2-2) 水島孝一


 俺の同棲中の彼女は、お隣の奥さんに聖なる恋をしている。
 彼女はうまくそれを隠しているつもりだろうが、付き合いの長い俺に、わからないわけがないじゃないかと思う。
 彼女は、あのひとの秘密を知っている気になっている。
 自分だけの聖域だと思っている。
 そんなところが愚かで馬鹿で可愛いと思う。
 俺は彼女の恋するあのひとに、燃えるような征服欲と独占欲を持っている。
 たとえ世界と引き換えにしても、手に入れたいと思うこの欲を、俺は血反吐吐くような思いで我慢してきたわけだ。
 恋でもましてや愛でもない、ただこの欲を。
 その奥さんが、旦那さんを亡くしてから一週間後に蒸発した。
 消えた。
 こころにぽっかりと穴があいた。
 つまらない毎日とルーティーンワークが戻ってくる。
 もちろん一緒に住んでる彼女は愛してるけど、それとは別に、俺はあの女性を手に入れたかった。
 殺してでも、死体としてでも、手に入れたかった。
 それをしなかったのはただ少しの勇気ときっかけがなかっただけで、だからあのひとがアパートから消えた時、俺は、あのひとが俺の狂気を悟ったのかと思ってどきりとした。
 あのひとは、包んでくれるような人だった。
 全ての罪も、善意も、悪も、許容してくれるような人だった。母なる海と人は言うけど、あのひとはまさに、その細い身体で、それを体現していた。表していた。
 俺があのひとをそうと意識し始めたのは、あのひととその旦那が引っ越してきて九ヶ月目になる時だった。
 旦那は印象の薄い人だった。ごく平凡な家庭に生まれたごく平凡なサラリーマンだった。当初あのひとも俺の中ではごく平凡なサラリーマンの妻で、ただの隣の奥さんだった。
 けれどある日。
 彼女がアパートの裏手にある花壇に水をあげているところをたまたま見かけた。
 その日は俺は風邪をひいて会社を休み、彼女も仕事に出かけたので部屋で一人で横になっていた。窓の向こうに花壇が見えて、あのひとが青いホースを持って現われた。
 することもないし暇なので、なんともなしにそれを見ていた。
 あのひとは袖をまくり、蛇口をひねって水を出した。ホースから勢いよく水が飛び出し、はねてあのひとの腕にかかった。
 俺は息を呑んだ。
 水のかかったあのひとの腕に、まるで鱗のような、奇妙な痣が浮かび上がったのだ。
 それに気付いた彼女が慌てて袖を戻したので一瞬しか見れなかったが、俺の脳裏にそれはしっかりと焼き付けられていた。
 熱で朦朧とした意識の中、俺はあの花壇に行き、水と戯れる彼女を押し倒して陵辱してしまいたい衝動を必死で抑えた。
 何故だか、その瞬間から、俺は彼女を手に入れたかった。
 夢の中で何度もあのひとを犯した。
 けれど理性ではわかっていたのだ。
 あのひとには旦那がいる。
 平凡で、この上なく優しげな旦那が。
 つまり、あのひとは人のものだと言うことだ。
 憎しみがわいた。
 けれど旦那を殺そうとは思わなかった。
 旦那を殺してもあのひとが手に入るとは限らない。
 あのひとを確実に手に入れるのなら、あのひとを殺すしかないのだとわかっていた。
 あのひとが失踪した今、俺はどうして殺しておかなかったと悔いている。
 今あのひとは永遠に失われた。
 おそらく、この先あのひとが再び俺の前に現われることはないだろう。
 もう二度と手に入れることはできない。
 もう二度と征服することはできない。
 狂いそうだった。

 大家に嘘をついて、今は空き部屋となったあのひとの部屋の鍵を手に入れた。
 俺の愛する彼女もあのひとの行方を知りたがっているだろうと思ったので、彼女も誘った。案の定、彼女はついてきた。
 俺達は今あのひととあのひとの旦那が暮らした部屋の前に立っている。
 手に握り締めた鍵が熱かった。