22.「煙草の匂いが服につく」

 そこはひどく荒廃した匂いをぎゅうぎゅうと押し込めたような場所だった。
 ぴゅんぴゅんと空虚な音が響き、行き場のない鬱屈とした感情が漂っている。
「ゲーセンじゃないのよ」
 連れて来られたのが人の少ない裏路地のゲームセンターだったのでわたしはいささか拍子抜けした。倉庫にでも連れて行かれて噛み殺されるのかと思った!
「お前対戦するか?」
「遠慮します」
 わたしは首を振って断った。すると熊が子供のような顔でこちらを見てくる。
「やったことないのか?」
「あるけどやりません。あの、手を離してくれませんか?」
「離したらお前逃げるだろうがよ」
「……逃げないので離してください」
 そう言うと、熊は少し考えるように視線を彷徨わせてからわたしを見てにかっと笑うと、「逃げたらただじゃおかねぇぞ?」と言ってから手を離した。
 ……今の完全に脅迫だよね? ね? 目は笑ってなかったよ。逃げたら追いかけて噛み殺す気満々の目だったよ今!
 わたしはずっと握られていた左の手首をさすった。
 うう。少し赤くなってる。鈍く痛いし。痕になったりしないよね。手形の痕なんてホラーだよホラー。
「じゃあお前そっち座ってろよ」
 熊はそう言って対戦ゲームの前の椅子に座ると、隣の椅子をわたしに向かって指差した。するとわたしが座るのを待たずにポケットから小銭を取り出して勝手にゲームを始めてしまう。
 出入り口はすぐそこだ。逃げようと思えばすぐ逃げられる。けれどわたしはため息をついて熊の隣に腰を降ろした。クッションのきいていない椅子は座り心地が悪い。
「……綾小路先輩、こういうところ来てていいんですか?」
 高校ではゲームセンターの出入りが禁止されているが、そんなのを守っている生徒は全校の四割といったところだろう。進学校と言われるうちの高校でも、子供達は自分達の息抜き方法をよくわかっている。
「ああ? なんで?」
「すごいお金持ちらしいじゃないですか」
 それでも漠然と、金持ちはこういうところに来ないんだろうというイメージがあった。ここは、他に遊ぶ方法を知らない子供や何かを発散したい大人が来るところだ。
「関係ねぇだろ」
 しかし熊男はそう言った。
「そうなんですか」
 熊男はどうやらそれなりにそのゲームをやり込んでいるらしかった。慣れた様子で両手を動かし、やがて画面には「YOU WIN」の文字が踊った。
 わたしが黙ってそれを見ていると、熊がこちらを見て言った。
「お前、諦めた方がいいぜ。俺は、欲しいものは手に入れる主義なんだ」
 画面では次の対戦に移っていたが、熊はもうそちらには興味をなくしたかのようにただじっとわたしを見ていた。熊の選んだムキムキ男のキャラクターはインド系の対戦相手にぼっこぼこにやられて倒れる。ムキムキ男は何度倒されても諦めずに立ち上がってファイティングポーズを取り続けた。どんどん減っていく体力ゲージなど意味のないものみたいに。
「わたしは、他人の命令には従わない主義なんです」
 まだ子供だったから大人の言う通りに生きるしかないと思っていたけれど、必ずしもそうする必要はないと教えてくれたのは孝重郎だった。
 お前には両の脚があるのだと。自分で歩くことができるのだと、教えてくれたのは孝重郎だったのだ。
「面白ぇじゃねぇか」
「別に面白くないです」
「面白ぇよ」
 わたしは息を吐いた。
「どうしてですか?」
「ああ?」
「どうしてわたしなんですか?」
 わたしの何がこの熊男の興味をそんなにも引いたのかわからなかった。
『でも綾小路先輩、ずいぶん八木原さんを気に入ったみたいだね』
『だって……あの綾小路先輩がそこまでするなんて』
『だから玄は君のことをとても気に入ったみたいなんだ』
 皆がそう言うけど理解できない。
『お前は今日から俺様の下僕だ』
 ただ気の強い女を虐げたいだけなのだろうか。
 それなら他を当たって欲しい。わたしは別に気が強いわけじゃない。
 ただ孝重郎やまー君達とつきあってきたせいで怖い顔に免疫があって、さらに少し頭に血が上りやすくて護身術をかじっているだけの、いたって普通の一山いくらの女子なのだから。
「理由なんかねぇよ」
 しかし熊男は言った。
「理由がいるか? 俺がお前を気に入ったんだ。ただそれだけだよ」
 話が違うじゃないか、王子め。
 わたしはそう心の中で行武王治を罵った。
 この熊に謝る機会をやって欲しいと言われたけど、熊はわたしに謝る仕草一つみせやしない。
 しかし同時にそりゃそうだろうとわたしはわかっていたのだ。
 熊は別に悪くない。熊は別に、何も悪くなかったのだから。
「……この間は、八つ当たりしてすみませんでした」
 わたしは頭を下げた。
 わたしのあの時の激情に、熊はなんの関係もなかった。
 ただわたしが勝手にローファーを落として、混乱して、悲しくなって、世界中が私にそっぽを向いてしまったような気持ちになっただけだ。それなのに熊がじっとわたしを見ていたからいたたまれなくなったのだ。
 逃げ出したくなった。
 わたしを理解しようとするその眼から。
「……」
 わたしが顔を上げないでいると、熊はわたしの額を押すようにしてぐいと頭を上げさせた。思いの他近くに顔があって驚く。眼鏡を割った時以来の近距離だ。
「許して欲しいなら、部活に来いよ」
 熊は言った。
「お前に損はさせねぇから」
 そして熊はまた、子供のように無邪気な顔で笑う。
 その表情がどうにもゲームセンターの鬱々とした籠った空気にそぐわなくてわたしは息を飲んだ。同時に唐突に呼吸の仕方を忘れる。
「……」
 わたしはそっと熊の手から額を離した。
 がたりと音をたてて立ち上がる。
「わかりました。今日は、帰ります」
 そう言い置くと、わたしは熊の返事を待たずにその場から駆け出した。
 外の清浄な空気に触れると、今まで自分がいた場所の匂いが際立つ。やがて走っていられなくなって電柱の側で立ち止まるとわたしはその場に蹲った。煙草の匂いが鼻につく。
 どうしてだろう。
 記憶を捲るようにしか思い出さなかった孝重郎の存在を、あの男の側にいるとまるですぐそこにいるかのように鮮明に感じる。
 ゲームセンターに初めて連れて行ってくれたのも孝重郎だった。
 ある土曜日。義理の母親に家中の靴を洗っておけと言われたわたしを彼が連れ出したのだ。そこでまー君達を紹介された。
『うわー。孝にこんなかわいい妹がいたなんて知らなかったー』
『こないだの子だよね。名前は?』
『円』
『へぇ。可愛い名前だな』
『適当に遊べ。でも俺からは離れるなよ』
 孝重郎はそう言って私に百円を三枚くれた。後で聞けば、彼のあの日の所持金は四百九十六円だった。
 孝重郎。
 あなたがいなくなった時、わたしの世界は終ったと思ったの。
 けれどそうじゃないのね。
 あなたがいなくても地球は変わらず回ってる。
 それがひどく苦しくて悔しくて悲しくて、ずっとずっと動けなかった。
 けれどあなたがわたしに歩いて欲しいと願っていると知ったから、歩き出すことにしたの。
 あなたを記憶の奥に押し込んで。
 舜の憎悪を受け止めて。
 ただ前だけを見て歩いて行こうと決めたのに、どうしてなの?
 あの男の声が、目が、言葉があなたを連れてくる。
 あなたとは似ても似つかない男なのに。
 それが苦しい。
 こんなに怖いのに、逃げてはいけないの?
 向き合うべきなの?
 無理だよ絶対。
 あなたの死を正面から飲み込めるほど、わたしは強くないんだもの。