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 式場の扉が開いて入場してきた花嫁のその姿に、一同はため息をついた。
 少し俯いた白い顔を覆うレースのベール。その上からでも彼女の赤い唇は鮮やかで、まるで小さな花の蕾のようにも見えた。ウェディングドレスはその細い体を見せるもので、裾だけがふわりと広がっている。レースの胸元には白い花があしらってあり、手に持ったブーケがそこに彩りを添えていた。
 彼女は美しかった。もう三十歳になるはずだが、バージンロードを歩く彼女はまるで若い少女のようにも見える。
 その道の向こうで彼女を待つのは、彼女を花嫁として迎える幸運な男である。
 男はバージンロードをまっすぐに歩いてくる彼女に、眩しげに目を細めた。整った顔立ちをした彼には白いタキシードは驚くほど似合っている。
 人々はこの花嫁と新郎が、ひどくお似合いの夫婦になるだろうと思った。
 花嫁のエスコートをして歩く父親はひどく難しい顔をしていたが、花嫁の一歩一歩踏みしめるような歩き方が空気を和らげ、この場を神聖なものにしようとしていた。彼女が動くたびに、さらりと衣擦れの音がする。人々は花嫁に見惚れた。
 やっと新郎の下にたどり着いた花嫁は、父親の手によって新郎の手に渡された。
 新郎は父親に軽く一礼し、花嫁を自分の隣に導く。
 予定されていた段取り通り、彼らは神父の前で二人並んで立ち、それを見届けた神父は朗々とした声を上げた。
「では、ただいまより、結婚式をとりおこないます」
 神父が聖書の朗読を始めると、厳粛な空気が漂う。
 二人は今から、一生に一度だろう瞬間を迎えようとしていた。参列者達も、自らが清められるような気持ちでよく通る神父の言葉に耳を傾ける。それはまるで、神父の言葉が魔法の言葉となって、天使をこの場に呼び寄せているようでもあった。
 そして聖書を読み終わった神父が、聖書を閉じ、優しく花嫁を見つめた。
 花嫁もまた、まっすぐに神父を見上げた。
 誓約である。
「汝、新婦一谷伊里は、新郎梶原陽太を夫とし、病める時も健やかなる時も共に助け合い、死が二人をわかつまで共に生きる事を誓いますか?」
 答えは一つである。
 花嫁が、その唇を開いた瞬間だった。
 閉ざされた式場内に、突然、音もなく外から日の光が差し込んだ。
 花嫁が入って来た扉が開いたのだ。
 何事かと参列者達が振り向くと、そこには一人の男がいた。
 男は自分が開けた扉に寄りかかって立っていた。逆光なので顔まではみえない。新郎と花嫁は、目を細めてその影を振り返った。
「グットタイミング?」
 真野直紀はそう言ってにやりと笑った。





「……」
「続けてください」
 会場内に広がった一瞬の静寂の後、神父の方に向き直って伊里は言った。
「伊里」
 少し困った様子で陽太は花嫁を呼ぶ。しかし彼女は取り合わなかった。
「いいの。ほらあんたも神父さんの方向いて」
「おいおい無視かよ」
 バージンロードの向こうからからかうような声が投げられる。
 直紀は寄りかかっていた扉から離れると、先ほど伊里がそうして歩いてきたのと同じくらいゆっくりとした足取りで、赤い絨毯の上を歩いた。扉が閉められて逆光でなくなると、彼が黒いカジュアルシャツにジーパンというおよそ結婚式には似合わない格好である事がわかった。今年で三十二になるはずだが、悪戯小僧のような双眸はきらりと光っている。
「聞けよ伊里」
 伸ばせば白いドレスに手が届く、という所で彼は立ち止まった。両手をジーパンのポケットに入れて、力を抜いて立っている。
 伊里は振り返らなかった。しかし直紀は続けた。
「この三十二年間で、俺は世界中で百四十七の恋をした」
 参列者達はえっと思った。
 三十二年間で百四十七回。驚異的な数字である。
「ちなみにそのうち六十七回がお前だが」
 つまりは六十七回付き合ったり別れたりしてきたという事だ。その具体的な数字に、陽太は呆れてしまった。別れてよりを戻すカップルはいくらでもいるが、幾らなんでも常識はずれだ。
「他の八十人の女の誰も、こんなたった紙切れ一枚で、俺の心を奪ったりはできなかったぜ? 伊里」
 そう言って直紀がポケットから取り出したのは、結婚式の招待状だった。時間から場所まで事細かに書かれたそれはもちろん、一谷、梶原両家の結婚式への招待状である。
「この言葉を言うのは六十九回目だが」
 直紀は手に持った招待状を指ではじいた。
 顔はいたずらっぽく笑っている。
 負けるとは思っていない顔だ。この勝負に、彼は勝利を確信している。
「お前が好きだ。付き合ってくれ」
 ばさっ
 伊里は振り向いた。ドレスが揺れて、花びらが一枚ひらりと落ちた。
 彼女はブーケを直紀の顔面に突き出すようにして振り向いたので、直紀からは彼女の顔が見えなかった。
 まるで剣を持ったような凛々しい姿で、彼女は男に立ち向かっていた。
 ブーケの向こうから、凛とした声がする。
「安っぽい愛の告白なんて、いらないわ」
 直紀には、顎をそびやかして笑う恋人の顔が見えた気がした。
 まるで傲慢な女王のように、我儘なお姫様のように、彼女はきっと笑ってる。
 きっと彼女が一番美しく見える顔で、彼女は笑っているだろう。
 直紀は左手でブーケを奪い取り、右手を花嫁の腰に伸ばした。
 男の意外な行動に、伊里は反応ができず目を見開いてされるがままになる。
 直紀には抱きなれた感触だった。腕の中にすっぽりと納まるその細さ。
 そして直紀は、ベールの上から彼女に奪うような口付けをしたのだった。
 静寂。
 目の前でキスシーンを繰り広げる男女に、陽太はあきれたように肩をすくめると、やってられないと呟いて参列者の列の方に歩いて行った。
「ご苦労様、陽太」
 淡いピンクのドレスを着た小柄な女性が彼を迎える。
「やってられないね。僕完全にピエロじゃんか」
「まぁいいじゃない。私達の親友が、これで幸せになれるって言うんだから」
「なれるといいけどね。あれじゃあ伊里、苦労するだろうなぁ」
 そう言って陽太はまだ口付けをしている二人を見た。まるでそこだけ時間が止まっているようにも見える。
 ベールが間にあるのでディープキスではないのがまだ救いだろう。恐らく後はどれだけ息を止めていられるかが問題だ。
「それはそうと、露子、妬かなかった?」
 あはは、と露子は笑った。
「妬くわけないじゃない。陽太はもうすでに私の旦那さまなんだから、誓いなんてそもそもできるはずがないんだもの」
「あーごほんごほん」
 神父がわざとらしく咳きをした。
 彼は確認をとるように参列者をみわたすと、なるべく目の前のキスシーンは見ないように目を伏せながら、厳かに言った。
「では、これにおいて、二人を夫婦と認める」





「ちょっと。あんたこれで許されたとか思ってんじゃないでしょうね」
「お前こそ覚悟あんの? 俺騙して結婚式でっちあげたくせに」
「ちょっと一芝居うっただけよ」
「それにしちゃあ凝ってるじゃねぇか」
「本当の結婚式の時は安心よ。段取り全部頭に入ってるから」
「そりゃよかった」
「あんたがいつまでもあちこちほっつき歩いてるからこんな事になったんだからね」
「はいはい」
「お父さん説得するのだって大変だったんだから」
「へぇ?」
「これであんたが来なかったら、どっかのお坊ちゃんと結婚させられる所だったのよ」
「そりゃ大変だ」
「……馬鹿にしてんの?」
「まさか」
 息がかかるほど近くで、直紀はにやりと笑った。
「世界中で恋はしつくした」
 それは囁くような甘い声で。
「これからの余生約七十年、俺の愛は全てお前に捧げるぜ?」
 それがプロポーズの言葉だった。