4.狼男


 俺は狼だった。
 俺は人間だった。
 けれど彼女によって、俺は月の眷属になった。
 振り向いてほしいなどと分不相応な事は願わない。
 けれどあなた。
 その名を口にするのもためらわれるほど尊いひと。
 貴女の姿をこの卑しい目が追い、貴女の声をこの汚らわしい耳が拾うのを止める事は、
 誰にもできやしないのです。
 俺は狼男。
 狼であり人間でもあった異形の生物。
 貴女という月の前では、
 俺は地面に這いつくばる獣の身でしかないのです。





 見つけた。
 見つけた。
 この気配。
 月の。

 桃太郎。

「っ!」
 猫の爪のような月闇の中、俺の牙を男は紙一重で逃れた。
「桃太郎さん!」
「あっぶねぇだ!」
「......狼?」
 男の供が三匹喚く。
 俺は音も立てずに地面に着地した。
 ぞろりと犬歯を舐め、低く体勢をとり、先ほど捉え損ねた獲物を見据える。
 茶髪に赤いピアスをした男。
 満月でない今夜、それが真実の姿でないことは明らかだ。
 しかしにじみ出るのは月の眷属の気配。
 俺の同属。
「おいおい。おれぁ犬に恨みかう覚えないぜ?」
 俺が噛み千切りそこねた首をなでながら、男はにやりと好戦的に笑った。
「何言ってるんですか。私をいつも虐待してるくせに」
「うっせぇ馬鹿犬。黙って後ろに下がってな」
 言われる前に、三匹は後ろの電信柱の影に下がっていた。
 俺は鼻で笑う。
『頼りない仲間だな』
 しゃがれた声が紡がれた。
 いや声ではない。
 狼の声帯に人語は発せられないのだ。
 空気の振動を伝ってはいない『声』が、男達に届けられた。
「仲間じゃねぇ。下僕だ」
『下僕?』
「ああそうさ。そんでペットを守るのも主人の勤めってやつだろう?」
 そう言うと、男は低く構えをとった。
 戦い慣れているのは当然だろう。
 かつて鬼を倒した桃太郎。
 鬼もまた月の眷属だ。
 ただし月の女王を主人としない者達。
 俺達とは違う者。相反する者。
 無秩序に生きる者。
 それが鬼。
『噂通りだな』
「へぇ。さぞかし素敵な噂なんだろうな」
『ああ、涙が出そうにな』
 この男が桃太郎。
 あの方の想い人。
 あの尊いお方が何十年も待ち続ける男。
 どこにその価値がある?
 この男には一体、あのお方の愛を受けるだけの価値があるのか?
 それを確かめるために、俺はここに立つのだ。
 そしてこの男に牙を向ける。
『俺はお前が好かんぞ』
「奇遇だな。俺もだ」
 俺は男に飛びかかった。
 また男は紙一重でよける。
 見えているのか。
 俺の動きが?
 男はよけながら蹴りを繰り出してきた。
 しかし俺もそれをよける。 
 そして男が体勢を整える前に再び飛び掛った。
 今度は男はよけなかった。
 腕を突き出してきた。
 その顔。
 おもちゃを見つけた子供のように無邪気で、酷薄な笑み。
 楽しんでいるのだ。
 この男は。
 戦いを。
 ぞっとした。
 首を掴まれた。
 そしてそのまま地面に叩きつけられた。
 頭を打ち、一瞬意識が遠のく。
 ぐるると、喉が鳴った。
「俺の勝ちだな」
『......』
 男は俺の喉を掴んだまま、口の端を歪めて笑う。
 あまりにもその笑みが残酷で、怒りと悔しさが俺を襲った。
 なぜだ。
 なぜこんな男を。
 あの方は。
『  様』
「っ!」
 締め付けられる喉から、俺がかろうじてあの方の御名前を出したと同時に、男は驚愕を顔に浮かべ俺から飛び去った。
「お前......何もんだ?」
 男の言葉には答えられなかった。
 俺は自分の身体が変わるのを感じていたからだ。
 変化する。
 体毛は薄くなり、牙はなくなり、硬く黒い爪は柔らかいものになる。
 強靭な狼の身体から、脆弱な人間のそれに。
 痛みはない。
 むしろ心地よい。
 この変化こそ、俺とあの方の絆を示す糸。
『............、は」
「......」
「んな......」
「馬鹿な......」
「......」
 狼から人へと姿を変えた俺を見て、男とその下僕は声を失った。
 俺は両手を広げて月の光を浴びた。
 体毛が薄くなったぶん、あの淡い月の光も身体の細部まで感じることができる。
 あの方の気配と同じ。
 月の。
「その恩恵を、どうか我に......」
 ため息が聞こえた。
 見ると男が頭を抱えて首を振っている。
「かぐや......あいつまたなんかお節介焼いたな......」
 俺はむっとした。
 拳を下に向けて、腰をおろすようにしてコンクリートの地面を殴る。
 ドゴ
 割れた破片が頬に飛んだ。
「あの方は俺の命を救ってくださった。それを侮辱するのは許さん!」
 普通の人間には殴っただけでコンクリをへこます事はできない。
 しかし男達は別段驚いた様子を見せなかった。
 それがまた面白くない。
 男の下僕の一匹が鼻をひくひくと動かした。
 おそらく犬だろう。
「......桃太郎さん。このひと、人間と狼の匂いも、月の気配もしますよ」
 当然だ。
「俺達は狼だった。人間だった。
 そしてあの方に救われた」





 俺は狼だった。
 今にも死のうをしていた。
 人に狩られて、右目を失った。
 左の後ろ足は折れていた。
 そして男に出会った。

 俺は人間だった。
 今にも死のうとしていた。
 獣に襲われて、左腕を失った。
 痛みと失血で意識は飛びそうだった。
 そして狼に出会った。

 俺達は対峙して、互いに死期をさとった。 
 ああ、俺はこの人間に
        狼に
 殺されるのだと。
 そして強く感じたのは、生への執着。
 あの瞬間、俺達は獣だった。
 狼でも人でもなく、ただ手負いの、死を間近に見た、それでも生きようとする、獣だったのだ。
「死にたくない」
『死にたくない』
 強い同調。
 その夜は満月だった。
 俺達の欲望が、執着が月にも届いたのか、あの方はおいでになられた。
 名を呼ぶのもはばかられる尊いひと。
 流れるような黒い髪に慈愛に満ちた銀の双眸。
 直視できなかった。
 たった今まで生への欲望で我を見失いかけていた俺達は、畏怖を感じてすくみあがった。
 なんと恐れ多いこの存在。
 満月の下本来の姿を、矮小な俺達の前に晒されたあの方は、その麗しい御手を俺達に差し出された。
『もう一度言ってごらん?』
 天上の調べとも思えるその声に聞きほれ、言葉の意味を理解するのにも時間がかかった。
 いっそこのままこの耳が潰れてしまえばいいのにと思った。あのお方の声を、耳にとどめたまま。
 死にたくないと、かろうじて言った。
 喉はからからだった。
『違うでしょう?もう一度言ってごらん?』
 あの方はおっしゃった。
 ああ、そうだ。
 違う。死にたくないのではない。
 ただ。
 俺達は。

「『 生きたい 』」





「大方かぐやが融合させたかなんかしたんだろ?」
 がしがしと頭を乱暴に掻きながら男が言った。
 下僕らが驚いたような顔をする。
「かぐや様はそったら事もなさる事ができるだか?」
「満月ならな。お前らは銀の目をしたあいつを見たことがないか?何度見てもすげぇよ。圧倒される」
 その男の言葉に、俺はひどく動揺した。
 銀の双眸をなされたあの月の御方。
 本来の姿。
 それを、この男は見ているのだ。
 何度も。
 幾度も月が廻る間、この男はあの方の側近くに仕えていたのだ。
『ねぇ、いつかあの人に会ったらつたえて頂戴。かぐやはいつまでも待っているからと』
 そう、あの方はおっしゃられた。
 黒い双眸で。
 その双眸は、満月の下とも変わらず俺を捕らえて放さない。
 なんと美しく残酷なのでしょう、あなたという方は。
 俺というくだらない存在さえも惹き付けて、しかし求めるのは違うものなのですか。
「あの方が、待っている」
 俺は低く言った。
 男は怪訝そうに俺を見た。
「......俺は狼男。あの方から、言伝を頼まれて来た。桃太郎」
 あなたの口からこの男の名がつむがれるたび心臓から血が流れるようでした。
 恋人なのだと、あなたが笑うたびかつて失った右目が疼くようでした。
 ずっと待っていると、あなたが真摯におっしゃったとき、かつて失った左腕をもう一度失いたいと思いました。
 さすればあなたはきっともう一度、
 俺達をこの地獄から救ってくださる事でしょう。
 男の表情が怪訝そうなものから、期待に満ちたものに変化する。
「会ったのか......かぐやに」

『あのひとはね、私をかぐやと呼ぶの。夜をも隠す月の姫だと、隠夜と呼ぶのよ』

 ああ。





 俺はこれから、この男と下僕をあなたのもとへ連れていくでしょう。
 それこそあなたが最もお喜びになる事だと俺は知っているから、そうせずにはおれないでしょう。
 俺のものになって欲しいなどと願った事はありません。
 触れるのも名を呼ぶのもためらわれる尊いひと。
 けれどどうか、誰のものにもならないで欲しいと思うのは傲慢でしょうか。
 あなたの口からあの男の名がつむがれるたび心臓から血が流れるようでした。
 恋人なのだと、あなたが笑うたびかつて失った右目が疼くようでした。
 ずっと待っていると、あなたが真摯におっしゃったとき、かつて失った左腕をもう一度失いたいと思いました。
 ああせめて、あの頃に立ち返りたい。
 あなたと出会ったあの瞬間。
 あなたが俺だけの月の女王であったあの瞬間。

 俺がただ生きる事を願っていた獣であったあの時に。