2-4) 雨宮浩三


 この世界に絶望したのはいくつの時だったか。
 十代の頃はまだ希望を持っていた。
 赤紙が来て戦争へ行き、初めて死を身近に感じた。
 三十前にようやく戦争のキズが癒え、人生の楽しみというものを謳歌し始めた。
 四十も近くなると人間の愚かさがつぶさに見えてきて、五十過ぎると信用できる人間は一握りとなった。
 六十過ぎるとその信用できた人間が皆死んだことに気が付いた。
 今、私はいくつだろう。
 こんなにも偏屈なじじいになってしまった私を、死んだ友人達は叱るだろうか。
 しかし私は今、世界の絶望からほんの少し救われた。
 あの娘に救われた。
 私の経営する古いアパートの一階で愛しい旦那と二人住んでいた、あの暖かく優しい小娘に。

 家族はいない。
 結婚はしたが子供を産む前に妻は死んでしまったので、家族はいなかった。
 そう言うと、彼女は悪びれずわらって言った。
「それなら私がおじいちゃんと呼んでもいいですか?」
「ふん。お前にも本当のじじいがいるだろう」
「いいえ、いません。私の祖父は、もうずいぶん前に亡くなったそうですよ。だから私、ずっと、 『おじいちゃん』 が欲しかったんです」
「勝手にせい」
 できるだけそっけなく聞こえるように言ったが、照れ隠しだとあの娘にはわかっていた。
 娘は、はにかんでありがとうと言った。
 娘の隣に住む男女も、娘の上に住む受験生も、あの娘を求めている事はわかっていた。
 その愚かさに腹が立つ。
 ずっとあの娘のその魅力に気が付かなかったくせに。
 私など、初めて会った時から見抜いていたわ。
 あの娘の本質を。
 部屋を借りたいと、直接旦那とうちにやってきたあの娘を見たとき、私は目を眇めた。
「……お前、普通の人間じゃないな」
 すると旦那はぎょっとして、彼女の方はにこりと笑った。
「昔はどうあれ、私は今は、ただこの人の妻です」
 そうはっきりと言い切った気質が気に入った。
 もし私に本当に娘がいたのなら、こんな負けん気の強い、はっきりとした娘にそだって欲しいと願っただろう。
 娘が普通の人間でないと感じたのは、ただこれまで生きてきた経験上の勘だ。
 けれどこれほど信用できるものはない。
 まだ経験をつんでいない若い者が、あの娘のそのこの上なく魅力的な本質に気付くには、水という鍵がいる。
 それは雨であったり、水しぶきであったり、涙であったりするだろうが、それに触れたあの娘を見て初めて、若造共はその魅力に気付くのだ。
 しかし娘の旦那は違った。
「僕は、彼女の声に恋をしたんです。水の底から響いてきた、あの声に」
 だからこそあの娘はこの男を選んだのだと、私はわかった。

 娘が消えた。
 その、全てを捨てて付いてきた夫に死なれ、あの娘はいなくなった。
 いなくなる前の日に、娘は私の部屋にやってきた。
「おじいちゃん。私は明日、いなくなります」
「そうか」
「私は、ここが大好きでした」
「そうか」
「私達の家に、お土産を残していきました。どうか、気が向いたら、のぞいてみてくださいね」
「ああ。わかったよ」

 他に、なんと言えたか。
 いかないでくれと、懇願すればよかったのか。
 お前は私がこの世界で唯一心許せる人間だからと。
 どうか私を一人にするなと。
 神に祈るように願えばよかったのか。
 できるわけがない。
 あの娘が外の世界に出てきたきっかけとなった男は死んだ。
 ならばもうこれ以上ここにいる理由はないのだ。
 老い先短いこの老人のために残れとは、到底言えるものではなかった。
 娘が消えてから二日。
 私はいまはもう誰もいない一階階段近くのあの部屋に行く事に躊躇していた。
 行けば、あの娘がいなくなったことを認める気がして、行けなかった。
 けれど、今日。一階の男があの部屋の鍵をくれと言い出した。
 あの娘に頼まれたのだと。
 嘘だとわかった。
 あの娘に、忘れ物などなにもない。
 あれはただ身一つでここへ来たのだから。
 けれど黙って鍵を渡してやった。
 男の目には狂気が見えた。
 それは、間違いなくあの娘に対する思慕で、今私が抱いているものと限りなく遠く近いものであると感じたからだ。

 そして今、私はあの夫婦の住んでいた部屋の、玄関に立っていた。
 ここに立つのはあの夫婦が引っ越してきてからは初めてだった。
 その時、今更ながらに私は気が付いた。
 あの夫婦が暮らしていた二年間、ただの一人でも、この部屋に入った第三者がいただろうか。
 いやいないだろう。
 管理人の私でさえ初めてなのだ。
 あの二人が友人を招待しているとも思えなかった。
 一体なにが、ここには、あるのか。
 がちゃがちゃ。がちゃり。
 玄関の鍵が開けられ、三人の男女が現れた。
 あの娘がこの三人と私に残して言ったのは、なんだったのだろう。
 私達はこんなにも、お前を求める心をもてあましているというのに。
 私を見て、男が片眉を上げ、女があっと声を上げ、受験生は驚いたような顔をした。
「ふん。四人で拝んでやろうじゃないか。あの娘の残した土産とやらを」
 私は言って、玄関から居間へ続く扉を開けた。