僕の妻は、人間ではないがしかし、そんなことは問題ではなかった。
彼女は一途で貞節な女で、けれど猪突猛進なところもあった。
ずっと、これでよかったのかと思っていたのだ。
彼女の故郷に別れを告げさせ、僕は外での生活を強いた。
それは果たして、正しかったのだろうか。
その答えが出ないまま僕は死に、今はただ大気に漂っている。
おかしな気分だ。
すべてが手に取るようにわかる。
少し前まで僕らが暮らしていた家に、今四人の老若男女が集っていた。
皆僕の妻を求めている者で、彼らに僕は嫉妬を禁じ得ないが、同時に憐れみも感じている。
彼らの前から彼女は消えた。それは、彼女が彼らよりも僕を選んだということだ。
彼女は。
名前をもっていなく、人間としての名は僕がつけたものだった。
彼女の綺麗な声に僕は恋に落ちた。
それが始まりだった。
華やかなるその声に、魅せられた。
彼女は絵を描くのが好きだった。
趣味で絵を描いていた僕を真似て始めたものだが、彼女のそれは僕のものを上回る出来で、僕は自分の道具を全て彼女に譲った。
あまり家を出る事のない彼女の描く絵は、ほとんどが海のものだった。
彼女のつくる青は奇跡のようだ。
まるで絵の具から作り出されたとは思えないような青を、彼女はキャンバスにのせた。
僕らが暮らしていた家は、その青に埋め尽くされている。
居間への扉を開けて、その光景に絶句している四人に、僕は苦笑を禁じえなかった。
引っ越してすぐ、彼女は居間の壁に絵を書き始めた。
『おじいちゃんには黙っていてね』
大家の老人を親しげに呼ぶ彼女は、茶目っ気たっぷりにそう笑ってみせた。
彼女のおかげで殺風景だったこの部屋は見る間に色とりどりの青に埋め尽くされ、それが完成すると、僕は自分が海の中にいるような錯覚を味わった。
なんて色だ。
ずっと海で暮らしていた彼女は、海の青を誰よりも知っていた。
頬に青い絵の具をつけて、彼女は仕事から帰って壁一面の絵に見とれた僕に抱きついた。
『私達の海の青よ』
彼女は言った。
僕らの海だ。
僕らが出会った海。
僕は、泣きそうに顔を歪めた。
そうだ。
彼女の故郷が海であるように。
僕の故郷も海だった。
僕は彼女に約束した。
「ねぇ、いつか僕らはあの海へ帰ろう。また、あそこで暮らそう」
「ええ、そうね」
彼女は笑った。
僕が、不覚にも癌なんて病気でいきなり死んで、彼女は笑わなくなった。
僕は今大気に混じっている。だから全て見えるんだ。
僕がいないから、彼女は心から笑わなくなった。
それはもちろん悲しかったし、心の奥底では愉悦でもあった。
彼女には僕しかいない。彼女の本当の笑顔を引き出せるのは僕しかいないのだと思えたから。
僕の日記を読んで、彼女はこの家を出ることにした。
僕との約束を果たすことにした。
そして、この四人の人間達に、土産を残そうとした。
絵の、窓枠の側にはこう書いてある。
『親愛なる
河内聡子様
水島孝一様
湖上真様
雨宮浩三様へ
愛を込めて』
彼女は、一途で貞節な女で、けれど猪突猛進な所があって、だからかもしれないけどこんな馬鹿な僕についてきて、声が綺麗で、絵を描くのが好きで、このアパートの住人達が好きで、僕を、誰よりも愛していて。
彼女は僕らが暮らした部屋を彼女を愛した者達に残し、還る。
僕らの愛した海へ。
再び僕らが出会うために。
僕は今はただ大気に漂っている。
おかしな気分だ。
すべてが手に取るようにわかる。
だからわかったんだ。
僕は間違えていなかった。
君を連れて、外へ出て。
僕は間違えていなかった。
何故なら君は、このアパートに暮らして故郷を懐かしく感じることもあったけど、楽しい事の方が多かったはずだから。
二人心から愛し合う隣人に。目標でもって勉学に励む友人に。世界に絶望した老人に。
彼女は多くを与え、またもらったから。
僕は間違えていなかったんだ。
さぁ、僕もそろそろ行こうか。
彼女が待っているかもしれない。
僕の目には泣き崩れる四人の人間が見える。
透き通るような嘘のような青に囲まれて、僕の妻を思って、泣く四人の人間が見える。
さぁ、彼女に教えて上げなければ。
この四人の強く溢れるような思いと、僕の、泣きそうに熱いこの愛を。