11.「不在の間に放送委員に任命される」

 昨日割られた眼鏡はわたしが持ってる唯一のおしゃれ眼鏡だった。
 中学に入学した時、母がお祝いにと買ってくれたのだ。なんでいきなりこんなん買ってくれるんだなんかあるのか? と警戒していたら、その後ウメのやつわたしを実の父親に押し付けて姿をくらましやがった。本当にあの女はクソババアだ。
 そういうわけで、あとわたしが持っているのは小学生の時に使用していたビン底眼鏡だけだった。まぁちょっと度数が合わないけどないよりマシだと思ってそれをかけて家を出る。
 履いているのは黒のローファー。
 ……はあ。
 昨日自分が履いているのが上履きだと気付いたのはベンツが発進して大分経った時だった。仕方がないので今日は上履きを紙袋に入れてとっておきのローファーを履いて出たんだけど、すごく憂鬱。
 このローファーはこれまた高校入学のお祝いに孝重郎が買ってくれたやつで、あまりに嬉しかったわたしはそれを特別な時だけに履くのだと決めていたのだ。高校なんて危険な場所に持って行ったら、どんないじめにあって靴を隠されたり汚されたり泥まみれにされるかわからないじゃないか。
 それなのに他に学校に履いて行く靴がないなんて!
 危険は登校中にだって転がっている。犬の糞、車が横を通った時にはねる泥、ぎゃーぎゃー騒ぎながら走ってくる小学生に足を踏まれる可能性だってある。
 そういうわけでわたしはその日細心の注意を払いながら登校し、学校に着く頃には大分疲れてしまっていた。
 それでもここまで何事もなかったことに安堵しながら、昇降口のところで上履きを出して脱いだローファーを丁寧に紙袋の中に入れる。よし。これでこの紙袋を今日一日持ち歩けば変な被害にあうことはないだろう。
 そう頷いた時、「八木原さんおはよー」と声をかけられた。
 顔を上げると、そこには小金丸君が立っている。
「あ、おはよう」
 昇降口でクラスメートと挨拶などしたことのないわたしは一瞬びっくりしてしまった。自然な流れで二人で教室に向かうことになる。ははーん。今まで一緒に教室に入ってきた子達は登校中に待ち合わせとかしてんのかなすごいな思ってたけど、こうやって偶然昇降口で一緒になるケースもあるのか。なるほど。
「昨日どうしたの?」
「え?」
 これまでの疑問が解けて一人納得していたわたしは、彼の質問に対する反応が一歩遅れた。
「早退したでしょ?」
「……ああ、ちょっとね」
 暴力沙汰はあまり話題にしない方がいいだろう。暴力女だと思われてもやだし。
「眼鏡どうしたの?」
「うん、ちょっとね」
「あ、委員会だけどさ、八木原さん清水と同じ委員会だよ」
 なぬ!
「え、本当!?」
 そういえば昨日は委員会決めがあったのだ! あの性格のいい天然記念物的美少女と同じ委員会なの!? やったー!!
 わたしが喜色を全面に押し出しているのを見て、小金丸君は笑う。
「うん。どうせなら知ってる子と同じ委員会がいいだろうって、清水が希望者欄に一緒に名前書いてたから」
「うわー。やった! すごく嬉しい!」
「あはは、そう言ってもらえると清水も喜ぶと思うよ。余計なことだったかなーって言ってたからさ」
 いやいやいきなり知らない人と小さな籠に入れられて交流図れるほどわたし対人スキル高くないので。知ってるっていうか、と、も、だ、ち!が一緒なら委員会も怖くないわ!どーんとこい!
「ちなみになんの委員会?」
「放送委員だよ」
 その瞬間、わたしはぴしりと固まった。
「……」
 ……な、ぬ!?
「え? マジ?」
「うん。マジ」
 と彼はごそごそと鞄から一枚の紙を取り出した。
「これ一応昨日決まった委員表。田崎先生がすぐコピーしてきてくれたんだ」
 わたしは小金丸君から紙をひったくってまじまじと見た。
 あーなるほど。
 小金丸君の言うとおり放送委員の欄にはっきりと八木原円と書いてあるね。
「……」
 わたしは一気に落ち込んだ。
 いや無理だよ。あんな自分の肉声を全校生徒に届けなきゃいけないような委員会なんて絶対わたし向いてないよ。あ! そうだ! せっかく清水さんが一緒なんだから、そういう花形的なアレは美少女にお任せしてわたしはそのマネージャーに徹すればいいんじゃないか!? 飲み物買ってきたり肩もんだりスケジュール管理したりさ!
 とわたしが一人沈んだり浮いたりしていると、隣で小金丸君が「あれ? 綾小路先輩」と声を上げた。
 そこはもう一年生の教室前の廊下で、普段ならこの時間は廊下でも生徒達がわいわいお喋りに興じているものなのだが、今日は少しひっそりとしている。その原因がそこに立っていた。
「よお」
 われらが一年B組の教室の前に陣取っていらっしゃるのは誰あろう昨日の熊男である。
 ……お前みたいな体格のいい二年がそんなところに陣取ってたらピュアな一年生達がびびるだろうが! とわたしは心の中で罵倒した。
「どうしたんですか?」
 と小金丸君が話しかけるのを、周囲の一年生達が興味津々でちらちら見ている。もしかして、皆知ってるのかな。この熊が超金持ちの息子だってこと。自家用車はベンツだってこと!
「ああ、ちょっとそこの女に用事があってな」
 熊男がにこにこと笑いながら小金丸君の一歩後ろに下がっていたわたしを指差すので、わたしは心の中で、わたしに用事があるんなら靴箱に手紙でも忍ばせとけやこんなところだと目立つだろ馬鹿野郎、と罵倒した。
 そして同時に、愛想よく答える。
「昨日はわたしが勝手に転んで眼鏡が壊れて困っているところを助けていただいてありがとうございました。おかげさまで無事自宅には帰れましたのでどうぞお気になさらず。それでは失礼いたします」
 三年に金的したことを暴露されてはたまらないとばかりにそう言って、わたしがそそくさと教室に入ろうとしたところを熊男は逃そうとしなかった。後ろの襟首をつかまれて「ぐえ」と変な声を出すはめになる。
「お前、新しい眼鏡はどうした?」
 わたしは肩越しに熊を睨みつけた。熊はまるで面白いおもちゃを手にした子供ような顔でこちらを見ている。なんだこいつ!
「……あんな高級眼鏡奢ってもらえるわけないだろ!」
 とわたしは小声で怒鳴った。
 そう、結局昨日わたしは新しい眼鏡を作らなかった。
 運転手の鈴木さんとやらに連れて行ってもらった眼鏡屋は、なんかスーツ着た人が中にいるいかにも高級そうな特注しかここ作ってないんじゃないか的な眼鏡屋さんだったので、「いやいや本当いいですわたし特殊な金属アレルギーで特殊な眼鏡じゃないとかけられないんで家に予備あるし本当に大丈夫です」とかわけのわからん言い訳をして眼鏡を買わずに家に送ってもらったのだ。
 なんだそれが気に入らないのか。俺の酒が飲めねぇのか的なあれか!? でも他人にあんな高い眼鏡買ってもらう理由ないし! わたしそういう良識のあるきちんとした真面目なお嬢さんだし!
 とわたしが睨み返していると、
「ははぁ、なるほど。よくわかった」
 熊はそう言ってぱっとわたしから手を離した。
 ……おや?
 わたしが拍子抜けしている間にあっさりこちらに背を向けて、さようならの一言もなくすたすたと一年の廊下を去って行ってしまう。
 ……なんだあいつ。
 その背中を睨みつけながらわたしは襟をなおした。うう。皺になってないかな。
「八木原さん、昨日綾小路先輩と何かあったの?」
 小金丸君が首を傾げて聞いてくる。
「うん? わたしが自分で勝手に転んで眼鏡壊して困ってたところをちょっと助けてもらったんだよ」
 それだけだよ。それ以上ないよ。嘘じゃないよ。という眼力を込めてわたしが答えると、小金丸君は「ふーん」と言ってにこりと笑った。
「でも綾小路先輩、ずいぶん八木原さんを気に入ったみたいだね」
「は?」
 なんで?
「綾小路先輩って自分に逆らう人間嫌いなんだよ。昔インネンつけてきた中学の先輩半殺しにしたって噂あるし」
「は、はんごろし?」
「うん。電車の中でガンつけてきたサラリーマンぼこぼこにしたところも見たことあるよ。まぁ言いがかりだったんだけどね」
「……」
 あの熊の周囲の立ち入り禁止区域を直径五メートルに拡張しよう。
 とわたしは心に決めたのだった。