犬も食わない


 広兼ははぁとため息をついた。
 もしため息で幸せが逃げるというならば、この南の国の王宮は彼から逃げ出した幸せで埋め尽くされていたことだろう。一方で、相当数の幸せを逃してしまった彼の周囲はどんよりとした曇り空のように重苦しい雰囲気の中にあった。
 すっかり旅支度を終えた広兼は、長椅子に座り少し前に息子から渡された紙片をじっと眺めていた。
『東の国へはお一人で行かれてください』
 見慣れた、丁寧で温かみのあるその筆跡は、愛してやまない妻のものである。温厚で慈愛深いはずの彼女が怒っているのはその文面からも明らかだった。
 原因は間違いなく自分にある。息子との約束を反故にするのはこれが五回目なのだ。ここ最近鳥代と話し合っていた灌漑設備の改良案を思いついたからといって、一緒に遠乗りをするという息子との約束を簡単に忘れてもいいはずがなかったのだ。
(確かにそれは俺が悪かった。……でも謝らせてくれたっていいだろ!)
 息子との約束を忘れた広兼が「今日は午後から東の国へ行く」と言った時、早苗は夫に謝罪する隙も与えず自室に戻ってしまった。そして広兼が部屋を訪れても、彼女は決して答えようとはしなかったのだった。
 その頑なな拒絶に腹を立てた広兼は、予定通り東の国へいく準備を進めることにした。瓏には自分のことは気にせず仕事にいっていいと言われている。息子はそういうところは淡白なのだ。父親との絆というものをあまり求めていない。
 今長椅子に座る広兼は、土下座してでも早苗の許しを得たいという気持ちと、どうしてそこまでしなければならないんだという気持ちがせめぎ合っているところであった。
 そもそも広兼と早苗とでは、親子の関係性に対する理想が異なる。
 広兼は親子であろうとも一己の人間としてそれぞれ自立した行動すべきだと考えているし、早苗は親子はなるべく時間を共有するべきだと考えている。
 生まれ育った環境が違うのだからそういった相違が出てくるのは仕方がないことなのだが、話し合う機会さえ与えてもらえないことが広兼のひっかかっているところなのであった。
(……まぁ、早苗の気持ちはわからないでもないけどな)
 幼い頃、あまり父と遊んでもらえなかったという話は聞いたことがある。早苗には理想の父親像というものがあって、それを自分の息子の父親である広兼に求めるのは仕方のないことなのかもしれなかった。
「ああ、くそっ!」
 広兼は悪態をついて立ち上がった。
(男の矜持など知るか)
 愛妻と喧嘩をしたまま隣国へ行くことなどできるはずもない。妻の機嫌をなおしてもらうためには土下座をも辞さない覚悟を決めた南の国の第六王子は、迷いを捨てた足取りで廊下へとつながる扉へ向かった。
 しかしその扉は、広兼に触れられる前にカチャリと何者かに開かれたのだった。
「……」
 彼が目を丸くしたのは、そこに立っていたのが、今まさに自分が会いに行こうとしていた金髪の女性だったからだ。愛らしい灰かぶり。一目で広兼の心を奪ったたった一人の妻。
「広兼様」
 目の前に夫が立っていたことに驚いた様子の早苗は、一度じっと夫を見上げるとその場で深く頭を下げた。
「申し訳ございません。私が浅はかでした。私の価値観を、あなたと瓏に押し付けて」
 ぎょっとしたのは広兼だ。慌てて妻の顔を上げさせる。
「ちょっと待て! 謝るのは俺の方だろう」
「いいえ、私の方です。瓏が気にしていないのに、私があんなに怒ることではなかったわ」
「君が怒るのは当然だ」
 先ほどまで、謝罪もさせてくれなかったことに腹を立てていたことなどすっかり忘れて広兼は言った。
「前回、もう二度と約束は破らないと誓ったのにまた忘れれちまったんだからな」
 すると早苗は一度目を丸くしてから拗ねるように唇を尖らせ、じとりと広兼を睨みつけた。
「それはおっしゃる通りですわ、広兼様。守られない約束など意味はないのですもの」
 まさかさらに糾弾されるとは思っていなかった広兼は思わずたじろいだが、次いで妻がぷっと吹き出したのを見て息を吐いた。
 くすくすと笑う早苗に、頭を掻く。
「勘弁してくれ」
「ごめんなさい、今のあなたのお顔がおかしくて」
 広兼は妻の腕を引いて部屋の中に入れると、バタンと扉を締めて彼女を腕の中に閉じ込めた。嗅ぎ慣れた、甘くやさしい香りに安堵する。
「ああまったく、あなたって人は俺を振り回す天才だな」
「ほめ言葉だわ」
 そう言ってから、彼女は顔を上げて間近から夫を見上げた。この青い瞳が曲者なのだ。賢さと可愛らしさと優しさを兼ね揃えている。子供を産んでもこんなに愛らしいなんて卑怯じゃないか?
「先ほどの書付は処分してくださいますか? 私も一緒に連れていってください」
「もちろん。俺があなたを置いていくはずがないだろ? あなたがきてくれなければ、俺はあなたが出てくるまで部屋の前で頭を床にこすりつけているつもりだったんだから」
「まぁ」
 冗談だと思った早苗がくすくすと笑う。
「それも見ものだったかもしれませんね」
 すると広兼は少し眉をしかめてから妻に啄むようなキスをして、「まったく、あなたを怒らせていいことなど何もないな」と嘆息したのだった。