桃太郎

 会いたい
 遇いたい
 逢いたい
 もう一度あなたにまみえるのなら、もうなんだってかまわない。
 ダーリン。
 私、もう待ちくたびれそうよ。





 毎週月曜日が定休日なのは、二百年前、この喫茶店が町中の茶屋だった頃から変わらない事だった。
 そしてその日、帝と出かけた先の古美術品店で、私は珍しいものを見つけた。
「髪飾りですか?」
 帝がそう覗き込んだのは、小さな花を模った簪。
 なんて偶然かしら。
 私はその簪を手にとって、そっと撫でた。
「昔ね、桃太郎が私に買ってくれたのよ」
 私は口元がほころぶのを抑えられなかった。
 失くしたと思っていたが、まさかこんな所で売られているとは思わなかったのだ。
 昔、ずっと昔に、市場で彼が買ってくれたものだった。
 きっと似合うと笑ってくれた。
 とても幸せだと思った。
 あれは、何百年前だっただろう。
 もちろん購入した。
 自分の持ち物のはずのものを買うのは、なんだか変な感じだった。
 けれど別によかった。
 私は家に帰ってからも、店のカウンターでずっとその簪を眺めていた。
 失くした時は必死で探した。
 桃太郎はもともと贈り物をあまりしない人だし、お気に入りだったから。
 けれどそれでも見つからなくてがっかりしていたら、慰めてくれた。
 彼は新しい簪を買うなんて事はしなかった。
 だって、彼は知っていたから。
 あの簪に代わりなんてないって事。
 新しいのを買ってきたって、何の慰めにもならないって事。
 嬉しかった。
「飲みますか?」
 帝が、コーヒーを入れてもってきてくれた。
「ありがとう」
 私がお礼を言って受け取ると、彼は笑って私の隣に座る。
 そして私の手の中にある簪を見た。
「あなたに似合いそうですよ。なるほど、桃太郎の目は確かって事ですね」
 私は笑った。
 手の中には花の簪。
 また私の手の中に戻ってきた、大切なもの。
 気分がよかった。
 とても。
「ねぇ、帝。昔話をしてあげようか?」
「昔話ですか?」
 そう首を傾げる帝に微笑みかけて、私は言った。
「そう。彼が、桃太郎が鬼退治に行った時のはなしよ」





 昔々。
 私がおじいさまに拾われて、桃太郎がおばあさまに拾われて、十数年が経った時。
 鬼が出た。
 彼らは女王である私を狙って、現れた。
 鬼は女王の恩恵を受けない者達。
 彼らはその恩恵を妬んで、女王を狙った。
 桃太郎は旅に出た。
 鬼を退治するために、鬼の巣窟である島へ向かった。
 私を守るため。
 あの旅で、彼は犬と猿と雉に出会った。
 彼の、大切な友。
 口ではあんな風に言っているけど、桃太郎は実は、あの三匹が大好きなのだ。
 あの三匹に出会えたのだから。
 彼があの時旅にでてよかったと、私は心からそう思う。
 彼が旅に出て、彼の犬と猿と雉に出会った頃、私は一人の月の子供に出会った。
 その子は私を慕ってくれたし、私もその子が大好きだった。
 けれどその子は、鬼から私をかばって死んでしまった。
 私は泣いた。
 どうして、自分を守ってその子が死んだのか、わからなかった。
 自分を罵った。
 それまで聞いたことのある中で一番汚い言葉で。
 私は無力だ。
 大切な時に何も出来ない。
 ああ、狂っていたのかもしれない。
 おじいさまとおばあさまの言葉も聞こえなかった。
 桃太郎が旅から帰って来たのも、気にならなかった。
 私は女王。
 死ぬ事なんてできない。
 死によって、この苦しみからは逃れられなかった。
 だから、狂気に走った。
 ただ愚かだったのだ。

 ある。
 満月の晩だった。
 呆然と、銀になった双眸を月に向けて突っ立ってた私に、初めて桃太郎の言葉が聞こえてきた。
 今も鮮明に思い出せる。
『お前は万能なんかじゃない。ただ、ちょっと他よりも月に近いだけのただの女だよ、かぐや』
 彼はそう言った。
 とても、優しい声だった。
『だから俺がいるんだ。だから俺がここにいるんだ。かぐや。俺はお前を守って死んだりしない。俺は、万能でないお前を守る役目があるからだ。お前を守らなければいけないから、俺は死なない』
 私はゆっくりと彼を振り向いた。
 彼は、本来の姿に戻ってた。
 黒い髪に赤い双眸。
 凛としたまなざしに精悍な身体。
 にじみ出る月の気配。
 力強く。
 彼は両手を広げた。
 私を包むように。
 それだけでよかった。
 ただそれだけで、私は、涙が出るほど嬉しかった。
 私は、彼の腕の中で、泣きつかれて眠った。





「あのね、月の眷属はね、皆、女王のためなら命なんか惜しくないのよ」
 私は簪を手の中で転がしながら言った。
 それは自惚れでなく、事実だ。
 たとえ狂わしいほど恋しい人が他にいようが、女王の恩恵を受ける眷族達は、女王のためにその命捨てる事に躊躇ったりはしない。
 主のために命をかける。当然の事なのだ。
 けれど。
「桃太郎は違うの」
 彼は、違う。
 彼は眷属だから、私の恩恵を受ける者だから、私の側にいるんじゃない。
 私を愛してくれているから、私を守ってくれる。側にいてくれる。
「桃太郎はね、彼が死んだら私が悲しむのを知っているから、女王のためにその命を捨てるなんて事はしないの。そう、約束してくれたのよ」
 救われた。
 彼の存在に、私は救われた。
 桃太郎は私が無力だという事を知っていた。
 決して万能ではないという事を。
 それを知っている彼が、ずっと側にいてくれる。
 だから私は、他の月の眷属の前で、万能であるかのように振舞ってあれたのだ。
 女王は下僕に弱みを見せてはならない。
 何故なら女王は彼らを統率し、導いていくものだから。
 けれど、彼になら。
 彼の前でなら。
 私は泣けた。
 弱音を吐けた。
 慰められた。
 彼の前でだけ、私は女王でなくかぐやになれた。
 それは、なんてありがたい事なのだろう。
「帝。彼は私の月よ。私の中の、醜い闇を照らしてくれる。私だけの月なのよ」
 そう帝に笑いかけると、彼は優しく笑ってくれた。
 帝は、おじいさまを思い出させた。
 頭を撫でて、つたなく子守唄を歌ってくれたあの老人を。
 大好きだった、あの人を。
 ああ。
 桃太郎。
 あなたに会いたい。
 今この気持ちを、あなたに言いたい。
 聞こえるかしら?
 この声が。

 ねぇ。





「おや」
 帝が言った。
「今夜は満月ですか」
 窓の外を見る。
 雲が晴れて、
 月が現れる。

 満月だわ......。





 まさかまさかまさか。
 ううん。
 間違えるわけがない。
 この感じ。
 近づいてくる。
 気配。
 鳥肌が立った。
 速い。
 どんどんこちらへやってくる。
 双眸が銀になる。
 そうするともっとわかる。
 彼が。
 桃太郎。
 私は鮮明に思い出せるわ。
 あなたに初めて会った日を。
 おばあさまに拾われて、桃から生まれて、あなたが私の前に現れたあの時を。
 あなたも私も赤子だった。
 けれど互いに、名前がわかった。
 存在が。
 私は泣いたわ。
 大声で泣いた。
 私を拾ってくださった老夫婦が、彼を連れてきてくれた幸運に、感謝した。

 涙を必死で我慢した。
 涙で彼が見えないなんて事、絶対にごめんだったから。
 帝は席をはずしてくれた。
 私は、たった一人で、椅子に座って、待っていた。
「ただいま」
 そう、聞こえた。
 カラン カラン
 と、少し遅れてドアベルの音がした。
 顔を上げて、必死で泣くのをこらえて、笑って、「おかえり」と言うと、彼は、私を、抱きしめてくれた。





 ダーリン。
 桃太郎。
 死にそうに辛かったわ。 
 この、二百年。
 ......ずっとずっと、会いたかったの。



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