21.「再び熊に捕まる」

 帰りたい。
 そう心から思ったが、窓際に座っているわたしの隣に熊がどかりと腰を降ろして退路を塞いでしまっている。ううう。
 周囲のお客さんがわたし達を見ないようにしているのがわかるわー。
 そりゃ怖いよね! 男三人が殺気を放ちながら睨み合ってるんだもんね!
「おめぇ名前はなんてぇんだ?」
 まー君口調がヤクザになってるよ!
「勝手に円の隣に座ってんじゃねぇよクソガキ」
 みさをちゃんキャラ違うよ! 変態キャラにチャンネル戻して!
「俺がどこに座ろうが勝手だし、あんたらに名乗る義理もねぇよ」
 そしてお前はもっと目上の二人に対して礼儀正しくしろおおお!
 とわたしは熊男に怒鳴りつけたかったがそれだけの気力がなかったのでただコーヒーをすすった。これはあれだ。空気に徹するしかない。わたしは空気。身体のほとんどは窒素と酸素でできています。
 しかし熊のその暴言に対して昔町田北高校(この辺りでは有名な不良高校だよ!)の四天王としてブイブイ言わせていたヤクザと茶髪大学生は、同時にガタリと立ち上がった。近くのお客さんがびくりと肩を震わせる。ごめんね! びびらせてごめんね!!
「表出ろや」
「二度とそのエロい目で円の顔を見れなくしてやんよ」
「いやいやいや二人とも相手高校生だから! てゆうかエロい目でなんて見てないから!」
 わたしが慌てて二人を止めると、熊が平然とした様子でこちらを見て言う。
「いや、結構見てるぞ」
「その告白今いらないし!」
 空気読めよ!
「てめぇ殺すぞ!」
「みさをちゃん落ち着いて!」
 誰か助けて! とわたしが半分泣きそうに思いながら今にも飛びかかりそうなみさをちゃんを抑えていると、みさをちゃんの隣にいたまー君がちっと舌打ちをしてポケットから小さな機械を取り出した。あ! それはもしかしてポケベルってやつか!? わー。本物初めて見たー。まー君時代の最先端いってるね!
「呼び出しだ」
 ヤクザの呼び出しってなんかこわいよね!
「行けよ誠。俺はこのクソガキしばいておくから」
「あほか。大の大人が本気で高校生相手にしてどうすんだよ」
 あ、なに? まー君は本気じゃなかったの? いやー。わたし騙されちゃったなー。本気でこの熊を刺し殺して剥製にでもしようとしてるのかと思ったよ。えへ!
「ああ? だけどこいつ絶対ぇ普通のガキじゃねぇよ? 少しも顔色変えやがらねぇしよ」
 うん。普通じゃないことは間違いないよね。みさをちゃんが鼻の頭にものすっごい皺寄せてこっち睨んできてるのに綺麗に無視して「おい円」とか話しかけてくるしね。
「これお前の水か? ちょっと飲ませろよ。喉乾いてんだ」
「だから空気読めよ! くま……綾小路先輩!」
 返事を聞く前にコップの水を飲んであまつさえゴリゴリと氷を噛み砕き始めた熊に、わたしは小声で怒鳴りつけた。危ない危ない。今度こそ熊って呼んじゃうところだった! ほとんど呼んじゃったけどなんとかごまかせたよね! タメ口使ったのも気にしないでね!
「あのなぁみさを」
「黙れよ誠。俺ぁこいつをちょっと痛めつけてから……」
 ガシャン!
 という音はみさをちゃんの前にあったコーヒーカップが倒れた音だ。まだ結構残ってたコーヒーが溢れてテーブルを濡らす。
 みさをちゃんはというとまー君に胸倉を掴まれて間近でメンチを切られていた。
「円に迷惑かけんなって言ってんだよ俺はよ。お前一人で残らしたら何するかわかんねぇだろ? ああ?」
「……」
 こ、こわー!
 まー君こわー!
 わたし鳥肌たったよ!
 みさをちゃんすぐ謝って! 視線で殺されちゃうよ!!
 そう思ったが、熊男は隣でガリゴリと緊張感のない音をたてて氷を噛み砕いている。お前ちょっとうるさいよ!
 今にも二人が乱闘を始めるんじゃないかとわたしはどきまぎしていたが、しかしみさをちゃんが思いのほか大人しく、「……そりゃそうだな」と答えたので周囲の空気はふっと柔らかくなった。うおー。よかったー。二人が乱闘なんて始めちゃったら止めるにはこの椅子で殴るくらいしかないなと思ってたところだったからよかったー。
 みさをちゃんの言葉を聞いてまー君もすぐ手を離す。この表情の切り替えがなんかプロってかんじ!
「じゃあそういうわけで先に行くわ。金は払っとくから。円、なんかあったらいつでも俺達を頼れよ。なんでもするからな」
「う、うん! ありがとう」
 しかしまー君ヤクザになってからなんか前より凶暴になったね!『殺戮姫』ってあだ名が可愛く思えてきたよ。今なら『拷問虐殺姫』とか『残虐非道姫』とかでも合いそうだね。
「じゃー円ぁ、俺も行くわ。処女捨てたくなったらいつでも言えよ」
 言うか! てゆうかなんでわたしが処女だってみさをちゃん知ってんだ! 処女探知機でもついてんのか! ……みさをちゃんならついてそうで怖いから聞かないでおこう。
 そうして二人はレジで支払いを済まして(正確には財布出したのはまー君だけだったけど。まー君てば五千円出して迷惑料だから釣りはいらねぇって言ってた! かっこいい!)静かにお店を出て行った。カランカランとお店の扉についたベルが鳴って一拍すると、店内に喧噪が戻ってくる。店員さんがおずおずと近付いてきて倒れたコーヒーカップを回収して溢れたコーヒーを拭いてくれたので、わたしは「あ、すみません」と謝った。
 ……。
 てゆうか気まずいし店出るか。
「じゃあわたしも帰りますね」
 だからどいてくれ、と心の中で言って熊を見ると、氷を噛み砕ききった熊は「お、そうか?」と言って立ち上がった。
 ……やっぱり一緒に店を出るのか。残っててもいいのに。
 そうしてわたし達も店を出たのだった。
 外のひんやりとした空気に触れて、わたしは深くため息をつく。はー。あの店二度と行けないな。結構美味しかったんだけどなー。残念だわ。
 まぁステーキ食べれたしいっか。帰ろう帰ろう。
「じゃあわたしこれで失礼しますねー」
 とわたしは笑顔で爽やかにその場を去ろうとしたのだが、熊にがしりと腕を掴まれてそれを邪魔された。
「……俺が大人しく帰らせると思うか?」
「……どうして帰っちゃいけないんでしょう?」
 残念ながらわたしにゃあんたの言うこと聞かなきゃいけない理由なんてないのよ。わかる?
「なぁ、さっきの誰だ?」
「どうしてその質問に答えなきゃいけないんでしょう?」
 わたしはにっこり笑った。熊は怒るかと思ったが、予想に反してははっと声を上げて笑う。
「お前本当面白ぇな。俺に張り合うつもりか? いいぜ。お前が俺に従順になるまでどこかでじっくり調教してやってもよ」
「兄の友人です」
 わたしはすぐに答えた。従順? 調教? なにこいつヤバすぎるでしょ! みさをちゃん戻ってきて! 変態には変態しか対抗できないかも!
「兄貴? ってぇと生徒会の?」
 は?
「……舜のこと?」
「ああ。お前の兄貴なんだろ?」
「どうしてそれを知ってるんですか?」
 あんたもしかしてわたしのストーカー?
「王治に話しただろ」
 ……まぁ確かに話したわ。
「ずいぶんと仲がいいんですね」
 王子に言ったことは熊に伝わるのが当然なのか! こいつら付き合ってんじゃないか? うわわ! ありそう! 王子とか女子に騒がれるの面倒みたいなこと言ってたもんね! はー。ホモって本当にいるんだなー。初めて見たわー。
「ああ。あいつ俺がお前のこと気に入ってんの知ってるしな」
「気に入ってくださらなくても結構ですよ?」
 部活も王子と麗をくっつけたらさっさとやめますし。不祥事でっちあげてから。
「まぁそう言うなって。さーてどこで調教されたい?」
「どこでも嫌です!」
 てゆうかいい加減腕離せよ! 悲鳴上げるぞ!
「あ、そうだ。いー場所あったな。裏路地にあって、何時間でもいられて、人の少ないところが」
「ちょ!」
 誰かー! 殺されるー!
 と叫ぶ勇気もないわたしは、熊に半ば担がれるようにして拉致された。
 はー。
 世の中って駄目な男ばっかりね。
 こんなか弱い女子が明らかに嫌がってるのに助けようという奴が一人も現れないなんて。
 孝重郎だったらきっとそんなことはないのにな。
 まぁ女子助けても孝重郎は顔が怖いからその女子も逃げていっちゃうと思うけど。わたしだったら逃げないのにな。抱きついてキスくらいしちゃうかも。でもきっとそうしたら、孝重郎は真面目な顔でこう言うだろう。
『円。女の子が往来でそういうことをするものじゃない』
 一つ屋根の下で二人きりで暮らした時期があったというのに、孝重郎はわたしに手一つ出してこようとはしなかった。
 それはわたしに性的魅力がなかったというわけではなく、孝重郎が真面目で不器用な人だったからだ。
『そういうことはお前が成人してからだ』
 孝重郎は説教をたれる父親みたいにそう言った。
 それを物足りないと感じることはもちろんあったんだけど、大事にされてるって気がして嬉しくもあったのだ。
 わたしが乞うと、孝重郎はとろけるように笑って
『ああ。好きだよ、円』
 とそう言ってくれた。
 それだけでわたしは、世界中のすべてを許せる気になったものだった。