レトロ


 武一は矢那を抱きすくめ、唇を押し付けた。
 だんだんと激しくなってくる接吻に、二人の息が上がる。苦しそうに顔を赤くする矢那をそっとベッドに横たえ、武一は矢那の顔中余す事がないように口付けを落とした。そしてその甘い雰囲気のまま手を彼女のシャツのボタンに伸ばす。
「待て」
 甘い雰囲気は、矢那の言葉で壊された。
 自分のシャツのボタンにかけられた武一の大きな手をそっと握り、彼女はにっこり母性溢れる笑みを浮かべ、
「おすわり」
 と自分の恋人に向かってのたもうた。
 犬のように扱われて続けられる度胸のない男、武一はしぶしぶベッドから降りて床に座る。
 そんな彼の前に同じように座り、矢那は小さなペットに言い聞かせるように人差し指を立てて言った。
「押し倒しちゃいけません」
 めっ、と言って軽く武一を小突く真似をする恋人を見て、彼は不満気に開き直って言った。
「密室で二人っきりで押し倒さずにおれるか」
「ハウス!」
「俺は犬か!」
 それなら出て行けといわんばかりに部屋の扉を指差して言った矢那に、武一は思わず突っ込む。
「だって二人きりなのがいけないんでしょ?なら武一さんの家に行きましょうよ。静ちゃんや華子ちゃんがいるでしょ?」
 武一はなんだか泣きたくなって目頭を押さえた。
「なんでたまの休日に恋人と妹と姪っ子のいる家で過ごさねばならんのだ。てゆーかお前は二人きりになりたくないのか」
「なりたくないわけないじゃない。でも二人きりだと武一さんが押し倒してくるから」
 まるで当然の事を言うように矢那は答える。
 武一と矢那は付き合ってもうすぐ四年になる。
 今の会社に入社して同期だった二人はなんとなくそういう雰囲気になりなんとなく付き合い始めた。
 そのなんとなくが四年も続いているのだからすごい。
 そしてその四年の間、二人はキスより先の事をしていない。
 なぜかと言うと、矢那が頑なに拒んでいるからだ
「男が好きな女を押し倒したくなって何が悪いっていうんだ」
「別に悪くはないけど、あれ、本当よね」
「なに?」
「ピンクレディ」
 男は狼なのーよー♪
 と軽く歌って見せる矢那に、武一は思いっきり脱力した。
「くっおかしな歌流行らせやがって」
「ヒットしたの七十年代だっけ?偉大な歌よね」
「あーそーかもね!」
 そう言って、武一は矢那に背中を向けた。
 完全に拗ねてしまったらしい恋人に、矢那は思わずくすくすと笑いをもらす。
 仕事場では一応クールで通ってる彼が、自分の前ではこんな子供っぽい面を見せてくれるのが矢那には嬉しかった。
 矢那は武一の機嫌を取るように、彼の正面に回って覗き込むようにした。
「怒ってる?」
「......」
 返事をしないでそっぽを向いているのがなんとも言えずかわいくて、矢那はそのまま首を伸ばし、キスをした。
「キスならいくらでもしてもいいのよ?」
 そう言って満面の笑みを浮かべる。
 武一は、その笑顔に弱かった。
 結局二人で河野家に向かいながら、武一はぽつりと呟いた。
「お前って古風だよなぁ」
「ん?」
「だって結婚するまでだめなんて、今時のギャルは言わないぞ」
 三年前、初めて武一が行為に及ぼうとした時に拒絶した矢那の理由というのが、
『嫁入り前の娘が子供が出来るようなことをするなんて言語道断』
 だった。
 それ以来武一が何度チャレンジしようが玉砕している。彼は矢那のその頑なさに怒りや不安を通り越して感動さえしていた。
「武一さんはおじさんよね」
「は?」
 笑顔で返された恋人のあまりな言葉に、武一は眉をひそめた。
「だって今時の二十七歳が、ギャルなんて言わないわ」
「うるさい」
 そう言うと、矢那はあははと笑った。
「古風だなんて、今時じゃないわ。レトロと言ってよ、武一さん」
「知ってるか?レトロってフランス語なんだぞ」
「え、そうなんだ?」
「どこの国の言葉かも知らないで使うなよ」
「ふふ。武一さんは物知りね」
「おじさんだからな」
 矢那は笑った。
 その笑顔を見て、武一も笑った。




「やっぱ矢那さんって大人よね」
 武一の話を聞いて、静はそう感想を漏らした。
「どこが?」
「やだ武兄、わかってないの? これだから男って」
「なんだよ」
 静は居間で洗濯物を畳む手を止めて、呆れたように兄を見やった。武一はソファに座っている。正平が今仕事でイギリスへ帰っているので、静は三日前から河野家で寝泊りしていた。綱と広中は各自の部屋に引っ込み、華子は静の側ですやすやと眠っている。
「どうせ武兄は広中が成人するまで結婚しないとか言ってるんでしょ?」
「当然だ」
 広中は十七歳である。
 武一は、弟妹が全員が成人するまで結婚はしないと大分前から決めていた。矢那と付き合い始める前からだ。そしてそれは矢那にも言ってあった。矢那は待っていてくれると言ってくれた。
「馬鹿」
 静は兄に暴言を吐いた。
「矢那さんはね、武兄の罪悪感を減らそうとしてくれてんの。兄弟が全員成人するまで結婚しないとか馬鹿な事言ってる男が待たせてる事で負い目を感じないように、矢那さんも「待って」って言ってくれてんの。わかる?わかんないんだったらマジで馬鹿」
 静はふんと鼻を鳴らして洗濯物を畳むのを再開した。
 負い目?
 罪悪感?
 武一は眉をひそめた。
『矢那、俺は弟が成人するまでお前と結婚できない』
 そう告げた時、武一の心にあるのは不安だった。
 両親が死んでから、武一はいつも家族を優先させてきた。恋人ができても、クリスマスも誕生日も家族と過ごした。それに我慢できなくなり離れていく女ばかりだった。
 武一は不安だった。
 矢那も離れていくのではと。
『武一さん、私は結婚するまであなたに処女を捧げられません』
 彼女はそう言った。
 あの時、対等になった気がしたのは確かだった。
 武一は矢那を待たせている。
 矢那も武一を待たせている。
 不安や負い目は薄れた。
「矢那さんって素敵よね。絶対、内助の功もできる良妻賢母になるわよ。逃したら殴るからね、武兄」
 洗濯物を畳みながら静が言った。
「ちょっと出てくる」
 そんな妹の言葉を無視して、武一は立ち上がった。ポケットから携帯を取り出しながら居間を出て行く。短縮番号を押すのももどかしかった。部屋着のまま車のキーだけを取って玄関で靴を穿く。
 プルルル
 呼び出し音も長い気がした。
 玄関を出る。
 夜気が顔を打つ。
 そしてがちゃんと扉を閉めた。
 ちゃんと戸締りをしろと釘を刺して出てくるのを忘れた事に気付いたのは、武一の車が矢那のマンションの前に止まった時だった。
 次の日、「お兄ちゃん、真夜中に密会」と弟達にからかわれたのは全くの余談である。