あっ! と思う間もなくわたしは盛大に転んでしまった。そして額と腹部に衝撃を受ける。
「ぐふっ!」
うう。痛い。
でもよかった頭が落ちた先に石とかなくて。せっかく今朝命拾いしたのに死ぬとこだった。まぁ死神来ても追い返すけどね! 新聞の勧誘を追い返すわたしの演技はなかなかのものだからね! ふむ。だけどなぜか腹部にニードロップを受けたような息苦しさが……。
と思って盛大にずれていた眼鏡を直し顔を上げると、すぐ近くに見知らぬ男の顔があったので驚いた。
うちの高校の制服を着たその男は、けれど進学校と呼ばれるこの高校には考えられないほどの金髪だった。ハーフとかではなく、不良的な金髪だ。いわゆるヤンキー。だって、煙草吸ってるし。
どうやらわたしがつまずいたのは彼の足だったようで、わたしはその不良の膝に腹を乗せて倒れている状態だった。現状を理解したわたしは、慌てて立ち上がってその場を去ろうとした。
「失礼しましたー」
せっかく熊と女子の集団から逃れてきたのに不良に関わってはたまらないと思って風のように消え失せようとしたのだけれども、不良はがしりとわたしの腕を掴んでそれを止めた。
うぐ!
「ちょっと待てよ」
あああ。今日ばかりはこの右腕が憎い。一度ならずも二度までもわたしを面倒ごとに巻き込んでくれるなんて。あ、でも今朝王治に引っ張られて助かったのもこの右腕か。はあ。何事も一長一短なのね。
わたしは意を決してくるりと振り向くと、にっこりと微笑んだ。
「煙草吸ってたことは言いません。入学式に間に合わないので離していただけますか?」
不良は義理堅い奴が多いから正直なカタギにはあまり手を出さないって孝重郎が言ってた。
しかしわたしの腕を掴んだままのその男子生徒は、じろじろと無遠慮にわたしを眺めて怪訝そうな顔をした。
もしこれでわたしが超キュートな女子高生だったら恋愛フラグかと小躍りするところだけれども、残念ながらわたしは剛毛で頑固な黒髪をしめ縄を意識してまとめただけの眼鏡をかけたダサ娘だ。鏡を見て自分けっこうイケてるじゃんて思ったことはこれまで一度もないし、これからもそうだろう。
でもいいの! 楽しいハイスクールライフに上等な外見は邪魔なだけよ! 大衆に埋もれてしまうくらいが友人を作る上ではちょうどいいのだ。美女は無駄に敵を作るからね! まぁわたし美女じゃないのにすでに女子を五人敵に回したけどね!
「入学式……? でもお前、八木原だろ……?」
楽しいハイスクールライフに早くも立ちこめた暗雲にわたしがちょっと落ち込んでいると、まだわたしの腕を掴んだままの男子生徒が妙な確信を込めて言った。
「……そうです、けど……?」
なんでわたしの名前知ってんの? 魔法使い?
「一年の時同じクラスだった安西だよ。……まぁ覚えてないのも無理ねぇか。お前すぐ学校来なくなったもんな」
ええー!
まさか去年のわたしを覚えてる人がいるなんてー!
だってわたし自分が言うのもなんだけどかなり影に隠れて生きてたし。ゴールデンウィーク以降学校に行ってなかったし。生きる屍のようだったし。てゆーか安西って誰だよって感じだし。
「あ、もしかして留年?」
あー。不良って本当遠慮とか知らないのよね!
「君に関係なくない? それ」
わたしはことさら笑顔を作って顔面に貼り付けると、ばっと右腕を取り返して鞄を持ち直した。
「ほんと煙草吸ってたことは言わないんで。じゃ!」
と言い捨てて走り出す。
安西だか安産だか知らないけどできれば二度と会いたくない、とわたしは思った。
去年のわたしは完全な黒歴史だ。思い出したくないし思い出してほしくない。けれど去年のクラスでのわたしを知っている奴にでくわしてしまったことによって、忌々しい事にわたしの脳は簡単に記憶を掘り起こすのだ。
保健室の場所は覚えてる。去年は学校がつまらなくて仕方がなくて、よく寝に行ってたから。
あの頃のわたしにとって、孝重郎のいない場所は色の消えた世界のようだった。孝重郎のいるところだけがカラフルで、光に満ちていて、素晴らしいもののように思えたのだ。だからいつも早く家に帰りたかった。
そして孝重郎に抱きしめて欲しかった。優しくわたしの名前を呼んでほしかった。
『円』
と。
あの声で。