「ラム、バルド!」
十四歳になって迎えた最初の春。
今年学院を卒業する二人の少年ーーグントラム=サヒスとバルドゥイーン=ヘッセンは、どこか聞き覚えのある声に呼ばれて振り向いた。
制服姿の生徒達の間を抜ってこちらに駆けてくる、ドレスを着た少女を見て目を丸くする。
「ヴィーじゃないか」
鳶色の髪をはねさせながら二人の前に走ってきた少女は、肩で息をしながら「会えてよかった」と言って笑った。
「……久しぶりだな」
ヘッセンが答える。
「どうしたんだ? 今日は研究所は休みか?」
ヴィシック=ボリバルはサヒスとヘッセンの幼なじみだ。ヴィシックが一つだけ年上だが、幼いころは一緒になってよく遊んでいた。
しかしここ数年はほとんど交流がない。貴族の子女が一定の年齢になったら入学するこの学院に、彼女の姿がなかったのだ。ヴィシックの父であるボリバル公に聞くと、彼女はある特殊な才能を認められ研究所で勉強をしているという。
それがどういった才能でヴィシックがなんの勉強をしているのか、サヒスもヘッセンも知らされていなかった。
ヴィシックは今年で十五歳になったはずだ。
彼ら三人がこうして会うのは、一年前の王城でのパーティ以来だった。
「休みというか……今日は二人にお別れを言いにきたの」
薄紫のドレスに身を包んだヴィシックは、ひどく大人びた様子で微笑んだ。
「お別れ? お前どこかへ嫁に行くのか?」
サヒスは驚いて聞いた。
帝国では十五が成人年齢だ。ヴィシックは決して特別美しい容貌を持っているわけではないが肌は綺麗だし何より公爵家の人間だ。縁談はいくらでもあるだろう。
「違うわ。ちょっと研究で遠くへ行くの」
「研究で? 呆れたな。お前、公爵家を継がないつもりか?」
ヘッセンが蛇のように目を細めて言う。刺々しく誤解されやすい物言いだが、それはいつものことだ。サヒスはもちろん、ヴィシックもわかっている。
彼女は苦笑した。
「公爵家は……そうね。お父様には弟か妹を作っていただくか、でなければ養子でも取っていただくわ。あんた達と違って、私はそういうのに向かないもの」
「向く向かないの問題じゃないだろう。公爵家の一人娘が」
吐き捨てるように言ったヘッセンを、ヴィシックはいつものように無視して笑う。
「そういうわけで、しばらく会えなくなるわ」
「そうか。……戻ってくるのか?」
「もちろん、戻ってくる。それまで二人とも、早く公爵になって陛下を支えてさしあげてね」
その時のヴィシックの表情を見たサヒスは、もしかしてと思った。
即位から五年。威厳ある王と呼ばれ臣下や民に慕われるこの帝国の王が、かつてこの鳶色の髪の少女と戯れの約束を交わしていたことをサヒスは知っている。王の真意は知らないが、少なくとも幼い頃のヴィシックはそれを信じていたようだった。
『わたしはアルの奥さんになるの』
そう言って嬉しそうに笑った幼い少女の顔を、サヒスは今も覚えている。
けれど王は四年前に他の女性と結婚してすぐ子宝にも恵まれた。一年前のパーティは、王子であるアルヴェルト殿下が三つになられたお祝いだったのだ。
「……ヴィー」
彼女がこの都を離れるのは、恋した人の幸せな姿を側で見ているのが辛くなったからではないかと思い至ったサヒスは、痛ましく友人の名を呼んだ。
しかし彼が何か言う前にヴィシックは続ける。
「一応二人には言っておこうと思って。……それじゃあね。もう行くわ。これでも私、準備で忙しいのよ」
ヴィシックは悪戯っぽく肩をすくめると、ドレスの裾を取って貴婦人らしく膝を曲げてみせた。
「ごきげんようグントラム様、バルドゥイーン様。どうぞお二人の未来にご多幸がありますように」
そう言い残すと、ヴィシック=ボリバルはさっと踵を返して来た道を戻って行った。おそらく馬車を待たせてあるのだろう。
残された二人の少年は友人である少女の後ろ姿を見送ってその場に立ち尽くす。
「まったく。勝手な奴だ」
ぶつぶつと文句のようなものをまき散らすヘッセンに、サヒスは言った。
「……バルド、ヴィーはアーデルベルト陛下のことを……」
「黙れラム。あいつが言葉にしなかったことを、おれ達が話題にしていいものじゃない」
しかし彼が鋭く睨みつけてきてそう言ったので、サヒスはこの友人も気付いていたのだと悟った。
家柄的にヴィシックは王の妃となっても問題はなかったはずだ。
それなのに王がヴィシックの成人を待たず別の女性を妃に娶ったのは、王城内の力関係の問題か、あるいは王自身の意志だったのだろう。
そう思ったサヒスは、幼い頃は快活で悪戯ばかりしていた少女の笑顔を思い出して、早く失恋から立ち直るようにと願った。
この後、グントラム=サヒスが威厳ある王と帝国の魔術師の悲恋を知るのは、彼が公の爵位を継ぎ、帝国の魔術師として二人の前に現れたヴィシック=イースと再会した、少し後のこととなる。
サヒスは一度だけ王が彼女への想いを口にするのを聞いた。
『これは、俺が一番望んでいた自分ではない。反吐が出る。十年前の俺が今の俺を見たなら、迷わず殺すだろう。あれを捨て王座に座る自分など』
この時の言葉を、サヒスはずっと忘れられないでいる。
王はヴィシックを愛していた。
もしヴィシックが帝国の魔術師となっていなければ、あるいはアーデルベルトが王となっていなければ、二人の恋は叶ったかもしれない。
サヒス公爵は今もふと、そう思って自嘲するのだった。