魔法使いの彼女


 うちの学校にはクラスに一人、魔法使いがいる。
 幼稚園から大学までエスカレーター式の一貫教育を方針としたこの学校は、高校までは外部からの編入を認めておらず、幼稚園の時の入園式をパスした人間しかその教育を受ける事は許されていない。つまり、このうえなく閉鎖的な環境であるということだ。その閉鎖的な環境で実に十年以上もの間洗脳されてきた俺達生徒には極めて普通の事であるのだが、この制度はどうやら、他の学校にはない制度らしい。
 つまり、学級委員には、魔法使いが選ばれると。
 魔法使いは一クラスに一人。これが原則だ。つまり学級委員も一クラスに一人。魔法使いは生まれつきなるものではなく、新学期が始まりそれぞれのクラスに分かれた時に、一番ふさわしい者が魔法使いになる事ができる。
 ここで誤解されがちなので明言しておくが、魔法使いというのは決してただのあだ名や別名の類ではない。
 彼らは真実、魔法使いなのだ。
 彼らの使う魔法はそれぞれのクラスによって異なる。一年二組の学級委員は炎を使うし、三年一組の学級委員は人の心を読む。そのクラスの学級委員が持つ魔法は、あらかじめ決まっている。そのため、学年が変わり新しい学級委員が選ばれる時は、魔法を『世襲』するという言い方をする。元一年二組の学級委員の持っていた魔法が、次の一年二組の学級委員長の手に、そのまま移動するのだ。ただし一人の学級委員に魔法は一つ。これもまた原則である。炎を扱う学級委員が、人の心を読む事は決してできないし、その逆もまたしかり。
 つまり、一クラスに一人の魔法使い。一人の魔法使いに一つの魔法。
 そういう事だ。
 新学期、学級委員に選ばれた生徒は一年間魔法を自由に使う事ができる。けれど一年たつと次の学級委員にその魔法は『世襲』され、次の年からは使えなくなってしまう。魔法が消えるのだ。つまり、魔法とは学級委員がその責務にある間だけ行使できる、特権のようなものと言えるだろう。
 選ばれた学級委員は、その魔法によって、自らのクラスに対して重い責務を負う事になる。色々なトラブルからクラスメートを守ったり、留年しそうなクラスメートを更正させたりしなければいけない。
 なので、うちの学校の学級委員は多忙だ。この上なく。学級委員になれるのは最高の栄誉であるのだが、そういうわけで俺は、一度も学級委員になりたいなんて思った事はない。
 だってそうだろう?
 学級委員になれば、特別なカリキュラムが課される。普通の授業の他に、『世襲』された魔法をどういう風に安全に扱うかの講義が行われるのだ。まずこれが面倒くさそうで嫌だ。さらに体育祭などの行事では先頭に立って他クラスへの干渉、妨害を行い、さらに他クラスからの干渉や妨害から自分のクラスを守らなければいけない。これも面倒だ。その上(これが一番最悪なのだが)学級委員は、恋愛禁止だったりする。
 理由は簡単。
 恋をすると、魔法が使えなくなるから。
 これだ。
 キスをすると、と言った方がより正確かもしれない。
 古来から愛する者との口付けというものは破魔の効果があると言われてきた。一般的にもよく知られている童話眠り姫は、王子の愛のこもった口付けによってお姫様にかけられた魔法が解かれたという物語である。
 これを定説として信じる我が学校の校則では、学級委員に関する七か条の一番上に、恋愛の禁止が掲げられている。
 最悪だ。最低だ。
 俺は断固として抗議する。
 恋のない青春があるか。恋のない学校生活があるか。
 さて、ここまで言えば察していただけると思うが、もちろん俺には彼女がいる。
 悪いがめちゃくちゃ可愛い。もうたまらなく可愛い。会えば最後抱きしめてちゅーして体育倉庫に連れ込んで押し倒してしまいたくなるほど可愛い。
「何しやがる」
 ばき
「はっ」
 頬を殴られた衝撃に、俺は我に返った。
 こもった空気、薄暗い部屋、バスケットボールのゴム臭い匂い。気付けば俺は体育倉庫にいた。それも、俺の最愛の彼女を床に押し倒した格好で。
「はっ、じゃねぇ、どけ。このエロ男」
 いやぁ。この憎まれ口がなんとも言えず可愛い。
 げしげしと容赦なく蹴りをいれられながら、俺はしぶしぶと彼女の上をどいた。
「無意識って怖いな」
「無意識で押し倒すなっつーの」
 立ち上がり、制服の紺のスカートについたゴミをぱんぱんと払いながら彼女は言った。
 身長百五十四センチ。体重四十四キロ。ちまちまとしたその体格に男勝りなその口調のギャップがたまらない。黒くてくりくりとした一重の双眸でぎろりと睨まれて、床に座り込んだままの俺は照れて頭をかいた。
「いやぁ」
「褒めてねぇ」
 彼女の名前は高輪明という。
「ほら、早くいくぞ」
 彼女に促されて、俺は声をあげた。
「えー。いいじゃん。もう少し」
「馬鹿。次はホームルーム。委員決めだぞ。全員出席」
 昨日は始業式だった。今日は午前中に学校の掃除、そしてホームルームという時間割だ。授業がないのは嬉しいが、掃除やホームルームもそれはそれで面倒くさい。
「ちっ。だりー」
 俺は言いながらのっそりと立ち上がった。
「ほら、ちゃきちゃき歩く!」
 俺の身長は百八十近くあるので、立ち上がると彼女とは二十センチ以上もの身長差ができてしまう。まぁ俺は猫背だし、彼女はいつも背筋をぴんと伸ばして歩くので普段はあまり気にならないが、何ていうか、こう、ちまちまとした彼女がきびきび歩いてる所を見てるともうこうムラムラと、
「だから押し倒すなっつーの!!」
 そうして俺は彼女のパンチを両頬にくらう事になったのだった。





「あら手痛い戦利品ね」
 教室に戻った俺の頬を見て、三田都子はそう言って笑いやがった。
「うるせー」
 言いながら俺は都子の隣の席につく。明は前の方の席なので、すたすたと机と机の合間を縫って行ってしまった。都子は机に頬杖をつき、赤く腫れあがった俺の両頬を見てくすくすと笑った。
「なんだかアキラのパンチ、毎度毎度威力が上がってる気がするわ」
 そりゃあ毎度毎度殴られてるからねぇ。
 三田都子は俺と明の幼馴染で、幼稚園から一緒にいる。というかこの学校の人間は全員が幼稚園から一緒なのだが、特に俺達は三人で仲が良かった。明が都子に懐いていて、俺が明にメロメロで、都子が俺で遊ぶという図式だが。
「ゴミ捨て行って帰ってこないんだもの、ノブとアキラ」
 俺がゴミ捨てに体育館裏の焼却炉に行った時、偶然女子トイレ掃除帰りの明に会ったのだ。都子には、そこで何があったのか手に取るようにわかるようだった。
「先生は?」
 わざと話題を変えようと、俺は言った。
 都子は面白そうに笑ったが、それ以上は言及してこなかった。引き際を知っている女なのだ。
「もうすぐじゃない?」
 そう都子が答えるとほぼ同時に前方の扉ががらりと開けられて、一瞬教室がシンと静まり返った。てっぺんの禿げ上がった、ひょりとしたもやしのような教師がまるで壊れた人形のような足取りで歩いて教壇の上に立った。
「えー。では。えー」
 喋り方は壊れたラジオのようだ。
「まずは、えー。学級委員を、えー、決めたいと思います。えー、皆さん、立ってください」
 がたがたと椅子を鳴らして、総勢二十六名の生徒が立ち上がった。
 俺のクラスは三年一組だ。ずっと外部からの受け入れをしていない上に途中退学は可能なので、高校にもなると一クラスが二十五人前後で一学年に三クラスから四クラスという少人数になってしまう。
 一番前の席の明は小さいので、皆が立ち上がると後ろの席の奴に隠れて見えなくなってしまった。
 俺は少し身を乗り出したが、明の横顔がちらりと見えただけだった。
「では、えー、皆さん、えー、ここに、えー、黒板消しがあります」
 そう言って、もやし先生が黒板の所に置かれていた黒板消しを取った。その黒板消しには、油性マジックで『3−1』と書いてある。
「この黒板消しを、えー、皆さんの手元に、えー、『転送』してください」
 三年一組の魔法は、『転送』である。つまり、物質を、A地点からB地点に転送させるのだ。これはサイコキネシス、つまり念動力とは違う。念動力は物質をにかかる重力などを操作して移動させるのだが、『転送』の魔法は物質を空間の裂け目に入れてしまうのだ。物質は一度この空間から消え、次の瞬間その魔法を行使した学級委員の意図した場所に現れる事となる。
「えー、では、始め」
 もやし先生の号令で、生徒達が一斉に集中し始めた。黒板消しを睨みつけるものがいれば、眼をつむり眉間にしわを寄せるものもいる。
 このクラスの中には、もちろんこれまでに学級委員を経験した奴はいる。けれど学級委員ができるのは一回だけというわけではないので、生徒全員にチャンスがあるのだ。ちなみに都子は小学生の時に一回だけ学級委員に選ばれた。その時こいつが手に入れたのは『結界』の魔法で、都子に逆らうと明に結界を張られて俺が近づけないようにされてしまうので、その時期の俺は都子の下僕のようなものだった。苦い思い出だ。
 俺は手をもぞもぞと動かして魔法を使おうとしているようなふりをしながら、つまらないので周囲を観察していた。
 都子は目こそ瞑ってはいるが、眉間に皺はよってないし両手は腰のわきに垂れ下がっている。学級委員決めの時の都子はいつもこんな風だが、こいつ寝てるんじゃないかと俺は思う。
 前方を見るが、もやし先生の手の中にある黒板消しはぴくりとも動く気配がない。
 とっとと誰か使えよ魔法。面倒くさい。
 俺はあくびを噛み殺した。
 二、三分が経過した頃だろうか、もやし先生が突然、
「あ」
 と言った。
 数人の生徒が顔を上げると、もやし先生の手にすでに黒板消しはなかった。
 自分に魔法が使えなかった落胆の声と、誰が使ったのかという好奇心の声で教室内がざわついた。
「正剛だ!」
 誰かが言った。
 俺は窓際の席に目を転じた。都子もすでに目を開き、声のした方を見ている。
 大柄な元野球部キャプテンは、自分の手の中にある黒板消しを、信じられないものを見るような目で見ていた。
「今年はマサタケかぁ。彼、他の大学受けるんじゃなかったけ?」
 都子が言った。
 うちの学校は一応大学までエスカレーター式になってるが、何か将来に明確な夢を持ったほとんどの生徒は他大学を受験する。宗教学や哲学といったものに興味をもった奴(うちの大学はそっち方面にはめっぽう強いらしい)や、将来特にやりたい事のない奴がそのままエスカレーターに乗るというわけだ。
 正剛は確か、民俗考古学がやりたいとか言ってたっけかな。穴掘りの何が楽しいのかわからんが、まぁ人それぞれってやつだ。
「災難だな」
 俺は言った。他人事だからこそ言えるセリフだ。
 突然、教室の前方の方が騒がしくなった。
「明、それ!」
 俺は明の名前に関してはパブロフの犬のように反応してしまう習性がある。俺は身を乗り出した。やはり明の横顔しか見えなかったが、明はどうやら困惑しているようだった。
「どうしたの?」
「見えん。わからん」
 都子が聞いてくるのに、俺は眉間にしわをよせて答えた。
 なんだ。何があったんだ?
「えー、まぁ、皆、えー、着席」
 一つ高い教壇の上で全てを見ていたもやし先生の言葉で教室には再び静寂が戻り、生徒達は大人しく席に座った。もちろん俺も自分の椅子に腰を降ろす。ただ明の事が気になって、少し背伸びをした。後姿でみる明は、やっぱり可愛い……じゃなくて、どうしたんだ明。何があった?
 その答えはもやし先生がもたらしてくれた。
「えー、荒巻君、高輪君、えー、その黒板消しをこっちに持ってきてくれるかな?」
「は?」
 俺は自分の耳と目を疑った。
 正剛が立ち上がり、その手に持った黒板消しを前に持っていくのはわかる。けどなんで、明まで黒板消しを持ってるんだ! 教室内が再びざわついた。間違いなく、正剛と明の二組の手から、二つの黒板消しがもやし先生に手渡された。
「どういう事?」
 さすがの都子も困惑したように言った。
 魔法使いは一クラスに一人。
 これはこの学校創立以来一度も破られた事がない原則のはずだ。それが、破られたというのだろうか?
 生徒達は、二つの黒板消しを見比べるもやし先生の動向を、固唾を呑んで見守った。不正だろうか? いや、ありえない。正剛も明も、そこまでするほど学級委員になるのを望んでるとは到底思えない。ではやはり魔法使いが二人? そんな馬鹿な!
「荒巻君」
 もやしの言葉に、全員の視線が正剛に集中した。
「この黒板消しを、えー、もう一度そちらに『転送』してもらえるかな?」
 もやしは正剛が持ってきた方の黒板消しを持ち上げた。その黒板消しには、確かに『3−1』と書いてあるのが見えた。
 正剛がごくりと唾を呑み込んだのがわかった。
 魔法は、一度使うと二度目、三度目は簡単にできるらしい。要はコツだ。正剛は両手のひらを机の上において、そこをじっと見つめた。
 次の瞬間、正剛の手の上にぱっと黒板消しが現れたのが見えた。もやしの方を見ると、上げられたままのもやしの手の中に黒板消しはなかった。『転送』されたのだ。
 もやしはうんうんと頷くと、次は自分の正面に座る生徒……明に目を転じた。
「では次に、えー、高輪君」
 離れていても、明が困惑してるのが手に取るようにわかる。頭の動きで、明が少し俯いたのがわかった。怖気づいたのではなく、集中しているのだ。
 俺は固唾を呑んで成り行きを見守った。
 頼む神様。さっきのは間違いだと言ってくれ。
 ざわり、と明の周りがどよめいた。
 けれどもやし先生の方を見ても黒板消しは消えていない。俺はとうとう我慢できなくなって立ち上がると、ずかずかと明の方に歩いて行った。
「明?」
 彼女を覗き込んで、俺は驚いた。
 困ったように俺を見上げた明のその小さな手の中には、黒板消しがあった。慌ててすぐ横のもやしを見るが、やはりその手の中には依然としてさきほど明が出した黒板消しがある。
 どういう事だ?
 黒板消しが、三つ?
 俺はわけがわからなくなった。
「……二年ぶり、ですかね」
 もやしが言った。
 その思わせぶりなセリフに、生徒達が教壇に目を向けた。
 するともやしは、にっこりと、少し意外なくらいに優しく、明に笑いかけた。
「高輪明君、おめでとう。君は生徒会長だ」





 学級委員は毎年きちんと一クラスに一人ずつ現れるが、生徒会長は違う。現れる年と現れない年があるのだ。生徒会長の現れない年は、学級委員達の中から代表を一人選び、その人間が生徒会長代理として生徒達を統括する。
 生徒会長ももちろん魔法使いである。
 けれど生徒会長の場合は、他の魔法使いとは魔法の質が違う。
 聖書は言う。
 光あれ、と神が言った。するとそこに光があった。
 それが生徒会長の魔法だ。
 神の魔法。『創造』の魔法。
 ただ口にするだけで、物質を、創り出してしまう。
 究極の魔法。
 それゆえに、生徒会長は貴重である。
 我が学校における校則、生徒会長の三か条は言う。
 一、生徒のために行動すべし。
 一、むやみに魔法を使うべからず。
 一、恋愛は絶対完全無条件に禁止。

「悪夢だ」
 俺は呻いた。





「明、転校しよう」
 俺は明の手を握り締めて言った。
「いやだ」
 ばき
 頬に明のスペシャルパンチを受けながらも、俺は唾を飛ばして言う。
「なんでっ」
「だってあたし将来宗教学専攻するし。うちの大学、そういう事に関しては馬鹿みたいに充実してるだろ?」
 明がうちの大学にそのまま行く事にしていたのは知っている。俺も特にやりたいことはなかったので、エスカレーターに乗ってしまうつもりだった。けれどこうなったら話は違う。
 俺の手を振り払ってすたすたと廊下を進んでしまう明を追いかけて、俺は尚も言った。
「一回他の高校行ってからうちの大学受験すればいいじゃねーか」
「何でそんな面倒臭い事しなきゃなんないんだよ。アホ」
「俺と明の安らかな高校生活のためだ」
 恋愛は絶対完全無条件に禁止? ありえねぇ。
 ありえねぇだろ。
「明ぁ」
 明がぴたりと立ち止まった。けれどそれは俺の悲壮な声に耳を貸そうとしたからではなく、校長室に着いたからだ。
「失礼します」
 そう言いながら明はドアを開けた。
 ホームルームの後、俺達は校長室に呼ばれていた。明と、俺が、だ。
 呼び出した理由はわかりきっている。
 やんなる。
「やぁ」
 そこにはガマ蛙が……いや、まるでガマ蛙のような人間がいた。校長だ。裂けているのかとも思えるくらいにでかい口と、つぶれた饅頭のような顔、そこにあるおできの痕で大きなガマ蛙にしか見えない。いや、もしかしたら魔法で人間に変えられているだけで、本当はガマ蛙なのかもしれない。その可能性は大いにある。
「君が生徒会長か」
 校長のように見えるガマ蛙……いや、ガマ蛙のように見える校長が明を見て言った。
「そして、君がその恋人、と」
 このセリフは俺を見て。
 校長室は教室の半分くらいの広さがあった。壁は一面本棚で、色々なファイルが置いてある。光沢のある大きな机の前に、もやし先生が立っていた。ガマ蛙の近くで見ると、もやしは益々もやしに見える。
「さて、呼ばれた理由はわかってるな?」
 ガマ校長が言った。
「校則だからね」
 もやし先生が言った。
 生徒会長は選ばれたら辞退はできない。『創造』の魔法を持ってしまった時点で、その人間は生徒会長以外の何者にもなれない。そして生徒会長であるのなら、その三か条を守るのは義務である。
 もし生徒会長がその三か条から逃れようと言うのなら、この学校を退学する他ない。けれどその退学自体も可能かどうか怪しい所だ。何故ならこの学校の創立以来現在まで、現職の生徒会長が退学したという事実が存在しないからだ。もしかしたら、あらゆる手段で退学は阻止されるのかもしれない。生徒会長は稀少だ。手放してはいけない人材なのだ。
「恋愛は禁止ですか?」
 明が言うと、ガマ校長は満面の笑みを見せた。
「よくわかっているじゃないか。では高輪君、今この場で彼に引導を渡したまえ」
 ちょっと待てこのガマ蛙。
 別れ話が校長室でなんて悲しすぎる。しかもガマ蛙ともやしの前でなんて。
 明が俺を振り向いた。
 俺はおもわずどきりとして、一歩後図去ってしまった。
 はっきり言って俺は、ここで明が俺と別れたくないと校長達に逆らうなんていう希望は微塵も抱いていなかった。なんというか、彼女はそういう女だからだ。
 いやだ。
 別れるのなんてごめんだ。
 まだまだ俺には明にやってみたい事がたくさんあるのに!
「信秀、動くな」
 いきなり手を伸ばしてきた彼女から逃れようとした俺に、明はぴしゃりと言った。うぐ。こういう風に言う彼女には、どうしても逆らえない。それは小さい頃からの刷り込みのようなものだ。
 明が伸ばした手が俺の胸倉を掴む。
 俺は目を瞑った。
 一発俺を殴ってから別れ話を始めるつもりかと思った。小さい頃から、明は俺を殴るのが好きなのだ。俺がめげないから。
 けれど次の瞬間、俺は唇に柔らかい感触を感じていた。
 その至福の時は一瞬で終わった。俺が思わず条件反射で明の身体に腕を回してさらに口付けを深くする前に、彼女はぱっと俺から離れた。
 明は呆然とするガマ蛙の方を見ると、その手をすっと上げ、先ほど教室でしたように、その小さな手の平に黒板消しを出現させた。魔法である。
 彼女はにやりと笑った。に違いなかった。明の後ろにいた俺からは見えなかったけれども、ガマ蛙やもやしの表情、またこれまでの明の行動パターンを分析しても、この時彼女がまるで愚民を睥睨する女王のように笑ったのは間違いないと思った。
「キスしても私の魔法はなくなりません。だからその校則には意味がないと思いますが?」
 だからって普通教師の前でキスするか? おい。
 あーあ。俺の可愛い明ちゃん。嬉しいからどうかそのままでいてくれよ。





 後日談である。
「フィルム?」
 都子が声を上げた。
 B4ほどの大きさのお弁当を、その身体のどこに入るんだというくらいの勢いでぱくついていた明は、こくこくと頷いた。今彼女の口の中は俺の作った春巻きで一杯なので、都子には代わりに俺が答える。
「そう。キスする直前にね、明が唇の間にフィルムを『創造』したんだよ。だから実際に唇は触れてないし、実際にキスはしてないわけ」
 都子が呆れたように明を見た。
「じゃあ本当は、キスで魔法が消えるってのは嘘じゃないの?」
「ひゃふん」
 これは「たぶん」と言っている。
 調べた所によると、これまでに校内で魔法を失った生徒は数名いる。その魔法を失った時期がバレンタインやクリスマスである事からも、キスによって魔法を失うという噂はあながち嘘でもないのかもしれない。
 あくまで可能性の話だが。
「なに、じゃあノブはこれから一年『おあずけ』?」
 さすがに都子は同情したように俺を見た。
 しかし俺は笑った。
「大丈夫。キスしないでもやれる事はいっぱいあるから。な? あき……だっ!」
 机の下で思いっきり足の甲を踏みつけられて、俺は飛び上がった。
 彼女はもぐもぐと口を動かしてやっと春巻きを嚥下すると、痛さのあまり椅子から転げ落ちた俺を見下ろした。目に涙をためながら抗議の声を上げようとした俺の目の前に、突然、ハサミが現れた。丈夫そうな剪定バサミだ。その出現が、明の魔法によるものである事は疑いようがない。
 そして彼女はのたもうた。
「変な事したらこれでソレちょん切るから」
 ……史上最強の生徒会長の誕生である。