10.「早退させられる」

 その時のわたしの救いの神は清水麗華だった。
「ん? あれ? 円ー? いないの?」
 という声が開け放たれた男子トイレの扉の向こうから聞こえたのだ。
「いいいいいます! ここにいるよ!」
「あ、馬鹿」
 思わず後先考えずに存在を主張したわたしを、目の前の熊男が罵倒する。馬鹿とはなんだ馬鹿とは。ひとを馬鹿って言う方が馬鹿なんですぅ!
「え? こっち?……って、え?」
 すぐ近くで清水さんの声がする!
 全然見えないけど! このもごもご動いてる感じがするのがそうかな!
「円大丈夫!? な、なんか誰か倒れてるけど……どうしたの? 何があったの?」
「え、ええとお」
 それはともかくトイレに行きたいんです!
「あの、円何かされたんですか?」
 清水さんが駆け寄ってきて、わたしの肩に触れる。話してる相手はたぶん熊男だ。
「いや、なんもされてねぇと思うけど……一応あんた、こいつ保健室にでも連れて行ってやって」
 そ、れ、よ、り、ト、イ、レ、だ!
「え、あの」
 と清水さんが止めようとするが、熊男は「いいから、そんでお前は保健室で待ってろ」と(多分わたしに)言い捨てて男子トイレから去って行った。
「……ええと、あれ、綾小路先輩だよね? 円どうして……」
「清水さん!」
 わたしはがしっと清水さんの腕(だと思われる箇所)を掴んだ。ああ女子って柔らかいな……とか思ってる場合ではない! もうマジやばい。お願い助けてマイエンジェル!
「あのねわたし目が悪くてね、でもさっき二年の不良に絡まれて眼鏡が割れちゃって今視界ゼロでねそんでもって実はまだトイレに行ってないの!!」
 といきなりとんでもない告白をされた清水さんから絶句した気配が伝わってくる。うう。駄目かなこんなわけわかんないこと言う女子とはもう絶交かな。でも絶交でもいいからお願い今はトイレに連れて行って! とわたしが切実に願っていたのが伝わったのか、清水さんは我に返ると「ト、トイレね! わかった!」とすぐわたしを隣の女子トイレに連れて行ってくれた。
 ありがとう!
 本当にありがとう!
 トイレがあるってこんなに素敵なことだったんだね! 世界にありがとう!!





 そんなこんなですっきりしたわたしはとっても落ち着いた気分で清水さんに連れられて保健室にやってきていた。
 そこには昨日わたしの膝の治療をしてくれた保健の先生がいて、特に他に怪我をしたところのないわたしはとりあえず昨日のガーゼを換えてもらうことにした。
「あらまぁ、落として眼鏡割っちゃったの」
 と傷からガーゼを剥がしながら先生が言う。っていうかいたたたたた。地味に痛い。
 トイレから出たあと念のため清水さんに確認してもらったら、男子トイレで昏倒してた三年は既に消えていた。多分意識を取り戻してどこかへ行ったのだろう。自分を置いて逃げた他の二人と喧嘩とかになってるかもしれない。いやむしろ喧嘩して二人をぼっこぼこにしてくれたらいい。あいつらマジ次会ったら潰す。
 あああ、でも本当にどうしよう……。
「家に帰ったら予備の眼鏡あるんでしょ? タクシーで帰るしかないんじゃない?」
 と保健室まで付き添ってくれた清水さんが言う。
 わたしは清水さんにはトイレでの喧嘩のことを話したが、示し合わせて保健の先生には言わないことにした。大事になって巻き込まれても嫌だし。最終的に主に暴力ふるったのはわたしとあの熊男だったし。さすがに今度は暴力沙汰で二回目の留年とかなったらもう一回高校生活やり直す気力ないし。
「やっぱ帰るしかないかなぁ」
 とわたしは肩を落とす。せっかく楽しいハイスクールライフを漫喫してたんだけどなぁ。
「危なそうだから私付き添おうか?」
 という清水さんの提案にわたしはびっくりする。
「え? そんな大丈夫だよ! 悪いし!」
 この子美少女なのに本当にいい子だな! 目から鱗が落ちそうだ。笑顔が眩しすぎる。私が男だったら今ここで告白してる。
「別に私は全然平気よ。じゃあ先生に言って鞄取ってくるから円はここで待っててね」
 しかも行動が早い!
「え、ちょ待っ……」
 わたしが制止する前に、保健室の扉ががらりと開いた音がした。
 ……ん? 誰か来た?
「おう。怪我ぁなかったか?」
 熊男だ!
 とわたしはすぐに気付く。
「あれ、綾小路君じゃないの。あなたここで何やってるの?」
 わたしの膝に新しいガーゼを貼り終えた保健室の先生が、熊男を見て言う。
 本当ですよね。普通なら二年生は部活紹介か教室で委員会決めとかやってるはずですよね!
「綾小路先輩」
 と清水さん。
「あんたこいつと同じクラス?」
 おいおい熊男。よりにもよってこちらの顔も性格もいい最高のエンジェルに向かってあんたはないだろうあんたは。
「そうですけど、あの」
「じゃあ担任に言っといて。こいつ早退するから」
 へ?
「おい、お前の鞄これ一つでいいな」
 そう言われたかと思うと、どさりとわたしの膝の上に何かがほおり投げられた。……ええと、この手触り、大きさ、形状は……わたしの通学鞄だ! ピンポンピンポーン!
「え、なんでぎゃー!」
 教室のわたしの机の横にかけておいたはずのこれがどうしてここに、と問おうとしたが、突然身体がふわりと持ち上げられてその問いは悲鳴に変わった。
「ちょ、な、え」
「行くぞ」
 という熊男の声がびっくりするほど近くで聞こえる。
 ええええええええと! 膝裏と背中のあたりから肩にかけてと主に左半身に他人の体温を感じますどうぞ! ってゆうかゆさゆさ持ち運ばれてるうううう!
「お、降ろして!」
 お腹の上に乗ったままの鞄をぎゅうと掴んでわたしは悲鳴を上げた。
「あ? でもお前何も見えねぇんだろ?」
「だとしても降ろせ!」
 常識で考えろ! 校内で女子生徒をお姫様抱っこして歩く男子生徒がどこの三次元にいるって言うんだ!!
「うるせぇなぁ。黙って運ばれてろ」
 おおおなんという暴君!
「い、い、か、ら、降ろせええ!」
 とわたしは腹筋を使って起き上がりあたりをつけて頭突きした。
 ごいいんという音がして頭が一瞬真っ白になる。い、痛……けど、熊の足取りが止まった! チャンス! 落ちて尻餅つくことは覚悟で、わたしは熊の手から逃れようと暴れた。が、次の瞬間にはそれができないほど強くわたしの身体は固定されてしまう。
「……!」
 ……顔が、近い!
「……おーまーえーは」
 低い声で言ってわたしを睨みつけてくる熊男の顎が赤い。う。痛そう。ごめんなさい。
「いいから黙って運ばれてろ!」
「……はい」
 なんだか申し訳なくなってわたしは大人しくなった。
 ええと、それにしてもわたし達はいったいどちらへ向かってるんでしょうか? と思っている間にも熊男はすたすたと歩いて行く。
 すでに校舎から出ていることにわたしは気付いていた。え、まさかこのまま家まで連れ帰ってくれるわけじゃないよね……? と思っていると、熊男は正面にあるなんだか黒くて大きいものに近付いて行ってその扉を開けた。
 車だ。
 そう思った時には、わたしはその後部座席に降ろされていた。
「あ、あの……」
「眼鏡屋に行くよう言ってあるからそこで新しい眼鏡作れ。金は俺が払うから」
 は?
「え、ちょ」
「頼んだぞ、鈴木」
「はい、玄様」
 熊男と運転手とおぼしき人が言葉を交わすと、車の扉はバタンと閉められてしまってわたしの言葉は宙に浮いた。
 やがて車が静かに発進する。
 わたしはまだ状況がよく理解できなかった。
「あ、あの……」
「お話は玄様から伺っております。災難でございましたね。私は鈴木と申します。八木原様が今日無事ご帰宅されるまでは見届けるようにと玄様から仰せつかっておりますので、何かあればおっしゃってください。眼鏡を作った後寄るところはございますか?」
 玄、様、だと……?
 しかもこの車の座席の滑らかでふこふことした感触……これはまさか……。
「すみません、この車ってもしかして……」
「は?」
「車種を教えていただけますか?」
「ベンツでございます」
 で、でたーー!
 え、ちょ、どういうこと!?
「……あの、熊……じゃなくて綾小路先輩ってその、裕福な方なんですか?」
 わたしの不躾で直球な質問に、けれどいかにも温厚そうな運転手さんは少しも不愉快そうでなくこう答えてくれた。
「玄様は綾小路グループ総帥の一人息子でいらっしゃいます」