34.「マド部をやめるのをやめる」

 頭を辞書で打って気絶して早退しても、不良に拉致されて殴られても、翌日が平日なら学校に行かなくてはいけないのが学生の辛いところだ。
 一度も染めたことのない黒髪を三つ編みにしながら、わたしはため息をついた。目の前の鏡には唇の横に青あざのできた冴えない眼鏡女子が映っている。
「あー。なんか学校行きたくない……」
 馬鹿男スズキに殴られたところは時間が経つにつれて青紫色に浮かび上がってきた。これじゃあ殴られましたって宣伝しながら歩くようなもんじゃないか。学校に行けば先生だって「どうしたんだ?」って聞いてくるはず。
 もちろん階段で転びましたってテンプレな言い訳をするつもりだけど、心証はよくないだろう。あー。憂鬱。面倒。もうやだ。
 と昨日からわたしの気分はなんだかどん底である。
 なんだろう。いつもならこれくらいのことでここまで落ち込まないんだけどな。
 ウメが消えた時も、樋口の母親がわたしに腐ったものを食べさせていることに気付いた時も、わたしは愚痴や弱音こそ吐けどそこまで落ち込まなかった。だってもうすでに起こったことはどうしようもないし、するべきなのは落ち込むことよりも現状にどう対処するか考えることだと思ったからだ。
 それなのにこの体たらく。
 なんだろう。生理前なのかな。あー。女子って本当面倒よね。毎月毎月どうして痛い思いしなきゃなんないの? 男も一度なってみればいいのに。
 そんなことをぼーっと考えていると三つ編みができてしまった。
 うん。われながらしめ縄っぽい。
 大丈夫。わたしはどこからどう見ても冴えないただの眼鏡女子高生だし、面倒事とは無縁そうだ。無事高校生活を送れるし、それが孝重郎の願いなのだ。
「よし」
 わたしは両手でぱちんと自分の頬を叩いた。
 気合いを入れろ。
 前を見て。
 起きたことは気にしない。
 現状に対処する。
 そうすれば幸運はついてくるはずだ。
 孝重郎がわたしを愛してくれたように。
 わたしは洗面所兼風呂場から出ると、登校鞄を取って玄関に向かった。
 少し逡巡した上に、いつもの靴ではなくて黒いローファーに足を入れる。
 孝重郎、力を分けてね。
 心の中でそう声をかける。
 大切な時だけに履くそれに、今日は少しだけ助けてもらいたかった。
 玄関の扉を開ける。
 今日が雨でなくてよかった。気持ちのよい朝の空気は多少なりとも気分を上向きにしてくれる。
「やぁ、おはよう」
 階段の下から声をかけられた。
 わたしはさして驚くことなく男を見て答えた。
「おはようございます、王治先輩」
 出たな、魔王め。





 魔王に会うのは、一昨日手錠をかけられた後強制的に家まで送られて以来だ。
 正直魔王への評価は今や地に落ちて地面にめり込んでむしろ地球の核に近付いているところだと言っていい。
 けれどわたしは大人なので、魔王を無視したりはしなかった。
「部活動ですか?」
 二人連れ立って歩きながら聞くと、魔王はあははと笑った。
「そうだよ。まったく円ちゃんの不幸体質は筋金入りだよね。ちょっと一人で帰らせたら面倒事に巻き込まれちゃうんだから」
 黙れ大きなお世話だ。という罵倒は心の中に留めておく。
 大人だから。
「あの、わたし、あなた達の変な部活には入りませんから。というかもう退部届出しましたから」
 昨日、わたしはそれを確かに生徒会長に手渡した。なんか一度保留とか言われたし昼休みに話すっていう約束もすっぽかしてしまったわけだけれども、わたしの固い意志は伝わったはずだ。
「あ、そうなんだ」
 しかし魔王は拍子抜けするほどあっさりとそう言った。
「残念だなぁ」
 なんだそれ。それだけか?
 ずっと前だけ見て歩こうと思っていたが、魔王の意外な反応にわたしはちらりと横を盗み見た。
「……」
 するとばちりと目が合ってしまう。魔王はにこにこと笑っていた。
「まぁでも、円ちゃんが入部しようがしまいが関係ないよ」
 ……それはつまり、もうマド部とかいうわけのわからん部活は解体するということだろうか。
 なるほど、そういうことかもしれない。
 だって昨日、熊男も魔王もわたしを助けに来なかったし、ということはわたしへの興味を失ったということだろう。ならばマド部なんていうアホらしい部活を続ける意味もなくなる。
 今朝魔王がわざわざうちまで来たのはもしかしたらそれを伝えるためなのかもしれない。
 意外と律儀だな、魔王。
「本当に遊びなんだったら、円ちゃんが入部しないと君の迷惑そうな顔も見れなくて面白さ半減になっちゃうところなんだけどね」
 言っておくが人の迷惑そうな顔を見て面白がるのは人として最低だぞ、魔王。あ、人じゃなくて魔王だからいいのか。失敬失敬。
「円ちゃん。僕はますます君に興味津々だよ」
「え? あれ? そういう話の流れでした? 今」
 わたしは少し慌てた。
 なんで興味持ってんだ。場の空気読めよ!
「え? うん。だって君は須磨以上の存在だったんだもんね。あ、一昨日僕が言ったことは撤回するよ。もしかしたら君は、おもちゃどころじゃないかもしれない。だって玄はおもちゃのためにあんなことしないからね」
「は? 何言っちゃってるんですか?」
 おっとまずいまずい。ちょっと言い方が悪かったかもしれん。もう少しで語尾に「頭悪いんですか?」とつけたすところだった。
「え? 何言ってるんですか?」
 すぐに言い直したけれども、耳が上書きされてるといいな。てへ。
「あれ? 知らない?」
 その時である。
 ろくに前を見ないで歩いていたわたしは、目の前に男達がずらりと並んで道を塞いでしまうまで彼らの存在に気付かなかった。
「え」
 と驚いて足を止める。
 見れば、身体のあちこちに包帯を巻いたりガーゼ貼付けたりしている男子学生達である。それも近所の有名な不良高校の。てゆうか昨日の。うーん。一番左の顔が赤黒くぱんぱんに腫れ上がっちゃってるのはもしかして馬鹿男スズキかな?
 おいおい。お前ら、もしかしてお礼参りってやつか?
 ふっ。馬鹿だな。よりにもよって魔王が一緒の時に来るなんて。
 いくら魔王でもか弱い女子が不良高校生にぼっこぼこにされそうなところを無視してどっか行っちゃったりしないよね? そうだよね? 魔王?
 と思いながらわたしがこっそりと魔王の後ろに隠れようとしたその時、
「「「すんませんでした!!」」」
 と男達が同時に頭を下げた。
 ……え?
 何事?
 わたしはぽかんとして状況を理解できずにいたが、どうやら魔王はそうでなかったらしい。
「おい、頭下げるだけか?」
 彼は少々ドスのきいた声で言った。
 地獄の蓋がちょっと開いちゃってるぞ、魔王。危険だから正体隠して!
 地獄からのお言葉に頭を下げたままの男達は屈辱感まるだしで震えていたが、その内の一人が膝を折ると(馬鹿男スズキだった)他の奴らも同じように膝を折って両手を地面についた。
「「「すんませんでした」」」
 おー。
 初めて見た。
 いわゆるあれだ。土下座ってやつだ。
 ジャパニーズドゲザね。
 ワビサビ。
 テンプラ。
「喧嘩売る相手間違えんなよ」
 魔王は冷たくそう吐き捨てると、ぐいとわたしの手を取って、土下座する男達の横を平然と通り過ぎて歩き出した。
 手を引かれて歩きながら、わたしは背後の不良高校生達と魔王を見比べる。
「ええと、これはどういう……?」
「手を放すから、ちゃんと前を向いて歩いてね、円ちゃん」
 あ、地獄の蓋が閉まった。
 あーよかった。わたしも殺されるかと思った!
 魔王の手が離れたので、後ろを振り向くのをやめる。
「玄は何も言ってないんだね。昨日、玄は北高に行ったんだよ」
 北高は後ろの不良高校生達が通っているはずの高校だ。ちなみに孝重郎達の卒業校でもある。あまり素行悪くなかったのによく卒業できたなって思うけど。まぁあの高校では普通なのかも。
「昨日円ちゃんが北高のやつらに拉致されたって聞いたけど、君のところにはあのなんか只者じゃなさそうな大人三人が行ったでしょ? だから大丈夫だと思ったんだろうね。その代わり、玄はもう一手先を打ったんだ」
『円が攫われたって舜から聞いた時、たまたまそこにあの男もいたんだ。だけどあいつははっきり『俺は行かねぇ』って言いやがった』
 まー君がそう言っていた。
 熊男は、まー君達と一緒に来ようとしなかったって。
 魔王は笑う。
「いや僕もね、最初は玄が君に興味をなくしちゃったんだと思ったんだけど、違ったんだよ。玄は北高に行って、そこの強い奴を呼び出してぼっこぼこにしたあげく、今後北高の制服を着た奴が八木原円に手を出せば皆殺しにするぞって脅したんだ」
「……」
 ……それはなんというか。
 とっても怖いですね!
「まさかああやって謝りにまでくるとは思わなかったけど。よほど玄の脅しが効いたのかな?」
「……でも」
「円ちゃん」
 魔王が脚を止めたので、わたしも立ち止まった。
 こちらを見て笑う魔王はどこか困惑しているように見えた。
「玄はね、基本的には他人に興味がない奴なんだ」
 彼は続けた。
「なんでも持ってるから、逆に飢えているというか……。自分が面白いことしかやろうとしない。他人のことはどうでもいいんだ。須磨みたいなおもちゃを見つけても遊んで飽きたらすぐに捨てる。そうだな……例えるなら、猫は遊んでた毛糸のおもちゃを飼い主に取り上げられても、怒って噛み付いたりしないだろう? そういう奴なんだよ」
 おいおい、ひどい言われようだな。
「でも君に関して玄は違った。君をただのおもちゃだと思ってるなら、昨日の場合玄は何もしないか、真っ先に君を助けにいったかのどちらかのはずだ。君の目の前で行動しないと君の面白い反応を見ることはできないからね。でも玄はそのどちらも選ばず、君を護るために動いた。さらにそのことを君に言っていないみたいだ。たぶん自分から言うつもりもないだろう。……つまり、そういうことなんだよ」
「……」
「円ちゃん。玄を誤解しないでね。あいつはいい奴だよ。誰よりも強いから、どこまでも正しい」
 なんて矛盾したことを言う男だろう。
 とわたしは思った。
 他人に興味のない人間がいい奴で正しい人間であるはずがないのに。
 けれどその言葉の真意は理解できる気がした。
 思い出したのは、一昨日魔王に手錠をかけられている時に目撃した熊男だ。
 数人の攻撃をものともせず拳を揮っていた彼は美しかった。そして美しいということは正しいのだ。自由であるということは、きっとその人間を決して暗い方へは連れて行かない。
 わたしは俯いた。
 視線の先に孝重郎にもらった黒いローファーがある。
 孝重郎はこの選択に呆れるだろうか。
 いや、彼がわたしが選んだことを馬鹿にしたことなど一度もない。
 いつもわたしの気持ちを理解しようとしてくれていた。そして言うのだ。『円、大丈夫だ』と。
「……実は、退部届は保留になってるんです」
 わたしは言った。
「昨日生徒会長と話すはずだったんですけどそれもすっぽかしちゃったし、また二年の教室に行って辞書に頭ぶつけるの嫌だし」
 ああ、円。
 わかってるの?
 自分が何を言っているのか。
 そう自問する自分がいる。
 けれどわたしの中の誰かが、これでいいのだと答えた。
 だってわたしは、あの男をもう少し側で見ていたい。
 あの男が何を考えどうやって生きているのか知りたい。断っておくがこれは純粋な知的好奇心だ。
 それにそうした方がきっと楽しい。あの男の側にいれば、これからの学校生活は、いろいろあるかもしれないけど楽しいものになるだろう。孝重郎がそう願ったように。
「……だからもう少し、先輩方のお遊びに付き合ってあげてもいいです」
「そう」
 魔王は笑った。
「ありがとう。玄も喜ぶよ」
 その時わたしは、いつの間にか気分が綿菓子のようにふわふわと上昇していることに気付いた。
 落ち込んでいたのが嘘のようだ。
 これも孝重郎のくれたローファーのおかげかも。
 ……うん、よし。
 大丈夫。
 私は思った。
 世界は明るいぞ!

 ……きっと。