論する

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 誰かがわたしの名を呼んだ。
 そして頬を伝う涙を拭ってくれた。
 その優しさは、ひどくこの心臓を締め付けた。





 目が覚めたら視界ゼロ状態だったけど、匂いでそこがどこかはわかった。保健室だ。
 ずきずきと痛む側頭部に自分の身に起きたことを思い出し、にわかに佐藤への怒りが再燃する。くそ。慰謝料一千万請求して佐藤家の全財産を絞り尽くしてやる。とわたしは決意を新たにした。
 目隠しの役目を果たしているカーテンに、椅子に座っている人の影が映っている。おそらく保健の先生だろう。
 あいにく辞書で頭をぶつけて気絶しても見舞ってくれるような友達はいないのがこの八木原円の現状である。……麗来てないのかな? とほんのちょぴり期待して、わたしはゆっくりと身を起こすと眼鏡を探した。
 幸い誰かが枕元に置いておいてくれたようで、すぐに見つけて耳にかける。よし。視界良好。ベッドの脇に並べて置いてあった上履きを履いて立って、ためらいなくカーテンを開ける。そしてわたしはそこにいた人物に目を疑った。
「……」
 本来なら保健の先生が座っているはずの背もたれ肘置き付きの椅子に座ったその男は、腕を組んですやすやと眠っているようだった。
 大柄な身体にはその椅子は窮屈そうで、頬に窓をかたどった太陽の光が当たっている。
 熊男だ。
 わたしはぼんやりとその横顔を見ていた。
 熊男は、よく見ると整った顔立ちをしている。
 精悍、とでも表現するのだろうか。顔のパーツの配置が整っていて、見ていて微塵も不快さを感じさせない。正当派イケメンな魔王の横に立っていて見劣りしないのだから、一定のレベルには達しているだろう。
 孝重郎ははっきり言ってケツ顎だったし、目が小さくてそれに比べて骨格がしっかりしすぎていた。不良じゃなかったとしても顔ではモテなかっただろう。けれど彼の優しさを知って好きになる女はいたかもしれない。
 わたしのように。
 孝重郎が死んで、自暴自棄になって部屋の中に閉じこもっていたわたしにある日もたらされた手紙は孝重郎の筆跡によるものだった。
 宛名のない新品の茶封筒に入っていたけれど、内容から察するに舜宛てに書かれたものだから、舜が新聞入れに入れてくれたのだろう。彼はそれまでもずっと部屋にわたしを訪ねに来てくれていたが、わたしは決して答えなかった。孝重郎のいない世界になどもう意味はないと思っていたし、すべてがどうでもよかったからだ。
 そこには家を出たことに対する舜への謝罪と、わたしへの望みが書いてあった。
 幸せになってほしいのだと。
 楽しい高校生活を送って、大学に行って、好きなことをやって。
 これまでの不幸のぶんどうか幸せに、と。
 そしてわたしは生きることに決めた。
 孝重郎が望んだように、まずは楽しい高校生活を送るのだ。
 けれど同時に心のどこかでこう誓っていた。
 恋はしない。
 恋はもうしないだろう。
 あの人以上に愛しいひとなどいない。
 心奪われる人などありはしない。
 これからわたしはあの人の望みだけを抱えて生きるのだ、と。
 だから。
「綾小路先輩」
 わたしは熊男の名を呼んだ。
 すると熊はぴくりと肩を震わせて、やがて眠たげにその瞼を押し上げた。
「……んあ?」
「どうしてこんなところで寝てるんですか? 先生は?」
 熊はしばらくなぜ自分がここにいるのかわからない様子で目をしばたたかせていたが、やがて椅子の上で大きく伸びをすると、寝起きの声で言った。
「あああ。なんかすげぇよく寝た。今何時?」
 熊の背中側にある壁掛け時計を見て答える。
「十二時十分です」
 わたしは自分が四時間近くも寝ていたのだと気付いてぐったりした。まぁ最初の方は去年も受けた授業だから、休んでも問題はないけど。
「お前の鞄そこにあるから帰れよ」
 しかし熊はわたしが答えてやった時間に対して反応を見せることなく、肘置きに頬杖をついて壁際の丸椅子を指差した。
 なるほどそこにはわたしの登校鞄が置いてある。
 登校してすぐ生徒会長のところへ行ったので、気を失ったわたしと一緒に保健室に運び込まれたのだろう。ああ、あの中に恥ずかしい日記とか入れておいて誰かに見られるなんて事件がなくて本当によかった。そんな日記つけてないけど。
「……授業に出ます」
 わたしは拍子抜けしていた。
 熊はまるで、昨夜のことなどなかったかのように振る舞っている。
 もしかしてわたしの夢だったのだろうか? 無理矢理唇を奪われたような気がするんだけど白昼夢? 夜だけど。
 ……まぁもういいや。こいつには関わりたくない。
 そう思って鞄を取りに行こうとしたわたしの腕が、がしりと大きな手に掴まれた。
「……離してください」
 不愉快さを全面に押し出して振り向く。
 しかし熊には少しも堪えた様子はなかった。
 ただ真顔で言う。
「帰れよ」
「別になんともないです。授業に出ます」
 わたしが楽しい高校生活を送るのが孝重郎の望みだ。
「頭打ってんだぞ。帰って病院行け」
「放っておいてください」
「金ないならコイン通り沿いの徳原病院に行け。院長が俺の親父の知り合いだから、俺の名前出せばタダで診てくれる」
 徳原病院ってこの辺で一番大きな総合病院じゃねぇか。金持ちめ。
「いいですってば!」
 わたしは無理矢理熊の手を振り払った。
 意外とそれはあっさりと外れて、わたしは目を吊り上げて熊と向き合う。
「なんなんですかあんたは! わたしに構うな!」
「いいから黙って病院に行け」
 熊は根気強く言った。
 これじゃまるでわたしが駄々だをこねてるみたいじゃないか。
「平気ですってば!」
 なおもわたしが言うと、ついに熊はがたりと立ち上がった。そして部屋が震えるような怒声を上げる。
「心配してやってんだから黙って俺に従え!」
「……」
 不覚にも、わたしはびくりと身体を震わせて固まってしまった。
 孝重郎にこんなふうに怒鳴られたことはない。大体卑怯だろう。こんなに体格差のある相手に上から怒鳴りつけるなんて。
 すると熊男は、目を丸くして彫像のようになったわたしを見てばつが悪くなったのか、ちっと舌打ちをすると保健室を横切り一人扉へ向かった。
 そのまま部屋を出て行くのかと思われたが、扉に手をかけたところでぐるりとこちらを振り向いて言う。
「校門前に車を待たせてる。お前が行かねぇなら鈴木は放課後まで待ちぼうけの上減棒だ」
「な」
 わたしは今度は呆れてあんぐりと口をあけた。
 その顔を見て、熊は一瞬だけ笑うとがらりと扉を開けて保健室を出て行ってしまった。
「……」
 ひ、卑怯なあああ!
 他人を盾に取るなんて最低すぎる!
 鈴木さんってたぶんあの眼鏡屋さんに連れて行ってくれた運転手さんだ。すごくいい人だった。もうすぐ孫が産まれるんだって。減俸はかわいそうすぎる。
「……ああ、ちくしょう!」
 思わず柄の悪い台詞を吐いてしまったわたしは、熊の言う通り大人しく帰ることに決めたのだった。
 それでも熊男の言う通り鈴木さんの車で病院に連れて行かれるのはごめんだったので、わたしは鈴木さんに自分の足で帰ることを告げ、鈴木さんを減俸にしたら学校であることないこと言いふらすと脅し文句を記した紙を鈴木さんに持たせ、これを熊男に渡すよう言い含めた。
 男としてのプライドを多少なりとも持っているならこれで鈴木さんに罰を与えたりはしないだろう。
 わたしは心配そうな鈴木さんに笑顔を見せて、今朝通ってきた道を歩き始めた。
 この時間の通学路は人が少ない。登校時と下校時に埋め尽くされる制服姿がないのだから当然だろう。
 しばらく歩いて大通りに出たところで、わたしはファミレス前の茂みに不審な人影を発見した。
 深く帽子を被ってしゃがみ込み、茂みの影に隠れながらも大通りをちらちらと覗き込んでいる。怪しすぎる。不倫調査でもしてる探偵だろうか。
 わたしはありがちなドラマを想像しながらその前を通り過ぎようとしたが、帽子の下にちらりと見えた顔に見覚えがある気がして立ち止まって振り向いた。今度は遠慮なくまじまじとその顔を見て確信する。
「……麗?」
「……え? 円?」
 帽子を被った不審人物のその正体は、高校生活においてわたしに初めてできた友人である美少女こと、清水麗華だった。



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