螺旋


 ぐるぐるぐると世界は回ってる。
 同じような所を回っているように見えても、実は違う道を選んでる。
 少しずつでも進んでる。
 ぐるぐると。
 進んでいるんだ。




 家に帰るといつものように愛娘と愛妻が出迎えてくれて、正平は今日という一日が報われたような気分になったが、愛娘が首にかけたおもちゃの指輪を見つけてその由来を妻から聞くと、一気に気分が逆転した。
「なんだって?」
 まるで重大な取引の破綻でも聞かされたような顔で夫が聞き返してくるので、静はなんだかおかしくなった。
「華子ったらもてるのね。さすが私の娘だわ」
 なんでも公園で遊んでいたら、幼稚園くらいの男の子が華子にあげたものらしいのだ。その指輪は華子の指には大きすぎたため、静が首にかけられるようにしてあげたのだ。
 正平は憤慨した。
「そんな。だって華子はまだ二歳にもなってないんだよ」
「相手の子はもう五、六歳よ。私の初恋だってそのくらいだわ」
「でも華子はまだ赤ん坊だ」
 言い張る正平に、静はあきれたような顔をした。
「別に二人が付き合いたいとか言ってるんじゃないのよ。小さな男の子がもっと小さな華子に好意を持ってくれてるってだけじゃない。あなたの許可がいること?」
「指輪をあげるなんて生意気だ」
「おもちゃの指輪よ」
「僕がおもちゃの指輪をあげたって君は喜んでくれるだろう?」
「そういう問題なの?」
「そういう問題だよ。とにかく僕は気分が悪い。先にシャワーを浴びてくるよ」
 珍しく怒っている様子の夫の背中を見送りながら、静はため息をついた。正平はたまにこんな子供っぽいところをみせる。可愛いとも思うが、先行きが不安だ。華子は教育テレビの着ぐるみの熊のようなたぬきのような生き物をみてはしゃいでいる。自分は考えた事もなかったが、この子はきっと、恋人と父親の間で挟まれるような経験をするのだろう、と可愛そうに思った。


「何言ってんだよ。静だって恋人と父親の間に挟まれた事があっただろう?」
 そう笑ったのは武一だった。
 長女夫婦は同時に反応した。
「なにそれ?」
「恋人?」
 驚いたように目を見開いたのが静で、眉間にしわをよせたのが正平だ。
 鯖の煮付けを箸にとりながら武一は続けた。
「小学校の時だよ。同じクラスのなんとか君に静がラブレターをもらって、父さん大激怒」
「ああ、それなら覚えてるかも」
 応じたのは綱だ。
「確か…佐藤とか鈴木とかそんな平凡な名前だった気がする」
「もしかして田中君?」
 静が怪訝そうに言うと、「そうそうそんなかんじ」と綱が言った。
「ラブレター……もらったかなぁ?」
 箸をとめて、静が首をかしげる。
「うっそ。静姉、それはないよ。田中君がかわいそすぎ」
 広中が大げさなくらいに驚くと、静は唇をとがらせて反論した。
「だって覚えてないもの。なによそれ武兄? 本当の事?」
「本当。あーお前覚えてないのも当然だな。ラブレター持って帰ったのは綱だし、父さんはお前の前では怒らなかった」
 この言葉に静は顔をしかめた。
「なによそれ。どういう事?」
「俺がラブレター預かったの」
 綱が味噌汁を飲んでから言った。
「んで、静は委員会かなんかで家帰るの遅かったから、先に父さんとかに見せたの」
「なんで先に父さんに見せるのよ!」
「大事な双子の姉が生まれて初めてもらったラブレターだぜ? 親に見せないでどうするよ」
 綱はしれっと答えた。
「で、父さん激怒」
「……なんか、激怒してる父さんって僕想像できないんだけど」
 広中の記憶にあるのは、いつもやさしく笑っている父だ。はいはいと、我侭を聞いてくれるような人だった。
「すごかったぜ」
 武一が笑う。
「あの母さんがびびってんの」
「シズ、ラブレターもらった事あるの?」
 どこか拗ねたように正平が言う。
「知らないわよ。私覚えてない」
 そんな風に言われるなんて心外だと、静は首を振った。そもそも男の人に告白された経験さえ、正平を除けば彼女にはなかった。中学生までは男の子のように育ったし、両親が死んでからはバイト三昧で男の子と遊ぶ暇なんてなかったのだ。
「とにかくすごかったよ」
 武一は思い出すように言った。
「あんなに父さんが怒ったのは初めて見た」




『そんなもの、静に見せなくていいよ』
 武は言った。
『何言ってるのよ。静がもらったものよ。静が見ないでどうするの?」
 非難するように伊津が顔をしかめる。
 武一は読んでいた漫画から顔を上げた。
『だって静はまだ小学生だよ』
『もう小学生よ』
 伊津は呆れた様子で両手を腰にあてた。
『ちょっとねぇ、本気? あなた小学生に嫉妬してるの?』
 すると武が妻を睨んだ。
 武一は驚いた。父がそんな風に母を見る所など、初めて見たからだ。今のこの状況を作り上げた原因を提示した弟は、所在なげにソファの横に立っている。
『伊津さんも本気? 静はもう小学生なんだよ』
 伊津自身も夫のこの反応には驚いたのだろう。たじろいだような様子を見せた。
『僕は、小学生の頃にはもう君を好きだったよ』
 両親は恋愛結婚だった。小学生の頃から母を好きだった父が、執念で母を振り向かせたらしい。けれども子供心にも、母の方が父を愛しているように見えた。父はどちらかと押しが弱く、笑いながら母をなだめているような人だった。だからこそ、父のこの反応に武一は驚いていた。今の今まで読んでいた漫画の内容など頭から吹き飛んでいた。
『ともかく駄目だ。ラブレターなんて、消極的な方法で好きな子を振り向かせようとする男に静は近づく必要はないよ』
『ちょっと、本気で言ってるの?』
 伊津は驚いていた。
『僕は本気じゃなかった事なんかない。それは君が一番よく知ってるだろう?』
 きっぱりとはねつけるように武が言うと、伊津はもうそれ以上なにも言わなかった。その後静が帰ってきても、結局綱はその件のラブレターを姉に渡せなかったのだった。




「うそでしょ?」
 呆れたように静が言う。
「本当」
「あーなんか、思い出してきた。あったな。そんな事」
 綱が言うと、信じられないといった様子で静が顔をしかめた。
「正平さんは父さんと同類って事?」
 広中が苦笑した。
「知らなかった。静姉ファザコンだったんだね」
「ちょっと。聞き捨てならないわよ」
 と静が弟を睨む。
「でも僕お義父さんの気持ちわかるなぁ」
 正平がため息をついた。
「だって可愛い可愛い可愛い娘に虫がつくかもしれない瞬間を知っちゃったんだよ? そりゃ払いのけたくもなるよ」
「ちょっとあんた本気? 虫って。華子はまだ幼稚園にも行ってないのよ?」
「だからこそだよ。僕たちが守ってあげなきゃ」
 きっぱりと言い切った正平に、静は呆れたように口をあけた。
 その様子を見て、武一は笑った。
「すっごいデジャブ」
「父さんと母さんを見てるようだね」
「へー。父さんと母さんってこんな感じだったんだ」
 兄弟たちに見られて、静と正平は居心地悪そうに居住まいを正した。
「ともかく」
 それでも正平はきっぱりと言った。
「僕は認めないよ。華子には恋とか愛とか、まだまだ早すぎる」
 だから、誰もそんな話はしていないのに。静はため息をついた。




 次の日、仕事中の正平に電話がかかってきた。
 武一からだった。
「どうしたの? こんな時間に珍しいね」
 仕事の手を休め、正平は椅子の背もたれによっかかった。ちょうど朝から働き通しだった。もう昼の三時だ。彼は仕事をしていると時間を忘れる事がよくある。
『外回り中でな。ちょっと、お前に礼が言いたくて』
 電話の向こうで武一は言った。
 正平は首をかしげた。何の事だろう。礼を言われるような事をした覚えはない。
『昨日、久しぶりに父さんと母さんの思い出話をしたよ』
 正平の疑問に答えるように武一は続けた。
『ずっと、父さんと母さんのいろいろな話をあいつらにしてあげなきゃって思ってたけど、中々言い出せなかった。怖かったんだ。言い出したら何か破綻してしまうような気がしてた。張り詰めていた何かを壊してしまうような気がしてたんだ』
 けどそんな事思い過ごしだったな、と武一は笑った。
『びっくりしたよ。あんな自然に、父さんと母さんの話ができるとは思わなかった。あいつら皆、普通だったろう?』
 そう言って来る武一の声が、正平には肯定を求めているように聞こえた。
 そうだと、いう言葉を彼は求めている。
「……うん。そうだね」
 正平は答えた。
 けれど武一は彼の数秒の沈黙を敏感にとらえたようだった。
『……ああ。悪いな。仕事中に、くだらない事で電話かけて』
「いいよ。気にしないで」
『お前、親ばかもほどほどにしろよ。でないといつか華子に嫌われるぞ』
 正平は苦笑した。
「うん。気をつける事にする」
 そう言って電話を切った。
 しばらく切った電話を見ていると、サミュエルが話しかけてきた。
『どうかなさいましたか?』
『いや……』
 正平はしばらく何かを考えるように電話機を見ていたが、ふと顔を上げて自らの秘書を見た。
『サム。時間はすべてを解決すると思うか?』
 サミュエルは珍しく驚いたような様子を見せた。仕事中に彼の上司が彼をサムと呼ぶ事は珍しかった。しかし有能な秘書は、すぐにその動揺を隠して答えた。
『人に永遠が約束されているならイエスですが、残念ながら現状ではノーと申し上げる他ありません』
 しばしの沈黙ののち、正平はそうかと答えただけだった。