去年受験に失敗して、いきなり親が転勤するとか言い出して、けどオレは残るって言って、今はしがない一人暮らしの浪人生。
大学で張り出された受験番号たちを前に挫折に打ちひしがれた去年のオレには到底想像できなかったろう。成り行きで一人暮らしを始めたこのアパートで、まさか理想の女性に出会えるなんて。
彼女は一階のオレの真下に住む夫婦の奥さんで、オレとは五つ以上も年が離れているらしいが、それでも理想の女性には変わりない。
まるで慈愛の女神のようなあのひとは、旦那さんを心底愛していて、毎日弁当見送り出迎えは欠かさずに、そしてちっぽけな浪人生でしかないオレにも優しい言葉をかけてくれる。
いや、かけてくれていた。
彼女は消えた。
まるで始めから存在しなかったかのように。
忽然と。
しかしそれは、オレにとって突然ではなかった。
旦那さんを亡くしてから。
彼女は生きていないようだったから。
そこにいないようだったから。
いつか、本当に消えるのだと思ってた。
初めて出会った日のことは、今もまざまざと思い出される。
オレが初めての一人暮らしの邸宅に決めたぼろいアパートの管理人は偏屈なじじいで、どうやら極端な人間嫌いらしく部屋から出ることもほとんどないらしい。そんなじじいの代わりにオレにアパートの鍵を渡し、部屋に案内して、これからの生活の励ましてくれたのが、彼女だった。
『困ったことがあったら何でも言っていいからね』
その時オレは新生活への期待と不安で一杯だった。彼女からの励ましでそれが解消されたわけではなかったが、それでも心強く感じたのは確かだったのだ。
結婚していると聞いてがっかりしたのには深い意味はなく、一人身の自分が少し寂しく感じただけだ。彼女は、とても幸せそうに旦那さんのことを話したものだから。
海のある町で出会って、恋に落ちて、いろいろ反対されたけど、今はとても幸せだと。
彼女は、一日中勉強しかすることのないオレの気晴らしによく付き合ってくれた。
オレの部屋で新作のケーキを食べたり、近くの公園まで散歩してみたり。まるで不倫をしているような気分にならなかったのは、オレと彼女の関係が極めて純粋なもので、彼女という女性が不倫などという言葉とは縁遠い人に見えたからだろう。
スリルのある愛より、暖かなまどろみのなかにいるような愛を欲しいというひとだった。
そんな中で、彼女は一度だけ、彼女の故郷のはなしをした。
「素敵な所よ。空はどこまでも澄んでいて、夜には満天の星。それを見上げていると、この世界はなんて大きいのかと痛感させられるわ。私はずっと外の世界に憧れていたけれど、外に出るなんて、私の家族達には考えもできない事だったのよ。だから、あの人と恋に落ちて、あの人について外の世界に出ると決めた時は反対されたわ」
「でもその反対も押し切って出てきて、今は幸せなんですよね?」
幸せだと、彼女はよく言った。
だからこの時もオレは、彼女はそうはなしを締めくくるのだと思っていた。
けれど。
彼女の澄んだ黒い双眸から流れてきたのは、真珠のような涙だった。
「そうね。今私は幸せよ。あの人と一緒にいられる。それ以外に望む事なんてなかったの。……けれど、帰りたいとも思うのは、ただの我侭ね」
その時オレは、彼女を慰めなくてはと、励まさなくてはと思うよりもなによりも、彼女のその涙に濡れた容貌の魅力に愕然とした。
身体が震えて、心臓が踊るのが聞こえる。
何故、オレは今まで平然と彼女と接していられたのか。
何故、オレは今まで彼女のこの魅力に気が付かなかったのか。
まるで神秘のなかに身をおいているような錯覚を覚えて、その時オレは逃げ出した。
泣く彼女にかろうじてハンカチだけを差し出して、謝罪して、その場を走って逃げた。
いたたまれない。
あんな、女神のように人を前に、どうして自分という矮小な存在をさらしていられるだろうか。
その夜は眠れなかったし、もちろん勉強も手につかなかった。
次の日に昨日はいきなり泣いてごめんなさいと、謝罪と共に夕飯の差し入れをしてくれた彼女を見たとき、オレは彼女こそが自分の理想の女性だったのだと確信した。
それからは、二人だけで会うことなどできなかった。
彼女は何度となく気晴らしに誘ってくれたが、勉強があるからと断った。
申し訳なかったが、彼女の隣を歩くには、オレという人間はまだまだだと思ったのだ。
九日前に彼女の夫が死んだ時、オレは第一志望の大学の合格通知を握り締めていた。
彼女は言った。
『おめでとう。けれどごめんね。今は、笑う事はできないわ』
そんな顔をしないでと、喉まででかかった言葉を飲み込んだ。
悲しくないわけがないではないか。
笑う事なんて、できるわけがないではないか。
もしこの時周囲に誰もいなければ、オレは跪きその裳裾に口付けをして、こう懇願しただろう。
『どうか消えないでください。オレはあなたなしではいられない』
けれど、できなかった。
彼女は消える。
オレの世界から。
それを確信した。
あの、彼女が故郷のはなしをしてくれた日以来、彼女の旦那が死んだ時でさえ、彼女がオレの前で涙を見せることはなかったと気付いた時に。
彼女がいなくなってから二日たったその日、オレは引越しの準備をしていた。
もうこのアパートにはいられない。
ここには彼女の面影が多すぎるのだ。
そしてふと、もう一度彼女の思い出に触れたくなった。
あの部屋。
オレが一度も入らなかった、彼女と旦那の二人の部屋。
鍵は閉まっている可能性の方が高いけれど、オレはだめもとで行ってみることにした。
玄関を出て、階段を下りる。
ぎょっとして立ち止まった。
彼女の部屋の前に、一階のもう一つの部屋に住んでる同棲カップルが立っていた。
「なにをやっているんですか?」
その手に鍵が握られているのにオレは気付いた。
おそらく、彼女の部屋の。
しかし不思議と怒りはわかなかった。
むしろ当然だと思った。
彼女と多く時間を共有したこのアパートの住人が、彼女に興味を抱かない方がおかしいのだと思えた。
男の方が肩をすくめて、少しも悪びれることなく聞き返した。
「お前も俺達の同類か?」
同類。同志。
その通りだ。
オレ達は皆、彼女を求めている。
それぞれに違う形で。
「あなたもこちらへおいでよ」
女が言った。
「ええ。ありがとうございます」
オレは答えた。
オレはこの時このアパートに来て初めて、この同棲カップルとまともに会話をしたのだった。