8.「馬鹿女を母にもつ」

 八木原ウメはまれに見る馬鹿女だった。
『ウメって名前ダサいから今日から私のことはうーちゃんって呼んでね!』と突然言い出したり『え! うっそ! 義務教育って中学までなの? でも生理がきたら大人でしょ?』と衝撃を受けたりしていた。
 まだ十代の時に既婚者の子供を身籠ってシングルマザーになったウメは、娘が十三歳になった時にその娘を生物学上の父親である元恋人に押し付けて姿を消した。
『円は頭がいいからどこでもやっていけるわ、大丈夫! 元気でね、円』
 それが、ウメがわたしに残した最後の言葉だ。
 八木原ウメはどうしようもない馬鹿女だった。
 けれどあの女がわたしの母親であるということは、やはりどうしようもない事実なのだ。
 すっっっごく残念だけど。





 入学式のあった日の翌日は委員決めやオリエンテーリングが行われることになっていた。
 昨日田崎先生に配られた資料によると、委員会は十二個あって、かならずどれかには入らなくてはいけないらしい。
 うーん。図書委員ってのが一番楽で楽しそうかな。放送委員だけは絶対嫌だ。自分の肉声が校内に流れるなんてぞっとするわ。
 オリエンテーリングでは班つくって校内回った後体育館で部活の紹介を見るようだ。
『そうだね。僕達には関係ない。だからこれは取引だって思ってくれて構わないよ?』
 登校途中で行武王治の言葉を思い出す。
 わたしは誰かの命令に屈するなんてまっぴらだ。だからあいつらの部活に入る気なんてさらさらない。
 今日学校へ行ったらわたしが留年しているということは全校生徒の知るところとなっているかもしれないけど、それがどうした。留年してても仲良くしてくれる子が本当の友達だ。だからいいんだ! ……しくしく。
 そう自分に言い聞かせながらなんとか学校へ行くと、しかし想像していたような不幸の手紙や生徒達の白い目もなく、「八木原って留年してるらしいぜウケるー」という噂話も聞こえてこなかった。
 ……あれ?
 わたしは拍子抜けしながら教室の前にたどり着いた。うーん、おかしいな。
 ……まぁでも、小金丸少年にはバレちゃったし口止めするのも忘れてしまったので、今度こそ前述のような憂き目にあうだろうと覚悟したわたしは、すぅと息を大きく吸い、思い切って教室の扉を開けた。
「おはよー」
「はよー」
 とフレンドリーなクラスメートが朝の挨拶を投げかけてくれる。
 ……あれれ?
「お、おはよう」
 わたしは動揺を押し隠して挨拶を返すと、びくびくとほとんど挙動不審状態で自らの机にたどり着いた。……落書きも野草の生けられた花瓶もない。
 ううーん。もしやこの学校の生徒達は人間を超越した優しい子達ばっかりなのだろうか。そうわたしが感動に打ち震えていると、
「八木原さん」
 と声を掛けられた。
 振り向いて思わず身構える。
「こ、小金丸君……」
 小金丸友春少年は昨日に引き続き、にっこりと人好きする笑顔をわたしに投げかけた。
「おはよう」
「お、おはよう……」
「昨日のことなんだけど……」
 小金丸少年はすっとわたしに顔を近付けて囁くように言った。
「僕も先輩達も、留年のこと誰にも言ってないよ。安心して」
 ……え!?
「い、言ってないの?」
 わたしは動揺した。な、なんで?
 持ちかけられた取引を蹴ったからには、留年暴露の刑が執行されたのではないのだろうか。しかし小金丸少年は困ったように笑って言った。
「行武先輩から伝言で、無茶言ってごめんねだって。八木原さんは誤解しちゃったかもしれないけど……、基本的には、女の子が本気で嫌がってることをするような人達じゃないよ。取引がどうのってのも忘れて欲しいって」
「……そうなんだ」
 基本的には、って一言が気になるけれどもそうなのか。
 なんだ。
 わたしはほっと気が抜けて息を吐いた。
「そうなんだ。……ああ、よかった。正直、今日学校来るのすごい緊張しちゃった」
「ごめんね。でも皆そんなに気にしないと思うけどな。むしろ友達になりたがるんじゃない?」
 小金丸少年はそう言って首を傾げるが、いやいや何をおっしゃるうさぎさん。
「それは小金丸君が特殊なんだよ。普通は怖がると思うよ。特にうちは進学校だしね。でも本当によかった。わたし、どうしても普通に友達が欲しかったから……」
「あまり友達いないの?」
「小金丸君って、けっこうはっきり言うね」
 わたしは苦笑した。
「あ、ごめん。嫌だったら撤回する」
「ううん。そういうのは嫌いじゃない。……うん。わたし、全然友達とかいないんだ。だから本当に、ちょっと人生やり直そうと思って」
 小学校までは何人か友達はいたけど、中学入学後にウメが去って実父の家に引っ越してしまったのでその子達とは疎遠になった。中学校に通ってる頃は家のことでいっぱいいっぱいで友達を作る精神的余裕なんてなかった。
 そして去年のわたしは、孝重郎さえいれば友達なんていらないと思ってたのだ。
 だから本当に、クラスメートの顔を誰一人として覚えてなんていなかった。
「あ、じゃあ僕ともこれから友達ってことでいい?」
 小金丸少年がそう言って手を差し伸べてきたので、わたしはびっくりした。
「え?」
「同じクラスだし、八木原さん真野の前の席だからたぶん僕と喋ること少なくないと思うよ。まだしばらくは席替えしないって先生も言ってたし」
 うーん。
 まさか高校生活最初の友達候補が男の子になるとはなぁ。てゆうか小金丸少年はもてそうだからあまり仲良くなりたくないのよね。女子に妬まれそう。でもこう言ってくれてることだし……悪い子じゃないし……。
 うーん、うーん。
 とわたしが悩んでいたその時である。
「あ、小金丸ー!」
 誰かがたかたかとこちらに近付いてきた。
 女子生徒だ。……う。しかも可愛い。色素の薄いふわふわの髪が揺れていて、背はモデルみたいに高くて目がぱっちりしてる。なんだこの子。どこの二次元から出てきた。
 その二次元美少女は通学鞄を手に持ったままにこにことこちらに駆け寄ると、ばしっと小金丸少年の肩を叩いた。
「よかったー、あんたも同じクラスだったんだ!」
「……清水痛い。風邪ひいてたって?」
「そうなのよー。もう最悪。入学初日から出遅れちゃって、もう皆グループできちゃってるよね? どうしよー」
 え? そうなの?
 もう皆グループできちゃってるの?
 わたしは動揺して周囲を見渡した。
 ……言われてみれば、女子はけっこう固まってお喋りに興じている。あれ? 皆昨日が初対面じゃないの? そんなすぐに仲良い子を見つけられるもんなの? わたし昨日あのまま走って帰っちゃいけなかったの?
「はぁー。困ったわー。ってその子誰? え? 小金丸いきなり彼女作ったの?」
「違うよ」
 小金丸少年はため息をついた。
「八木原さん騒がしくてごめん。こいつは清水麗華。中学の時の同級生なんだ。昨日は風邪ひいて休んでたらしくて」
「あ、はじめまして。八木原円です……」
 レイカ? どういう字を書くんだろう。まぁ普通に考えて麗華かな。わたしがそんな名前だったら完全に名前負けだ。ありがとうウメ。円なんて堅実そうな名前をわたしにつけてくれて。わたしの地味な外見にぴったり合っているよ。
「はじめまして清水ですー。え? もしかして小金丸の友達? ごめん覚えてないんだけど寺井中出身?」
 なんだずばずばくるなこの二次元。ていうかまだ小金丸君と友達になると決まったわけでは……。
「八木原さんの後ろの席が真野なんだよ。だから……」
「なんだ、真野もこのクラスなの? じゃあ真野と小金丸の新しい友達か。あ、じゃあじゃあ、八木原さん! 友達の友達は友達だよね! よければ私とも仲良くして! 初日休んじゃったからさぁ、どのグループにも入りづらいしどうしよーって思ってたんだよね」
 え?
「わ、わたしでよければ喜んで!」
 つ、掴んだ! 今わたしチャンスの神様の前髪掴んだよ!
 すると二次元美少女はにっこりと華やかに微笑んだ。
「よかったー。じゃあ、わたしのことは麗って呼んでよ。八木原さんのことはなんて呼べばいい?」
 えー! 何この急展開!!
「ま、ま、円でいいよ」
「わかった、じゃあ円ね。ちょっと私机に鞄置いてくるわ! 小金丸グッジョブ!」
 そう言うと、二次元美少女は颯爽と窓際の自らの席に鞄を置きにいった。
 いや、正直彼女はとっても目を引くので、周囲の男子や女子達がちらちらと彼女の様子をうかがっている。……清水さん。あなた心配しなくてもすぐ友達できたと思うよ。あなた多分学年に一人はいる男女共に人気でちゃうタイプだと思うよ……!
「……驚かせてごめんね、八木原さん。あいつ中学の時から強引でさ」
「え、ううん。友達ができてわたしも嬉しいし」
 それどころかあんなジョブが人気者な美少女と友達になれるなんて!
 あまりにさい先のいい一日のスタートにわたしが心躍っていると、キーンコーンと予鈴が鳴った。
「あ、そういえば真野君って……」
 わたしの後ろの席はまだ空である。
「ああ、野球部の朝練に顔出してから来るって言ってたけど」
 という小金丸少年の声にかぶせるようにして、すぐ後ろの扉がガラ! と開いた。
「セーフ!」
 誰あろう真野忠司少年である。大きな野球鞄を斜め掛けにした彼は制服の上着を脱いでシャツだけになっていた。そのシャツも上の方のボタンが留められていない。は、破廉恥な!
「やー危なかった危なかった。おっす、丸。八木原さんもおはよー」
 真野君がそう言って持っていた鞄をどさりと机の上に置いた時、教室の前の方の扉がガラリと開いて、「席に着けー」と田崎先生が入室した。
「じゃあね、八木原さん」
 と小金丸少年が慌てて窓際の自分の席に戻る。
 すると小金丸少年のすぐ後ろの席だった清水麗華と目が合って、彼女が寂しそうな顔をしてから「あ、と、で、ね」と口パクして見せたのでわたしはこくこくと頷いた。
 お、おお。
 これがハイスクールライフってやつか。
 やばい! 楽しくなってきた!