カラフル

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 ドは赤。
 レは菫。
 ミは黄金。
 世界は色に満ち溢れている。
 あたしの前にめまぐるしく現れる。
 ファはピンク。
 ソは空色。
 ラは黄色。
 世界の音の全てが音階で言えるように。
 世界の音の全てが色に変わる。
 シは銅色。
 死は。
 悲しい色。
 物心ついた頃からずっと、あたしの世界は色だった。
 音を聴くと、その音の色が見えるのだ。
 この十五年間ずっと、あたしの世界はカラフルだった。
 世界は変化に富んでいて、明るくて、楽しかった。
 けれど。
 ああついに。
 世界の終わりがやってきたのかもしれない。





 今日は土曜日。茶色の日なんだけど、世界は銅色だった。
 ずっとだ。火曜日からずっと、あたしの世界は十円玉の色だけで構成されている。
 赤い色のお母さんも、青い色のお父さんも、黄色の奈美ちゃんだって、今のあたしには銅色だ。
 不安になった。
 これからずっと、あたしの世界は銅色なのだろうか。
 けれど一方でそれも仕方ないのかもしれないと思った。
 火曜日に。
 シロが死んだ。
 シロはあたしが生まれた日にうちにやってきた。その頃は子犬で、ずっと一緒に育ってきたあたしの弟だった。少し色の変わった眉毛のところの毛がかわいい奴だった。雑種で、世界中を探しても彼と同じ犬はいないと思った。ピンと立った耳も、肩の所にあるこぶも、全部シロのオリジナルだった。
 鳴き声だって、シロのものはすぐにわかった。駅を出て家に歩いていてシロの鳴き声がしたと思って探したら、散歩に来ていたシロと母さんに会った。
 シロの鳴き声はオレンジだった。
 だからあたしの一番好きな色はオレンジだった。
 シロが鳴くと、あたしの視界にぱっぱっとまるで点滅する蛍光灯みたいにオレンジ色が光る。そうするとあたしは何だか嬉しくなって、シロをぎゅっと抱きしめた。
 オレンジは、優しい色だ。
 穏やかな色。
 けれどもう二度と、あたしはシロのオレンジを見る事はない。
 そう思うと、あたしの心は暗い色に侵食されるようになる。
 銅よりも黒に近い、黒よりも闇に近い、闇よりも虚に近い。
 暗い暗い色。
 銅色の世界は味気なくて、あたしはあまり笑えなくなった。
「最近元気ないよ? 大丈夫?」
 奈美ちゃんがあたしの顔を覗き込む。あたしは笑顔を作ったけれど、うまく笑えなくて変な顔になった。
 学校はたくさんの色が溢れた場所だったのに、ずっと単色だ。ずっと銅色。
 たすけてたすけて。
 あたしは心の奥で悲鳴をあげた。
 たすけて。
 この銅色の世界から、どうか誰か連れ出して。
 あたしはもう、死んでしまいたいよ。
 パチン
 一瞬。
 オレンジが弾けた。
 あたしははっとして、教室を見回した。
「妙ちゃん?」
 奈美ちゃんが首を傾げる。
 何の音だろう。オレンジの音。一瞬それが聞こえたのだ。
 オレンジは否応もなくシロを連想させる。
 白い毛並み、黒い目。かわいい弟。
 あたしはがたりと立ち上がった。
「どうしたの?」
 奈美ちゃんに答えずに、あたしは走り出した。教室を出る。
 休み時間だから、廊下にはたくさん人がいた。けれどどこにもオレンジはない。あたしは廊下を走った。
 オレンジ。
 それはシロの色だ。
 一瞬だけ弾けたあのオレンジは、死んだシロの色なのだ。
 あたしは走った。
 走っていくうちに、もういちどオレンジが弾けた。小さくて弱い。
 本当に一瞬のそれは、まるでまばたきをした時みたいにパチンと弾けた。
 あたしの心臓がばくばくと高鳴る。
 またオレンジが弾ける。
 パチン
 シロがいる。
 シロがいるのだ。
 あたしは確信した。
 チャイムが鳴った。
 息が切れる。こんなに全力疾走で長く走るのは、授業に遅刻しそうになった時くらいだ。けれどあたしは何かに引き寄せられるように走り続けた。
 渡り廊下を渡り、階段を降りて、角を曲がる。
 まっすぐ。
 昇降口を抜けて。
 上履きのまま、グラウンドに立った。
 あたしは周りを見回してシロを探した。
 パチン
 弾けるオレンジ。
 パチン
「シロ!」
 あたしは叫んだ。
「どこにいるの!!」
 悲鳴にも近い叫び。
 火曜日にシロが死んだ。
 シロが死んだ日、あたしは友達と遊んでいて、家に帰るのが遅くなった。
 家に帰ったら、シロはもう冷たくなっていた。
 どうして。どうして、あたしはあの日、早く家に帰らなかったんだろう。
 最期にシロを抱きしめてやれなかったんだろう。
 シロ。
 ごめんね。
 大好きなシロ。
 嘘だよ。
 もうこの世界のどこにもあんたがいないなんて、うそだよ。

 パチン

 目の前を、何か白いものがゆっくりと落ちていった。
 空を見上げる。

 パチン
 パチン

 その白いものは、空から降ってきていた。
 あたしは呆然とした。
 雪だ。

 パチンパチン

 一粒二粒だった雪が、だんだん増えてくる。

 パチンパチンパチン

 オレンジが点滅する。
 そうか。
 あたしはわかった。
 これは、雪の音なのだ。

 パチン

 空から降ってきた雪の音。
 白い、白い雪の奏でるオレンジの音楽。

 パチン

 あたしは目を瞑って両手を広げた。
 手の平に冷たい感触。
 暗闇に弾けるオレンジ。

 パチン
 パチン

 ああ、聞こえる。
 シロが鳴いてる。

 パチン

 オレンジの声で、あたしを呼んでる。

 パチン

 シロ。
 シロ。
 この雪は、あんたが降らせたの?
 白い白い雪。
 あんたの色だね。

 パチン

 あたしは涙が頬を伝うのを感じた。
 シロ。

 パチン

 ごめんね。

 パチン

 あたし、最期にあんたを抱きしめてあげられなくて、キスをしてあげられなくて、

 パチン


 ごめんね。





 今年最初の雪は、すぐに止んだ。
 その日から、あたしの世界は銅色じゃなくなった。かといって昔と同じに戻ったわけじゃない。
 音を聞いても、色を見なくなったのだ。
 誰の言葉も色を伴わなかったし、何の音も色を伴わなかった。
 これが、普通の人の目なのだ。
 それは不思議な感じだった。
 けれどあたしは、きっと一生覚えているだろう。
 お母さんの赤、お父さんの青、奈美ちゃんの黄色、シロのオレンジ。
 鮮やかな喜びの色。
 シロが最後にあたしがくれたあの雪の色。
 うん。
 泣けてくるくらいに。
 この世界はなんてカラフル。
 結構、捨てたもんじゃないね。



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