空が青い。
 雲はぬいぐるみから飛び出した綿みたいにその青の中にただよっている。
 それを見ていると世界がきれいなように思えるから不思議。
 もう世界は決定的に変わってしまったはずなのに、どうして空はあんなにもきれいな青を保ち続けていられるんだろう。
 もう、あたしにとってのこの世界は決定的に変わってしまったのに。


記憶



 静が今入院してる病院には二つ病棟があって、こっちは一般病棟で屋上にも自由に出入りすることができる。
 でも滅多に人がいることがないのは、数年前にできたという緑生い茂る立派な中庭の存在と、屋上にあるのが古びたベンチだけという事実のおかげだ。
 彼女は前にジャングルジムから落ちて入院した時にこの屋上の存在に気付いた。そして入院している間中一人でここに来てこのぎしぎしと音のするベンチに横たわった。あの時は足を骨折してしまっていて、でもベッドにじっとしていられなかったのだ。
 今は冬だけどここは陽光がさんさんとおりてくるし、病院服の上に厚手ニットの上着を着ているので、そんなに寒くはない。
 青い青い空にただよう雲は、ひどく鈍重なモンスターみたいにゆっくりと形を変えている。
 耐えきれずに静は目を瞑った。瞼の裏が真っ赤になって、それが否応にもこの身体の中に流れる血液を思わせる。静は腕で目を覆って、太陽の光を避けた。
 これまでどんなに嫌なことがあったって、両親や兄弟達に話して一晩寝ればこの世界は再び楽しくて輝かしいものに変わったのに、今は自分一人が暗い場所に取り残されたような気分だ。
 お父さんとお母さんが死んだ。
 静は兄の口からその事実を聞かされる前に、それを知っていた。
 だってお父さんとお母さんは自分を守って死んだのだ。
 彼女は二人の命が流れ出ていくのをじっと感じていた。命がなくなった時のあの重み。血の暖かさ。そして冷たくなっていく父と母の身体。
 こぼれ落ちた二人の命とか魂とか呼ぶべきものは、あの雨に濡れた道路にこぼれ落ちてそしてどこかへ行ってしまった。静の中にはそれが通り過ぎた時に残していった大きな大きな穴みたいな黒い塊が今もあって、夜になって消灯されて暗い中に一人横たわっていると、その黒い塊が驚くくらいの早さで大きくなる。
 まるで周りの暗闇を吸収しているみたいに。
 この黒いものを少しでも小さくしたくて久しぶりにこの屋上に上ってきたのだが、青すぎる空は色濃い影を作るだけで、彼女の中の黒いものを照らしてはくれないようだった。
 今日退院する。明日が両親のお葬式なのだという。
 それがひどく面倒だった。
 もう、いいのに。
 時間なんて流れなくていいのに。
 このまま自分はこの黒い黒い塊に全身が侵されて死んでしまうのだ。退院なんかしたって、父と母を見送ったって、意味はないのに。
 その時全身を刺すようだった日差しが、ふいに和らいだ。
 静は怪訝に思って目を覆っていた腕をどける。誰かが自分を覗き込んでいた。
 逆光でよく見えない。静は眉間に皺を寄せた。
「だれ?」
 兄弟じゃない。もっと大人の人だ。看護婦さんだろうか。
 その人ははぁはぁと肩で息をしているようだった。
 変質者だ。と静は思った。
 ぼんやりと、変な人に会ったら大声を出すか逃げるのよ、と母に言われていたことを思い出す。大声を出すのはおっくうだった。かといって逃げるのも面倒だ。
 とりあえず彼女は事実確認をすることにした。
「変質者?」
 そう問われて、彼女を覆っている影が絶句したような気配が漂ってきた。違うのだろうか。
「ひどいな」
 一拍間を置いて、笑いまじりに影は言った。
 どうやら大人の男の人のようだ。聞き覚えのない声だけど、その声はどこか優しくて、母の言う変な人とは違うような気がした。
「違うの?」
「違うよ」
 柔らかな声。
 聞いたことのない声だけど、この優しさを静は知っていた。
「お父さん?」
 すると再び、影が沈黙する。
 お父さん、という言葉を口にしただけで、ぶわりと涙が溢れ出てきた。視界が歪む。せっかく目が慣れてきて、目の前の男の人の顔がわかるようになってきたのに、今度は水の中にいるような感じになって何も見えない。
 この皮膚の下の黒いものがぐちゃぐちゃになって身体の中を掻き回している。
「お父さん?」
 いるはずのない存在に呼びかける。
 だって父は死んだ。
 自分を守って死んだのだ。
 静は身体を捩った。壊れてしまいそうだ。どうしようもない衝動のようなものが穴という穴から吹き出てくるような感覚。
 駄目。
 駄目駄目駄目駄目。
 静はベンチから転がり落ちた。身体をしたたかに打ったが、その痛みを訴えるよりも暴れだしているものを抑え込む方に必死だった。畳んだ脚ごと身体を抱きしめて縮こまる。誰かが声を上げている。それは静の耳に言葉として意味をなさない。
 唇をぎゅうと噛んだ。叫びだしてしまわないように。
 駄目だ。
 叫んでは駄目。
 この身体の中のものを外に出してはだめ。
 お兄ちゃん達はもう十分に悲しんでいるのに、自分の悲しみまで外に出してしまってはだめなのだ。
 だめなの。
 だって、あたしが殺したんだもの。
 お父さんもお母さんも、あたしのせいで死んだの。
 あたしのせいで、あたしの中にあるこの黒い大きな塊は、兄弟達の中にも生まれてしまった。ならばあたしは兄弟達のそれを少しでも小さくする役目を負うべきで、自分のそれに構っている暇などないのだ。
 どうしてなの。
 と叫ぶ。
「どうしてなの」
 声に出していたことには気付かなかった。
「どうしてあたしは死ななかったの?」
 兄の顔に浮かんでいた拭いきれないあの憔悴と絶望。
 絶対だったはずの存在の消失。
 それと同時に自分は消えるのではなかったのか。
 どうして自分はここに残されているのか。
 以前と変わらない時間の流れているこの世界に。
「死にたいの?」
 その問いは唐突に耳に飛び込んできた。
 聴覚が蘇り、静は徐々に全身の感覚を取り戻す。誰かが自分を抱きしめている。そう気付くのに時間がかかった。
 頬を何かが濡らしている。
 涙だ。
 唇に食い込んでいた歯をゆっくりと離すと、じんわりと痛みが広がる。
「……あたしが死んで、お父さんとお母さんが生き返るなら」
 絞り出すようにして言った。
 そうだ。もし、失ったものを取り戻せるのなら。
「あの時お父さんとお母さんと一緒に死ねなかったんだから、何かと引き換えじゃなきゃあたしは死ねない。ただじゃ死ねないの。お父さんとお母さんはあたしを守って死んだの。安い命じゃないのよ。使い切らなくちゃ。これを全部。お兄ちゃんと、弟達のために……」
 自分を抱きしめている手は、赤ん坊をあやすようにして背を撫でてくれている。声は、静かだ。どこまでも。
「武一達のために死ぬの?」
「……違う。だって、そうしたらお兄ちゃん達はきっと今よりももっと黒いものをかかえてしまうもの。死ぬ訳にはいかないの。だって……守らなきゃ……」
 涙は次々に溢れ出てくる。
 静は全身を自分を抱いてくれている腕に預けて、そして両手で顔を覆って泣いた。
「どうしたらいいのかわかんないの。あたしが悪いの。でも私が悲しいと、お兄ちゃん達もきっと泣くの。だからずっと前を見て、ただ守ってあげなきゃって思ったのに、お兄ちゃん達は、もう、私が守ってあげなくてもいいの。ヒロは大学生になるし、綱は毎日きちんと学校に行ってる。武兄だって、もう私達の他に大事な人がいるの。私も……大事な人ができちゃった。どうしたらいいの? 私が悪いの。それだけはわかってるのに」
「君は悪くなんかない」
 背を撫でてくれていた腕が、ぎゅうと抱きしめてくれる。包み込むように。その温度を分け与えるように。
「そもそも大前提が間違ってるんだよシズ。頭のいい君がどうしてもっとはやくに気付かなかったんだろう。こんなにも長い間」
 静は弱々しく首を振る。
 違う。
 悪いのは自分だ。
「聞こえたんでしょう?」
 声は優しく言う。
「だから君は目を覚ましたんだ。武一の声が聞こえたはずだよ」
 そう、自分はずっと暗い場所にいたのだ。
 なのに気付いたらここにいた。
「聞こえただろう? なんなら僕が今ここでもう一度言ってあげてもいい。……ああ、その必要はなさそうだね。本人にもう一回言ってもらおう」
 彼の言葉の途中で、バン! という乱暴な音とともに屋上の扉が開かれた。彼は苦笑して背後を振り向き、静は彼の肩越しにそちらを見る。
「さっき君がパニックになってる時に電話して場所を教えたんだ。見舞いに来たら君が行方不明になってるっていうのでかなり怒ってる。ちゃんと見てなかった僕も怒られた。覚悟した方がいい」
 なるほど戸口に立った武一は、顔を真っ赤にしてまるで悪鬼のような形相だ。静は怯えたように少し身体を反らした。
 武一はずんずんとこちらに歩いてくる。静は今すぐこの場から逃げ出したかったが、自分を抱きしめる腕ががっちりと固まっていて、逃げ出せない。
「ちょ、離して」
 彼女は動揺して言った。
 彼は笑う。
「駄目だよ。怒られなさい」
 兄の向こうの戸口から、双子の弟が現れる。いつも飄々としているあの弟が、肩で息をしていて自分を見ると安堵の表情を浮かべた。
 ああ心配させたのだ、と思った。
 と同時に頭に衝撃。
 殴られた。
 がん、と。左の拳骨で。
「このっっっ馬鹿!!!」
 唾が。
 飛びますお兄様。
 また涙が出てくる。あまりの痛みに。
「家族に心配ばかりかけるんじゃない!!」
「……」
 ううう、と唸った。
 すると正平が、殴られた静の頭をかばうようにして抱えこむ。たぶんたんこぶのできた頭頂部を大きな手が撫でた。
「武一……殴ることはないと思うよ。かわいそうに」
 静の頭の上で、正平が非難の声を上げる。
「口で言ってきく娘かこいつが!!」
「でも女性を殴るものじゃないよ。ああ、ほら。泣いてるじゃないか」
「あはは。武兄の黄金の左手が出た」
 綱の声が近づいてくる。
「そりゃ泣くよ。痛いもんそれ」
「よしよし。シズ、冷やすものもらいに行こうか。こぶになっちゃってる」
「その前にこの場に正座だ!! みっちり説教してやる!!」
「えー。寒いから中入ろうよ」
「うるさい! お前らだけ中に入ってろ!」
「えーと、シズ、とりあえずごめんなさいって言っておく?」
 もう我慢できなかった。
「うえ」
 唇からうめき声が漏れる。
 そうすると決壊したダムのように、口からずっと我慢していたものが溢れ出た。
「うええええええん」
 なんかの生き物の鳴き声みたいな泣き声だな、と頭の片隅で思う。
 静は自分を抱きしめてくれる正平の背中にしっかりと腕を回し、そのくたびれたシャツに顔をうずめて大声で泣いた。
「……おお」
 綱が感嘆の声を上げる。
「すごい。久しぶりに聞いた気がする。これ。てゆうか華子そっくり」
「……」
「よしよし」
 正平が頭を撫でてくれるたびに声は大きくなって、静は自分の中に溜めていたものをすべて吐き出すような勢いで泣いた。
 本当に何年かぶりに、声を上げて。
 そうだ。
 聞こえていた。
 兄の声が。あの暗闇の中に。
『誰がお前の幸せを一番に願ってると思ってるんだこの馬鹿!!』
 あの声が自分を引き上げたのだ。
 この場所まで。
「この馬鹿」
 ため息のような武一の声が、耳からするりと身体の中に入り込んで、ずっとずっと内側で飽和状態だった黒い塊を何か明るいもので照らした。