名前はロットケプヒェン。
森の入り口に住んでいて、深淵の双眸に燃えるように赤い髪がよく映える。
名前はロットケプヒェン。
かよわく無垢な、美しい娘。
彼女に出会った黒の狼。
その正体は、魔法をかけられた王子様。
彼の魔法を解くために、必要なのは
愛の誓い。
森の小さな小屋の中。
愛を誓った娘と狼。
けれど狼、獣のまま。
愛の誓いは果たされず、
狼は怒り、復讐を誓う。
かよわく無垢な、美しい娘。
ロットケプヒェン。
赤ずきんと、人は呼ぶ。
「ロット、ロット、おばあさまのお見舞いに行ってきてちょうだい」
お母さまにそう言われ、ロットケプヒェンはバスケットにワインとハムのサンドイッチをつめて、森へ向かった。
ロットケプヒェンのおばあさまは森に住む。
おばあさまは魔女なので、あまり町にはおりていらっしゃらない。けれどたまにフラリとどこかへ出かけては、フラリと森の家に帰ってくる。そんなおばあさまが風邪をひいてしまったのは、一昨日の雨の中魔法のほうきで飛んでいらしたかららしい。
雨が大好きなおばあさまは、 「雨に打たれて風邪で死ぬなら本望さね」 とおっしゃった。
そんなおばあさまは昨日、五十三度の熱がおありになった。
普通の人より平均体温の高い魔女にしても高い熱なので、誰か世話をする人が必要だろうに、おばあさまは一人で暮らしていらっしゃった。おじいさまは普通の人間でいらしたので三十年前に寿命を迎えて亡くなったのだ。おばあさまは昔おじいさまに命を救われた。魔女は恩を忘れない。おばあさまは今もおじいさまをお忘れにならず、再婚もなさらなかった。
それからおばあさまはずっと一人で森のおうちで暮らされているので、ロットケプヒェンは暇な時間ができればおばあさまのおうちへ行っていた。
今日だって、お母さまに言われなくともおばあさまのおうちへ行く予定だったのだ。
森の中、均された道を行く。
アスター、キショウビ、キンレンカ。
ナシ、オレンジ、スターチス。
たくさんの花の前を通って行く道は、ロットケプヒェンのお気に入りだった。
ギボウシ、ウツギ、レンゲソウ。
『そこゆく綺麗なお嬢さん。俺と少しお話ししないか?』
この道のあの木の陰から、かつて彼は、ひょっこり現れた。
話上手な黒い狼。
ロットケプヒェンの脳裏に蘇るのは、強く凛々しい獣の瞳。
人も戻れなかった、愚かな狼。
そしていつしか森のおうちにたどり着いた。
クリーム色の木でできた、可愛いおうち。
魔女の家だから、その木が腐った事は、一度もない。
「わたしよ、おばあさま。ごきげんいかが?」
扉をノックすると、
「ああ、おはいり」
しわがれた声がした。
ツンとした匂いがロットケプヒェンの鼻をついた。
「来てくれたかね、ロット」
「ごきげんいかが、おばあさま。何か欲しいものはありますか?」
最低限の家具とあとは怪しげな本や薬瓶とほうきと杖しかない部屋の中央の薄汚れたベッドの中で、おばあさまは横になっていらした。
ロットケプヒェンはバスケットをテーブルの上の、本と本の間のわずかな隙間において、おばあさまに歩み寄った。
おばあさまは魔法で溶けなくした氷を額に、雑菌防止用のマスクを口にして、布団を顎のところまでかぶってらした。
これではお顔がほとんど見れやしない。
おばあさまのマスクがもごもごと動いて言った。
「ふむ。ワインとハムのサンドイッチかね」
ロットケプヒェンはテーブルに置いて来たバスケットを見て、驚いたようにおばあさまを見た。
「まぁ、何故おわかりになるの? おばあさま」
「風邪をひいた魔女は鼻がきくのさ」
唯一見える、おばあさまの大きな凛々しい双眸が、にやりと細められた。
ロットケプヒェンはにこりと笑った。
「何か欲しいものはありますか?」
「ああならそこの薬を湯に混ぜてはくれないかい?」
おばあさまは手袋と長袖に包まれた手を伸ばして、薬棚をお指しになった。
ロットケプヒェンは薬棚よりもおばあさまの腕に目がいった。
「まぁ、おばあさま強そうな腕」
「腕の力がなくては重い魔法甕を運べないだろう」
そうおばあさまが言うのでロットケプヒェンは納得したように頷いて、おばあさまの指差す薬を取って、衝立の向こうの台所へ向かった。
ロットケプヒェンはやかんに水を入れ、火をつけた。
この台所だけはロットケプヒェンがいつも来て綺麗にしているので、本が山積みになっている事もお鍋に紫のなにかがこびりついている事もなかった。
その時ちょとした不注意で、ロットケプヒェンの指は火に触れた。
「あっ」
小さく悲鳴をあげて、あわてて指をひっこめる。
とたんベッドの方から大きな声が聞こえた。
「どうしたんだい!」
その声にロットケプヒェンはベッドをのぞいた。
「今の声が聞こえたの? おばあさま。本当に小さな声だったのに」
「ああ、わしは千里先の声だって聞こえるさ」
しわがれた声が答えた。
ロットケプヒェンはおばあさまに火傷の薬を教えてもらって、それを塗った。薬を棚に片付けているとやかんが鳴ったので、慌てて台所へ戻る。ロットケプヒェンはおばあさまに言われたとおりにお湯に薬を入れて、満足気に衝立の向こうから顔を出した。
「できたわおばあさま」
「そうかいではそれは置いておいて、こっちへおいで、ロット」
おばあさまの手に導かれ、ロットケプヒェンはベッドの端に座った。
「愛しているよ、ロット」
おばあさまが言った。
「私もよ」
ロットケプヒェンははにかんで答えた。
「あらおばあさま。お口がマスクからはみ出してるわ。なんて大きいお口なのかしら?」
ロットケプヒェンが今気付いたように言った。
「ああ、この口かい? この口はね……」
その目に剣呑な光を宿らせたおばあさまの言葉を遮るように、ロットケプヒェンは細い指をおばあさまのマスクにあてた。
そしてにこっこりと女神のように笑って言った。
「知ってるわ。そのお口はわたしを食べるためでしょう? シュヴァルツヴォルフ」
黒い狼の人間だった頃の名前はシュヴァルツヴォルフ。
あまりに傲慢で残虐で、魔女に獣に変えられた王子様。
彼は氷もマスクも取って、おばあさんのパジャマも脱ぎ捨てて、かつて森の小屋で愛を誓った娘に黒く立派な体躯を晒した。
「ああそうだ、ロット。この口ならお前なんか一口でペロリさ」
さっきまでのしわがれた声でなく、低く響く声で狼は言った。
「酷い人ねシュヴァルツヴォルフ。でもわたし、あなたに喰われるのなら本望よ」
ロットケプヒェンは幸せそうに笑った。
ペロリ。
ごっくん。
黒い狼は赤い髪の娘を一飲みにした。
お腹が一杯になった狼は、眠くなってその場で横になってぐーすかいびきを立てた。
そのいびきを不審に思ったのだろうか、とある猟師が森のおうちをのぞきこみ、仰天した。
なんとそこには黒い狼がお腹を一杯にして眠っている。
猟師は急いで銃をかまえ、狼に狙いを定めたが、テーブルの上にバスケットが置いてあるのに気が付いた。
もしや狼の腹があんなに膨れているのは人を食べたからではと思った猟師は、銃をかまえながらもそろりそろりと狼に近寄った。
そして 「あっ」 と小さく叫んだ。
なんと黒い狼の腹をすり抜けて、赤い髪の娘が現れたのだ。
ついでくすんだ杖を持った老婆も現れた。
もちろん、ロットケプヒェンと魔女のおばあさまである。
驚いた猟師は、二人を化け物だと思い一目散にその場から逃げ出した。
「ああ、ロット。お前が来てくれなかったらどうなってたか」
魔女が孫娘を抱きしめて言った。
「おばあさま。ご無事でいらして嬉しいわ」
ロットケプヒェンも笑って言った。
ロットケプヒェンは黒い狼に食べられる時、その手に魔女の杖を持っていた。そして狼は杖ごとロットケプヒェンを飲み込み、狼の腹の中で杖を孫娘から渡された魔女は魔法を使って狼の腹をすり抜けたのだ。
杖がなくては魔法を使えなかった魔女にとって、孫娘はまさに命の恩人だった。
「魔女は恩を忘れないよロット。さぁ、何か願いはあるかね? なんでも叶えてあげよう」
「ならおばあさま。あのひとを人に戻せる薬をちょうだい」
いまだいびきをかいて眠る狼を指差したロットケプヒェンの言葉に、魔女は眉をひそめた。
「わしはあの狼を殺すつもりだよ、ロット。今更そんな薬をどうするつもりだい?」
ロットケプヒェンは悲しげな笑顔を浮かべた。
「わたしがあの人と愛を誓ったのはご存知でしょう? けれどあのひとは人には戻れなかった。せめて死ぬ時くらい獣でなくて人であらせてあげたいの」
魔女はしばらく逡巡したが、恩を忘れないのが魔女の性。しぶしぶベッドの下から薬瓶を取り出した。
ロットケプヒェンは驚いた。
「まぁ、そんな所に隠していらっしゃったのね」
「ああそうだよ。大切なものは全てベッドの下さ。さぁ、ロット。これが薬だよ」
ロットケプヒェンは魔女から薬瓶を受け取った。
瓶の中には水よりも澄んだ液体が入っていた。窓からの光を受けて虹色に光る。
ロットケプヒェンは満足気に笑って台所の方へ向かった。
「おばあさま、あの人の腹の中でお疲れになったでしょう?さっき作った薬湯があるわ。お飲みになって」
ロットケプヒェンは台所からさっき狼に言われて作った薬湯を持ってきて、魔女に渡した。
魔女はロットケプヒェンに礼を言ってその薬湯を飲み干す。
「……? ロット、これは……」
飲み干した薬湯の味に、魔女は困惑した。
だんだんと魔女の身体にしびれが走る。そしてついに魔女はその場に立っていられなくなった。
「い、イラカサの分量を間違えたねロット。身体を休める効能を持つあれは、分量を間違えるとこうなるんだ……」
魔女は困ったような顔をしてそう言った。
その場に座りこんでしまった魔女に、ロットケプヒェンは少し悲しげに笑いかけた。
「おばあさま。間違えてなんていないのよ」
呆然とする魔女の横をすりぬけて、ロットケプヒェンは眠る狼の傍らに立った。
そしてやおら手に持った瓶の中身を口に含むと、それを口移しで狼の中に流し込んだ。
ごくりごくり。
ごくり。
それを全て飲み終えると、狼はがばっと目を覚ました。
たぬき寝入りだったのだ。
そして自分の両手を見て、歓喜の叫び声をあげた。
彼はすでに狼ではなかった。
シュヴァルツヴォルフ。人間になっていた。
ロットケプヒェンはシュヴァルツヴォルフに抱きついた。
「ああ、ヴァルツ! よかった!」
「ありがとうロット、全て君のお陰だ」
涙を流し抱き合う二人を前に、魔女はしばし呆然として、ついで怒りに顔を真っ赤にした。
「私をだましたのかいロット!!」
その怒りのまま傍らの杖に手を伸ばそうとするが、いかんせん手足はしびれて動けない。
ロットケプヒェンを身体から離し、シュヴァルツヴォルフは顔を厳しくして魔女を恫喝した。
「黙れ魔女! だましたのはお前が先ではないか!!」
ロットケプヒェンから受け取ったシーツを身体に巻きつけ、シュヴァルツヴォルフは気品を感じさせる仕草でその場に立った。そこには王族としての威厳が見える。
「突然城に現れて俺を獣に変えたばかりか、愛の誓いができれば人に戻るなどと法螺を吹きおって!」
魔女がシュヴァルツヴォルフを狼に変えたのは、彼があまりにも傲慢だからでも残虐だからでもなかった。魔女が、彼と魔女の孫娘が結婚する未来を見たからである。魔女は可愛いロットケプヒェンを城になどやりたくはなかった。城の者は皆強欲で意地汚く、そこで綺麗なロットケプヒェンが汚されるのを恐れたのである。
愛の誓いによって魔法が解けるなどと嘘をついたのも、獣と愛を誓う者などあるはずがないと思い、シュヴァルツヴォルフが人間に戻るのをあきらめればいいと考えたからだった。
「ロットと愛を誓い、それでも人間に戻らなかったあの日、俺はお前への復讐を誓った。最も残酷な方法でお前を殺そうを思った」
シュヴァルツヴォルフの声には並々ならぬ怒りが篭っていた。
それはそうだろう。八年もの間、彼は獣の姿で森に隠れ住んでいたのだ。あの華やかな王宮を離れて。
「しかしロットがそれを止めた」
シュヴァルツヴォルフの視線に恐怖を覚えた魔女は、しかしその言葉に驚き孫娘に目を転じた。
ロットケプヒェンはシュヴァルツヴォルフの隣で少し悲しげに笑った。
「ごめんなさい、おばあさま。けれどわたしはヴァルツを愛しているの。これからは彼と共に生きるわ」
「ロットは俺がもらっていく。これがお前への復讐だ」
そうしてロットケプヒェンとシュヴァルツヴォルフは森の魔女の家を出た。
残された家で、魔女はひたすらむせび泣いた。
命が助かった喜びに、孫娘を失った悲しみに。
「これから城へ行くの? ヴァルツ」
シュヴァルツヴォルフと手をつなぎ森の道を歩きながら、ロットケプヒェンは聞いた。
「城へ行きたいかい? ロット」
「いいえ、あなたが行く所へ行きたいのよ」
ロットケプヒェンが幸せそうに笑ってそう答えると、シュヴァルツヴォルフも先ほど魔女に向けた顔はどこへやら、この上なく優しげに目を細めた。
「それならロット、これからはどこかの街で二人で暮らさないか?」
これにロットケプヒェンは驚いた。
彼はてっきり生家に帰るのだと思っていたのだ。
「どうして?」
「魔女の考えたとおり、王宮は淀んだ所さ。いつも政敵に目を光らせ、自分の命の心配をしなくてはならない。そんな所にお前をやりたくないんだ」
シュヴァルツヴォルフは足を止め、真摯にロットケプヒェンを見つめた。
ロットケプヒェンはあまりに幸せで、涙が出そうになった。
「けれど……いいの? あなたの家でしょう? 帰りたいのではないの?」
シュヴァルツヴォルフは朗らかに笑った。
「城では俺は死んだ事になってるさ。未練はないんだ」
ロットケプヒェンは黙ってシュヴァルツヴォルフに抱きついた。
シュヴァルツヴォルフもその赤い髪をなで、強く彼女を抱きしめる。
そこへさっきの猟師が現れて、再び仰天した。
それはそうだろう。
森の真ん中で、娘とシーツを身体に巻きつけただけの男が抱き合っているのだから。
二人は猟師に気が付くと、これはしめたとばかりに服をもってきてもらうように頼んだ。
さすがにシーツを巻きつけただけの格好で森の外へ出るわけにはいかない。
ロットケプヒェンがさきほど狼の腹から出てきた化け物だと気付かない猟師は、何かわけありだろうと同情し、一度家に帰って自分の服を持ってきてあげた。
その服はシュヴァルツヴォルフには少し小さすぎたが、二人は猟師に礼を言って森を出て行った。
この後、この猟師の話を聞いて吟遊詩人が歌うには、
名前はロットケプヒェン。
森の入り口に住んでいて、深淵の双眸に燃えるように赤い髪がよく映える。
名前はロットケプヒェン。
かよわく無垢な、美しい娘。
彼女に出会った黒の狼。
その正体は、魔法をかけられた王子様。
彼の魔法を解くために、必要なのは
愛の誓い。
森の小さな小屋の中。
愛を誓った娘と狼。
けれど狼、獣のまま。
愛の誓いは果たされず、
狼は怒り、復讐を誓う。
しかし娘は狼を止め、
二人で魔法を解く方法を考えた。
狼が魔女を食べ、
娘が魔女を助ける。
果たして狼は人になり、
二人は手に手を取り合い夫婦となった。
かよわく無垢な、美しい娘。
ロットケプヒェン。
赤ずきんと、人は呼ぶ。