パンドラ


 妊娠中で少し不安定だった彼女は、一度だけその抱えていたものを僕に吐露した。
 君が不安だったのは知ってる。
 華子が生まれて、僕と結婚して、日本に帰って兄弟に囲まれて幸せな日々を過ごして。
 一方で君がひどい罪悪感に苛まされていたのを知っている。
 自分が幸せになってはいけないのだと君はずっと思っていた。だから結婚をするつもりも、子供を産むつもりもなかった。
 君は頑固だし、もう何年も君が一人抱え込んでいるものを僕はすぐに取り除いてはあげられないだろう。
 でもシズ。
 僕は君を諦めない。
 僕にすべてをくれた君を、絶対に諦めたりしない。




 病院に運び込まれた日は正平が側にいたので目覚めるとただ不思議そうな顔をするだけだった華子も、次の日に目を覚ましても母親がいないので大声で泣いた。仕様がないので静の病室に連れて行くとやっと泣き止み、それからずっと眠る母親の側をなかなか離れようとしない。
 静の手術は成功し、あとは意識が回復するのを待つだけだと医者には言われていた。ただ次の日もまた次の日も静の目が開くことはなく、華子は「おきないの?」と首を傾げた。
「お寝坊さんだね」
 正平は言って自分の膝に乗っかってきた華子の滑らかな髪を撫でた。絹糸のように細い華子の髪は、さらさらと肩に流れている。静がいなければ、この髪を可愛らしく結ってあげることもできないのだ。
 正平はベッドの側の椅子に座り、看護師に許可を取って近くに持ってきたテーブルにパソコンを置いている。数日は自分がいなくてもいいように采配してきたとはいえ、まったく仕事のことを考えなくてもいいわけではない。それでもベルが頑張ってくれているのだろう、パソコンに舞い込んでくるメールは必要最低限のものばかりだった。
 個室には入り口近くに洗面台もあって、簡易ベッドが置いてある。連日その上で寝ている正平は少し身体がぎしぎしとしたが、家で寝たいとは思わなかった。
 彼はすぐ横にある妻の顔を見る。
 静の頬や頭には痛々しいガーゼや包帯があって、身体からは細い点滴のチューブやコードが伸びている。彼女の心臓の鼓動を表す機械が側にあり、それが確かに動いていることを確認しては安堵する。
 彼は手を伸ばし、彼女の頬を撫でた。白い肌は暖かく、彼女が確かに生きているのだと実感させてくれた。事故にあったと聞いた時は生きているだけでいいと思えていたものが、今はその真っ直ぐな双眸を見たいと願っている。現状では満足できないのが人間というものの業の深さだ。声を聞きたい。笑って欲しい。正平、と自分を呼ぶ彼女を見たい。
 もうあれから四日が経っていた。
 武一は一昨日から通常通り会社に戻り、綱や広中も学校に行っている。三人とも仕事や学校が終わると病院に直行してきて、しばらく静の様子を見てから家に帰るという日が続いていた。
 彼らが帰る時に華子も連れ帰ってもらうので、夜は病院に正平だけが残っている。朝大学へ行く前に華子を連れて病院にやってくる綱は、いつも正平に「静は?」と聞く。そのひどく心細そうな様子に、正平は苦笑して「目が覚めたら一週間は文句を言ってやらなきゃ気がすまないね」と答えた。
 事故に遭う前のここ数ヶ月、静は少し情緒不安定だった。
 彼女は気付かれていないと思っていたようだが、自分が彼女の変化に気付かないなんてありえない。
 おそらく彼女が熱を出した日。あの雨の日からだ。
 熱で朦朧とした意識と耳朶を打つ雨の音。それは静にとって忌まわしい過去の記憶の呼び水となるものだったのだろう。
 武一の話によると、救急隊が駆けつけた時幼い彼女は、既に息をしていない両親に包まれるようにして意識を失っていたらしい。雨が強く降っていて、ただ父や母に護られていた静はほとんど雨に濡れることのないまま病院に運ばれた。
 彼女の両親が彼女を護るようにして動いたのは確かだろうし、そもそもあの夜彼女が熱を出さなければ雨の夜に車を出すこともなかっただろう。けれど事故が起きたのもその事故によって彼女の両親が死んだのもそして彼女一人が生き残ったのも、決して静の責任ではない。
 彼女は理性でそれを理解していても、どうしてもそうと割り切れないようだった。
『私が殺したの……』
 彼女のあの声を覚えている。
 妊娠が発覚したばかりの頃。やっと結婚を承諾してもらって、幸せの絶頂にいた正平はある夜ベッドの中で震えながら泣く彼女に気付いてその理由を優しく問いただした。
 まだ大きくなっていない腹を抱えこむようにして蹲りながら、彼女は搾り出すような声で言ったのだ。
『お兄ちゃんや弟達から幸せを奪ったのは私なのに……』
 そしてすすり泣き始めた彼女を抱きしめて撫でながら、正平はなぜ彼女がそう思っているのかを知らなかった。どんなに粘り強く聞いても彼女はその理由を言おうとしなかったからだ。
 この時ほど自分の無力さを思い知らされたことはなかった。どんな言葉を尽くしてもそれは彼女の心の傷に入り込むことさえできず、そして次の日目覚めた彼女は、目の周りを少し腫らせた顔で『昨日は取り乱してごめんね』と笑ったのだ。
 それ以降、彼女は彼がその話題に触れることを嫌った。馬鹿な男の逆恨みで彼女が狙われ、彼女を隠すために離れて暮らし、やがて娘が生まれ彼女が日本に帰ったのでそれを追いかけて日本で暮らすことになった。
 そしてその時初めて正平は彼女のあの屈託の理由を知ったのだ。
『静は熱で朦朧としながらも、事故の一部始終を覚えてた。ブレーキの音に、母さんが自分に被さる感触。衝撃に、焦げ臭い匂い。自分を包むぬくもりがだんだんと冷たくなっていくのも、感じてた』
 凶弾から自分を護った彼に対して怒りを露わにした彼女。あれはそういう意味だった。
 誰かに護られることを彼女は嫌っていた。
 あるいは恐れていたのだろうか。また自分が誰かを『殺して』しまうのではないのかと。
「もーすぐにぃくゆ?」
 すっかり暗くなった窓の外を見て華子が言う。
『にぃ』は武一達のことだ。
「そうだね。もうすぐ来るかな」
「はな、ここにいゆ」
 武一達と一緒に帰りたくないというのだ。彼らの話だと、華子は夜泣いてしまって手がつけられないらしい。昨日の夜なども、華子は静の眠るベッドにしがみついて離れようとしなかった。
 子供心にも不安なのだ。
 正平はずっと仕事だったから華子は四六時中静と一緒にいた。その母が目を覚まさず側にいないということが、幼い華子にはどんなにか心細いことだろう。
「おいで華子」
 正平は娘を抱き上げると膝に座らせた。自分と同じ青い双眸。静と同じさらさらとした黒髪。自分と愛しい人の可愛い娘。彼女の存在がどれだけ自分を幸せにしてくれただろう。
 彼はどこか心細そうな娘のマシュマロのような頬に音をたててキスをした。
「そんな顔をしちゃ駄目だよ。ママは華子の笑った顔が大好きなんだから」
「まま、おきない?」
「起きるよ。パパが起こしてあげる。もういい加減起きてもらわないと駄目だ。可愛い娘にこんな顔をさせるんじゃあ、ママもパパも失格だからね」
 そう言うと、彼は娘を安心させるようににっこりと笑った。
 ほどなくして広中と綱が、少し遅れて武一が病室に現れた。彼らは静の様子を確認していつものように「どう?」と正平に聞く。「よく眠ってた」と彼が答えると、「そうか」と顔を曇らせて言った。
「華子、いい子にしてたか?」
 武一はコートを脱がないまま、華子を抱き上げて笑った。いつもなら伯父に抱き上げられると嬉しそうな声を上げる彼女も、ここ数日は少し嫌そうな顔をする。母の元から連れ出されるのが嫌なのだ。
「にぃ、やー」
「あはは。武兄嫌がられてる」
 制服を着た広中がベッドの縁に腰掛けたまま笑う。
「すごい傷つく……」
 武一は本当に泣きそうな顔で言うと華子を下ろした。
「あれ、矢那さん今日はカレー?」
 広中が鼻をひくひくと動かして言った。匂いのもとは武一が鞄と一緒にテーブルの上に置いた紙袋だ。
 静が病院に運び込まれた次の日にお見舞いに来てくれた矢那は、その日から三兄弟の食事の世話をしてくれている。
 夕食になりそうなものを作って毎日会社で武一に持たせてくれるのだ。男三人分なので量もかなりのもので、大変だろうからと一度武一が断ると、そんなこともさせてくれないのかと怒られたらしい。本当に頭が下がる。
「静姉、カレーの匂いで起きないかな」
「いい匂いー。とか言って起きそうだな」
「起きるわけねぇだろ」
 壁に体重を預けて立った綱の言葉に、室内がしんとなった。広中は笑顔を消し、華子がきょとんとした顔をする。
「そんなことで起きるんならとっくに起きてる」
 次男はベッドの上で眠る姉を睨むように見ていた。少なくとも正平は、あの夜から綱が笑うところを一度も見てはいなかった。武一が軽く眉宇をひそめる。
「綱。華子が怯えるだろ。そんな顔をするなら部屋から出てろ」
「武兄は楽観的すぎるんだよ。もう四日だ。先生はいつ目を覚ましてもおかしくないって言ってたのに、どうして静は目を覚まさない?」
 壁にもたれかかったまま、綱は兄に視線を移した。その目は兄を糾弾するかのようだったが、長兄は仕様のない子供を前にしたかのようにため息をついた。
「それがわかるならこんな悠長になんかしてない。俺達が沈んでたって静は起きないだろ」
「ああ。そりゃご立派だ」
 言ってから、綱は顔をしかめる。
 自分がやっているのが八つ当たりだとわかっているのだ。兄も弟も、平然としているわけがない。そう振舞っているだけだ。
 広中が俯く。
 華子は不安そうな顔できょろきょろと伯父達を見回した。
「けんか?」
 ぎゅっと父親の服の端を掴む少女を、正平は抱き上げてその可愛らしい顔を覗きこむと笑った。
「違うよ。大丈夫」
「くそ」
 綱は舌打ちをして身体を起こした。正平の目の前を横切って今しがた武一が入ってきた病室の扉へ向かう。
「綱君」
 その妻の双子の弟の背に、正平は声をかけた。
 三人の兄弟の中で、やはり静に一番近いのはこの次男なのだと正平は思っていた。鷹揚として見えるくせにひどく繊細で傷つきやすい。いや、その傷を隠すのが上手い分、静の方がやっかいなのだと言えた。
 そうやって彼女は何年間も、生きてきたのだ。
 兄弟への贖罪を抱えながら一人。
「武一もヒロ君も、聞いて欲しいことがあるんだ」




 この数日、正平はずっと自分の愚かさに腹を立てていた。
 静の心に巣食っているものを知っていた。
 もっと早く、無理やりにでも彼女のその屈託を取り除くよう努力するべきだった。それに触れられるのを恐れる彼女の意志を尊重するべきなんかじゃなかったのだ。
 彼女がどうしてそれをこの兄弟達に知られないようにしていたのか知っている。
 恨まれたくなかったからだ。そして恨まれた上で、赦されることに怯えていた。
 彼女はそれを自分が一生抱え込んでいくべきものだと思っていた。それを口にすれば、優しい兄弟達が彼女を赦し、あまつさえ慰める言葉を口にするだろうことを知っていたのだ。
 優しくされるべきなのは自分ではないのに。
 でも彼女のそんな葛藤になんの意味があるだろう。
 彼女はもうその心の底の闇を隠しきれなくなっている。日常の幸福と、ずっと隠して抱えてきたもののあまりの隔たりに壊れそうになっている。
 それに気付かないほど鈍感な男達ではないのだ。この兄弟達は。
 正平は華子に「ママにお歌を歌ってあげていて」と言うと、三人を促して病室の隅へ行った。華子に話の内容がわかるとも思えないが、幼児の理解力は馬鹿にはできない。ほどなくベッドの上の静の横に寝っころがった華子の拙い歌声が聞こえてくると、正平は口を開いた。
「静はずっと死にたいと思ってた」
 彼女の兄弟達は、ぴくりと顔のどこかを反応させただけで何も言わなかった。
「でもそれが罪滅ぼしになどならないと彼女はわかっていた。君達が自分を本当に愛してくれているのを知っていたからだ。だからこそどうしたらいいかわからなかった。結婚して子供を産んで、自分自身が幸福だと思えば思うほど彼女は心のどこかで自分を罵倒していただろう。自分にはそんな権利はないのだと。彼女は……」
 これはきっと彼女が死ぬまで兄弟達には言わないと誓っていたことだ。
 それを彼女が眠っている場所で彼らに対して口にすることは、彼女への裏切りかもしれない。
 でも、それがなんだというのか。
「彼女は、ずっと両親を殺したのは自分だと思ってきた。君達から両親を奪ったのは自分だと、ずっと自分を責めてきたんだ」
 彼女は馬鹿だ。
 何も理解してなどいない。
 彼女の抱えてきた罪悪になどなんの意味もないのに。
 彼女を愛する人間達の前では。
 正平の目の前で三人がそれぞれの反応を示す。広中は虚をつかれたような顔をして、綱はどこか諦念を漂わせた様子でため息をついた。そして武一は唖然としたように口をぱっくりと開けた後、みるみるうちに目を吊り上げ般若のような顔になると、怒鳴った。

「……なんだそれは!!!」

 長男の場をわきまえないその怒号は病室を震わせ、華子を泣かせ、駆けつけた看護師に説教をされるという事態を引き起こした。
 それでも正平はこれでよかったのだと疑わない。
 もっと早くこうするべきだった。
 彼女の屈託は自分だけで取り除けるものではない。ずっと、幼い頃から彼女を愛してきた彼女の家族だからこそ、彼女が罪悪を抱いてきた彼らだからこそ、きっと彼女は救われるだろう。
 時間はかかるかもしれない。
 それでもかまわないのだ。
 彼女の兄弟達はこれからもずっと彼女の兄であり弟であるだろうし、自分は一生彼女の側を離れない。誰かが側にいる限り、越えられないものなんてきっとない。
 だからいい加減目を覚ましてシズ。
 君がいないと、僕らは一歩も前に進めない。