『おや、雨が降っていたのか』
 会社を出て、正平は驚いたように空を見上げた。
 しとしとと降るそれは、まるでその雫ひとつひとつに音を奪う精霊が宿っているかのように、周囲の音を吸収している。静かだ。
 日本の雨は、イギリスとは違う。じめじめとしている。空気が重みを持っている。
『アーネスト様?』
『ああ』
 玄関まで見送りにきたサミュエルが、車の前で立ち止まった上司に怪訝そうな目を向ける。
 サミュエルは正平よりも二つ年上の有能な秘書である。ワックスできっちりとセットされた銀髪に黒いスーツは彼のトレードマークだ。
 運転手が後部座席のドアを開ける。運転手は日本人で名前は高遠。白髪まじりの頭に好感が持てる。
 車に乗り込んだ正平に、サミュエルが腰をかがめて話し掛けた。
『では、明日の朝八時にお迎えにあがります』
『サミュエル、明日は河野の家の方に車を回してもらえるか?』
『は?』
 河野の家とはつまり、彼の妻の実家だ。
『シズが今日は実家に遊びにいってるんだよ』
 正平のその一言で、サミュエルは全てを合点したようだ。彼はわかりましたと頷き、お疲れ様でしたと言って車から離れた。
 ばたん
 ドアは自動で閉まる。
 そして車は動き出した。
「というわけで高遠さん、今日は河野の方に帰ってくれるかな」
「かしこまりました」
 車内で、正平は日本語で言った。
 高遠は何も聞かずに答えた。ただその顔には、優しげな微笑がうかんでいた。純粋に、自分の雇い主夫婦の仲のよさを微笑ましく思っているのだろう。
 正平は窓の外を見た。
 雨が窓を打つ。
 静な車内に、ウィンカーの音が響く。
 静は、雨の日は外出しない。
 彼女は朝の、まだ雨が降っていない時に実家へ帰ったはずだから、それから雨が降り出したのなら河野家から出ていないはずだった。
『雨は嫌い』
 出会ったばかりの頃、彼女は言った。
 あれはどういうシチュエーションだったか。
『どうして?』
 正平は聞いた。
『乱暴だもの。全てを奪っていく』
 答えた静の双眸は冷たかった。
 彼女のその言葉の本当の意味を知ったのは、ついこの間だ。
 河野家の兄弟達は、皆雨を嫌う。
 それは彼らの日常を奪ったものだから。
 それは彼らの日常がなくなった日を思い出させるから。
 車の外で降る雨はよわよわしく窓にあたってはじけた。
 思えば、あの時彼女の声に含まれていたのは、憎悪だったかもしれない。
 彼女の両親が死んだのは雨の日だった。




 合鍵を使い、「ただいま」と言って河野家の玄関をくぐった正平は、まるで眩しいものを前にしたように「うっ」とのけぞった。
 玄関前の廊下。居間へと続く扉からひょこりと顔を出し、思わず手を貸したくなる足取りでこちらへやってくるのは小さな女の子。ふっくらとした頬の上にちょこんとのった双眸は青く、小さな口元なんかは将来は美人になるだろうと予測される。彼女は、玄関にたどりつくと正平を見上げ、花のような笑顔を見せた。
「ぱあぱー」
「ただいま華子ーっっっ!」
 思わずスーツ姿のまま鞄をほっぽりだし愛娘を抱きしめる金髪碧眼のイギリス紳士。
「あああもう本当になんて可愛いんだっ!」
 そう言ってその白い肌に頬擦りをする。正平は毎朝一ミリも残さず髭を剃っている。もともとそんなに髭の濃くない体質なのだが、一度、ちくちくすると華子にほお擦りを嫌がられてからはもう念入りに剃っている。その甲斐あってか、華子は嬉しそうに笑った。その笑顔がまたかわいく思えて、正平はだらしなく顔をゆるめる。
「うーわーどうよあれ」
「整った顔が台無し」
「見るも無残だね」
「華子の将来が心配だなこれ」
 その様子を居間からのぞき見ていた河野家の兄弟四人がそれぞれに感想をもらした。
 上から長女静、次男綱、三男広中、長男武一である。
 妻と義兄弟達のその言葉が聞こえているだろうに、正平は華子を抱っこしたまま器用に靴を脱いできちんとそろえると、玄関にあがり兄弟達が顔を出す居間に向かう。
「ただいまシズ」
「おかえり」
 いつもの習慣のまま、静の頬にキスをした。
 正平が、ああ僕って幸せだなぁとか感じるのはたとえばこういう時だ。愛しい娘と妻に出迎えられて、家に帰る。これに勝る喜びなどない。さらに楽しい彼女の兄弟達がいるのなら言うことはないだろう。
「ご飯は?」
「食べるよ」
「ん。綱、用意してあげてくれる?」
「へーい」
「華子。こっちおいで」
 広中が華子を受け取り、正平は背広を脱ぐ。静がその背広をハンガーにかけた。
 正平は鼻をひくひくとさせて、顔をほころばせた。
「今日は餃子?」
「うん。作るのは華も手伝ってくれたのよ」
「へぇ」
 父親が驚いたような顔で自分を見るのを見て、広中に抱かれたまま華子がまたにこーっと笑う。
「えらいね華子」
 その笑顔にメロメロになりながらもそう言って正平が娘にキスをしようと身をかがめると、わっと言って広中が飛びのいた。肩透かしをくらった形になった正平が怪訝そうに末っ子を見る。
「どうしたんだい?」
「いや、僕がキスされんのかと思ってちょっとびびった」
 所かまわず接吻をかわす正平の習慣に、河野家の兄弟達はまだ慣れない。
 正平は一瞬きょとんとして、すぐににっこりと笑顔を見せた。
「そういえば広中君にはただいまのキスがまだだったかな」
「いやいいですいいです」
 広中が首をぶんぶんと振る。
 しかし逆に、彼の腕の中の華子は強請るように手を伸ばしていた。
「ちゅー」
 なるほど。この親にしてこの子あり。華子は無事父親の影響を受けて育っているようだ。
「よしよし、華子は素直だね」
 正平はそう言うと、ちゅっと音とたてて娘の頬にキスを落とす。
「いや、素直とかそういう問題じゃないだろ」
 そう冷静に突っ込んだのはその時すでにソファで新聞を広げていた武一だった。
「用意できたぞー」
 ダイニングから綱の声。
「正平、手洗ってきてね」
「オッケー」
「はなー」
「あ、まって華子暴れないで」
 外の雨とは裏腹に、河野家はにぎやかだった。




 勉強するからと綱がまず二階に上がり、華子を寝かしつけるために静も部屋へ行き、パソコンをすると言って広中が二階に戻った午後十一時。
 男二人の晩酌の時間である。
 外ではますます雨が強まっているらしく、ざあざあと音は止まない。
 こういう日は、武一から正平を晩酌に誘う。
「少しだけだよ」
「わーってるって」
 なんの保障にもならない約束をかわした二人は、日本酒を一升瓶とコップを二つ出してダイニングの椅子に座った。
「ま、今日もお疲れさん」
「武一もね」
 お互いにお互いのコップに酒を注ぐ。
 同年代ということで思いのほか気の合った二人は、たまにこんな夜を過ごしていた。
 正平が日本酒の味を覚えたのも、こんな晩酌を知ったのも、全て日本に住み始めてからで武一に教わった事だった。静も綱も下戸で広中は未成年だったので、これまで家庭内の酒の相手に恵まれなかった武一は、ここぞとばかりに正平に日本酒の味を教え込んだのだ。
「ん。うまいね」
「だなー」
 一口飲んで、二人はにっこりと顔を合わせて笑う。
 こんな時に話すのは色々だ。
 仕事の事。政治の事。イギリスでの生活や、日本の生活。これまで全く違う生活環境で育ってきた二人には、話しが尽きる事はなかった。
「なぁ正平、お前まさかあんな醜態会社では見せてないよな?」
「醜態?」
「帰って来た時に華子にしてたような事だよ」
 言われて、正平は声を出して笑った。
「まさか。華子が会社に来たことはないからね」
「ったく......お前、そういうところ本当にうちの父親にそっくりだよ」
 武一が呆れたように笑う。
 正平は首を傾げた。
「武さんに?」
 河野武。今は亡き、兄弟達の父。
「そ。父さんも子供にはメロメロだった。広中が初めてしゃべった時なんか、あいつが泣き出すまで「ぱぱ」って言わせてたしな」
「......」
 心当たりのある正平はただごまかすように笑った。
「女の子は父親に似た人を好きになるって言うけど......あれ、本当だな。たまに、父さんが生きてて、一緒に晩酌してたらこんなんなのかなぁとか思ってたんだよ」
 ごめんな。
 と武一は言った。
 正平はいいのだと答えた。
 武一が、こんな風に、晩酌の席で父親の事を話すのはこの日が初めてだった。彼が今まで、自分を通して彼の父の姿を見ていたのだと知って、正平は怒るよりも先に不思議な気分を感じた。まるで河野武という人物が、本当に自分の中にいるような錯覚。
 外では雨の音がする。
 そのせいだろうか。
 今日の武一は、まだ二杯目なのに饒舌だ。
「俺はさ、長男じゃん?母さんと父さんとの思い出も、俺が一番持ってるんだよ。だから二人がいなくなったら、俺が弟達にその思い出を分けてあげなきゃと思ったんだ。遠足に行ったときとか、節句人形を買いに行った時とか、色々思い出すだろ。静と綱が生まれた時。広中が生まれた時。俺小さい頃の記憶は鮮明だよ。記憶力はいいんだ。病院で初めて赤ちゃんてものを見た時は、なんてグロい生き物なんだと思った。けど可愛いって思った。身内の欲目なんだけどさ。でさ、そうやって思いでを辿っていくと、最後にたどり着くのは雨の日なわけ」
「うん」
 武一の目がぎらりと光る。
 雨。
 と、その言葉を口にした瞬間。
 あの日の静を思い出す。
『乱暴だもの。全てを奪っていく』
 そう言った彼女。
「雨ってのはさ、クソ忌々しいね。じめじめしてて、元気を吸い取られてるみたいになる」
 武一はそうはき捨てた。
 河野家の兄弟は雨が嫌いだ。
 誰がなんと言おうと、雨が嫌いだ。
 それは、彼らの全てを奪ったからだ。
 空になったコップに三杯目を注ごうとする武一の手を、正平は止めた。
「今日はそのへんにしといたら?」
 武一は、一升瓶を手にしたまま、じっと正平を見上げた。
 武一は酒が強い。だから日本酒を二杯飲んだくらいで酔うはずもないのだが、正平は止めた。そうすべきだと思ったからだ。
 と、武一はにやりと笑った。どこか嬉しそうな笑顔だった。
「やっぱお前父さんみたいだな」
 そう?と正平は答えた。
 そのまま武一はもう寝ると言って席を立った。
 悪いけどコップは台所においておいてくれる?
 わかった。
 おやすみ。
 おやすみ。
 ばたん、と居間のドアが渇いた音を立てた。
 後にダイニングに残された正平は、一升瓶の蓋を閉め、コップをシンクに置くとカーテンの閉められた窓ガラスに近づき、カーテンを引いた。
 雨の音が一層近くなった気がする。
 目の前には空から降りそそぐ水。
 河野家の兄弟は雨が嫌いだ。
 憎悪している。
 では、正平はどうだろう。
 彼は自問する。
 彼が雨に抱く感情はなんだ。
 それは確実に、静と出会う前とは違う感情。
 かといって憎んでいるわけではない。
 まるで地面にあたって砕けることを目的としているかのように、降りそそぐ雨。
 なんの感情もなく、いっそ無慈悲なほどに。
 そしてそれは、呪縛となって河野の兄弟達を縛っている。
「どうか......」
 正平は呟いた。
 今、彼の中にあるのは、敬虔な、神を前にしたような静寂だった。
 それは祈りだ。
 どうか。
 呪縛を解いてください。
 そして、僕の愛するあの兄弟達を、解き放ってください。
 請うように。
 もし河野家の父が生きていたらそうすると思われるように、正平は、ただ、祈った。
 ......どうか。
 それは、世界に響くような祈りであった。