言葉のもどかしさに腹が立つ。
 人を傷つける言葉はあんなにもたやすく棘となって突き刺さり人の心を際悩むのに、誰かを想う言葉は氷がそこに隔てられているかのように滑ってしまって染み込まない。
 誰かを救う言葉はきっとあるのに、それを探し当てられない。
 そのもどかしさに、腹が立つ。




 仕事にはならなかった。
 課長から事情を聞いてすぐ彼に電話したけれど彼は電話に出なかったから、もうこちらから連絡するのはやめた。
 側にいてあげたいと思ったし、普通に考えたらすぐにでも駆けつけてあげるべきなんだろうけど、矢那はそうしなかった。
 たぶん、今じゃないと思ったからだ。
 彼が自分を必要とするのは今じゃない。
 待っていれば大丈夫だ。
 きっと電話がかかってくる。
 この時彼女は不思議なほど彼の妹が死んだりなんかしない、ということを疑っていなかった。
 これまで彼女の身近で不幸が起きていないからかもしれない。彼女は両親も父方の祖父母も母方の祖父母も健在だし、弟妹だってうるさいくらい元気がいい。
 でもきっとそれ以上に、彼の妹が、静ちゃんが、あの困った兄弟達を置いて死んでしまえるような女の子じゃないと知っていたからだろう。
『矢那』
 その日の夜、お風呂に入った後自分の部屋の椅子に座って髪を乾かしている時にその電話はかかってきた。彼女は飛びつくようにして電話に出た。聞こえてきた声を思いのほか穏やかで、矢那は少しだけほっとした。
『さっき手術が終わって、静は大丈夫だ』
「そう」
 矢那は、なるべく自分の声が彼にとって撫でるように聞こえるようにそう言った。
『……矢那。電話に出なくてごめんな』
「いいよ。わかってる。今から行ってもいい? 明日の方がいい?」
『明日、仕事の後でいいよ。正平が残るって言うから、俺達は帰る』
「正平さん、仕事は?」
 少し驚いて聞いた。彼の妹の旦那はなんだかものすごいところの社長だか会長だかとにかくものすごく偉い人なのだという。一度だけ会ったことがあるが、そんなに偉い人には見えなかった。
『しばらくは仕事に戻らなくてもいいようにしてきたんだってよ。来るのが遅いと思ったら……。ったく。俺、本当に駄目な兄貴だなぁ』
「今頃気付いたの?」
 冗談めかして言うと、沈黙が返ってきた。
『……少し傷ついたぞ今の』
 矢那は笑った。
「馬鹿ね。駄目なお兄ちゃんだから綱君も広中君も家を出ないのよ。武一さんが駄目じゃなかったら静ちゃんだって、頻繁に家に帰ってきたりしないわよ」
『駄目駄目言うな』
「駄目なお兄ちゃんを置いて、静ちゃんがどっかに行っちゃったりするはずないわ」
『……』
「心配だもの。同じ弟がいる身として、本当に同情する。ああ、武一さんはお兄ちゃんだけど、静ちゃん、絶対武一さんのこと大きな弟って思ってると思うわ」
『お前今日は妙に刺々しくないか』
 矢那は机に頬杖をついた。まだ乾かしている途中だった髪が手に触れる。
「少し怒ってるのかも。電話無視されたこと」
『さっきわかってるって言ったじゃないか』
「わかってるから、むかつくの」
 プロポーズしたくせに、と喉元まで出かかったが、やめた。
 怒る場面ではない。
「よかったね。静ちゃん無事で」
 矢那は心からそう言った。
 彼女が嫌味でそう言っているわけではないのがわかったのだろう、武一は『ああ。本当によかった』と答えた。
「じゃあ、明日仕事の後に行くね。武一さんは休むんでしょう?」
『いや、午後は出社しようかと思ってる。手続きとかは正平がやれるし。まぁ、静の様子を見てだけどな』
「そう、わかった。じゃあ、明日ね。気をつけて帰ってね」
『ああ。ありがとう』
「じゃあおやすみ」
 本当はもっと声を聞いていたかったけれど、電話を早めに切り上げようとしたそれは彼女なりの気遣いだった。大切な妹が事故に遭って彼は精神的にも肉体的にも疲れているだろうと思ったからだ。
 けれど彼は『矢那』ともう一度彼女の名前を呼んだ。
「なに?」
 問いかけたが返ってきたのは沈黙で、彼女は辛抱強く携帯電話の向こうの声を待った。
 その息遣い一つ聞き逃すまいと耳をそばだてる。ため息一つ。うめき声一つ。
 やがて聞こえてきたのはひどく小さな弱々しい声で、彼女は一瞬その言葉の意味を理解できなかった。
『矢那。……俺は怖かった』
 彼女は息を呑んだ。
『……怖かったんだ』
それはほとんど、彼女が初めて聞いた彼の弱音だった。
 今まで冗談めかして自分は駄目な男だと口にすることはあっても、こんな風に小さな子供のような言葉を吐いたことなどなかった。
 携帯電話の向こうから息を詰まらせるような声がする。泣いているのだ、と矢那は思った。
 どんなふうになっても武一は、兄弟達の前では決して涙を見せようとはしなかった。彼が兄弟達の前で泣いたのはその両親の通夜の日が最後だ。あの日から、彼はその護るべき彼らの前で涙を見せることをやめた。
「うん」
 と矢那はただ言った。
「……うん」
 胸が締め付けられるようだった。
 今すぐ家を飛び出して、彼のもとに駆けつけて抱きしめてあげたかった。そして大丈夫だよと、母親のように慰めてあげてかった。
 もう少し若かったらそうしていたかもしれない。
 でもそうできない今を、そうしない自分を、嫌だとは思わなかった。
「私は知ってたよ、武一さん」
 彼女は声が揺れるのを我慢してそう言葉を紡いだ。
「あなたがずっと、他の全部を警戒してあなたの兄弟達を護っていたのを知っていたの。だから私はずっと、あなたを護ってあげたかった。静ちゃん達を何者からも護ろうとするあなたを抱きしめて護ってあげたかった」
 棘のような言葉はたやすく人の心に突き刺さるのに、誰かに愛しさを伝えたくて紡ぐ言葉はどうしてこんなにももどかしいのだろう。伝わっているだろうか、この気持ちが。
 嬉しいのだと。
「怖くってもいいの」
 そんなふうに自分の前で弱音をさらけだしてくれることが堪らなく愛しいのだと、伝わっているだろうか。その弱音ごとすべて自分が抱きしめてあげたいのだと伝わっているだろうか。
「いいのよ」
 頬を濡らすのが髪の毛についていた水滴でないことには気付いていた。矢那は自分が泣いていることを決して武一に悟られたくなかったし、そう振舞った。
 けれど彼がそう言うから、結局彼女はしゃくりあげてしまった。
『……お前まで泣くなよ馬鹿』
「っ。泣くわよ! 馬鹿!」
 なんて女心を解さない男なんだと矢那は憤慨した。でもその次に耳朶を打った声は蕩けるようで、彼女はますます涙を止められなかった。
『ごめん。愛してる。結婚して。俺にはお前しかいない』
「馬鹿じゃないの? どうして今それを言うの? というかもう聞いたわ。プロポーズは」
『うん。返事も聞いた。でももう一回聞かせて』
「馬鹿じゃないの」
『矢那』
「うん」
『ありがとう』
「……うん」
『お願いだからもう一回聞かせて』
 その懇願するような声にため息をつく。
 どんな言葉が人の心に深く染み込むのかなんて本当に予想できない。矢那は先日のプロポーズに対する自分の返事が、こんなにも彼の心に残ってしまったことが複雑で、そして嬉しかった。
 兄弟に関することに対してひどく頑ななな彼に、言葉のもどかしさを感じたのは一度や二度ではない。だからこそ自分の言葉がこんなふうに彼の表面の氷さえも越えられたのが誇らしかった。
 仕様のない恋人に笑みを漏らし、囁くような言葉を告げる。
「『あなたと結婚するからには、長男の嫁としてあなたもあなたの家族も皆護ってあげる』……一生私の腕の中から出してあげないから、覚悟してね」
 武一は電話の向こうでくぐもった笑い声を漏らすと、「もう覚悟してるよ」と答えた。




「姉ちゃんかっこいー」
「お姉素敵!」
 電話を切った後、そう言いながら弟妹が部屋に入ってきたので矢那はぎょっとした。
「あんた達……き、聞いてたの……?」
「沙耶の方が先に聞き耳立ててたんだよ」
「お兄ちゃん私のせいにしないでよ!」
「俺は『馬鹿じゃないの?』ってあたりからいたけど沙耶はなんかずーっと聞き耳立ててたみたいだった」
「お兄ちゃん!!」
 矢那はみるみるうちに自分の顔が赤くなっていくのを自覚した。両手で顔を覆って机の上に突っ伏す。
「でもお姉素敵! かっこいい!」
「姉ちゃんやっと結婚すんの? 一安心だな。沙耶の相手はなんか老人だしうちの女性陣は結婚しないんじゃないかと危惧してたんだ」
「老人とか言わないで! 塩野先生超素敵じゃんか!」
「信じぃだろ?」
「し、お、の、せ、ん、せ、い!」
「あのさぁ、兄としてマジで忠告するけど無理だってあれは。諦めなよ」
「無理とか知らない! 絶対諦めないから!!」
 ぎゃんぎゃんと喧嘩を始めた弟妹を前に、矢那は真っ赤になったまま弱弱しく、
「お願いだから出て行って……」
 と呟いたのだった。