この願いは世界の中でも米粒のようなものだけれどそれでも 1

 シェンロ=キリアス。
 この名は、帝国リグリアを、帝王の右腕として支えた名将軍として知られている。
 帝王を諌め、帝妃を補佐し、帝王夫妻に死んだ以後までのの忠誠と友情を誓った彼の姓は、帝王自身に与えられたものであるという。
 かつて彼に姓はなかった。
 ただ、「シェンロ」という名の傭兵であったのだ。




 西大陸において、食べるに困った人間がなる職業と言えば傭兵と相場が決まっていた。戦争の絶えないこの大陸では、強い傭兵であればあるほど国に求められ名は上がる。中には傭兵という職業だけで小国一つ買えるだけのお金を稼いだ男もいたし、戦いの中で敵将の首を取り一つの町の運営を任された女もいた。傭兵となり、それなりの力量を持てば、たとえどんな出生でも這い上がる可能性はある。
 陸暦九百九十年代から後『同盟軍盟主』と『戦場女神』の現れる一〇五〇年代までの約二百年間、西大陸は、そういう時代だった。
 その中で、身寄りのない十歳のシェンロが傭兵となる道を選んだのは極めて自然な流れだったと言えるだろう。幸運にも、彼には才能があった。幾度となく死線を潜り抜けながらも、シェンロは十八になる頃にはそこそこ名の知れた傭兵となった。
 その頃からザーティガ公国は周囲の国々とは一線を画していた。この国がずっと中立政策を採っているのは周辺国家の認める所であり、陸暦一〇〇〇年代には難民を引き受け始めたかの国に無駄な戦禍を及ぼしてはいけない事は暗黙の了解であったのだ。
 公国での軍隊は警察のような役割が主であり、たまに国内で入隊募集が行われていた。
 たまたま公国に入国していたシェンロがその入隊募集に応募したのは、本当に気まぐれだった。ずっと戦場に身を置いてきた彼には、この公国のありかたが疑問だったし、また興味もあった。地元生まれでもない傭兵あがりなど雇ってもらえないだろうと思ったのも本音だ。ただ彼は、戦争のない国の軍隊というものを少し覗いてみたいだけだった。
 予想外にも彼がその入隊試験に通ってしまったのは、入隊の審査基準に考慮されるのがその素性や身分ではなく、純粋にその力量であったからだろう。傭兵として優秀であった彼は、その技量、体力、判断力において他の入隊希望者を圧倒していた。
 なりゆきに少々戸惑いながらも、シェンロは西大陸の正規軍の軍人となった。軍人と言っても彼は一介の兵士にすぎず、与えられる報奨も一人の人間が慎ましやかに暮らせる程度のものだった。もちろん王族に目通りがかなうような身分でもない。
 しかし彼は、入隊して一週間後に運命の出会いを果たす事となる。
 陸暦にして一〇三四年。初夏の事である。




 「公太子殿下がいなくなった?」
 入隊して一週間目。兵長クアスが自分の指揮下にある兵を全て召集して言った言葉を、シェンロは思わず聞き返していた。
 鼻の下の短い髭がチャーミングな兵長クアスは、訓練中はいつも厳つく引き締めている顔を今はしょうがないというような諦めの混じった様子にして部下達を見回している。
「お前ら、公太子殿下が今おいくつか知ってるか?」
「確か今年で御年八つになられるはずでは……」
 シェンロと同じつい最近入隊したばかりの新米が答えた。
 新人の兵士はシェンロを入れて四人だ。それ以前から隊にいる男達は、またかという様子でクアスの話を聞いていた。 
「そうだ。殿下はそのお年には似合わないくらい利発なお方でな、将来あの方を主としていただく俺達には頼もしい限りだが、どうもそのせいかたまに俺達凡人には理解できない行動をお取りになる事がある。実はこうやって行方不明になった事も一度や二度じゃないんだよ」
「そんな……いいんですか? 仮にも次期公王がそんな頻繁に行方不明になって……」
「だから俺達がその度に捜索するんだよ。新人のお前らには驚きかもしれないが、公太子殿下の捜索ってのも今のザーティガ公国の兵にとっては立派な責務の一つなんだ。まぁ、いつもは殿下も俺達に見つかる前にひょっこり帰ってきなさるんだが、万が一……という事もあるしな」
 とんでもない事だ。
 仮にも一公国の公太子が、行方不明になるのが一度や二度じゃないだと?
 しかもそれがここでは当たり前の事になっているようだ。
 シェンロは呆れてものも言えなかった。
 公太子捜索のため、クアス率いる小隊は城内にばらばらに散らばった。
 熟練の兵達はどこを捜すべきかを心得ていて、特に後宮の後ろにある森を重点的に捜せばいいと教えてくれた。他の小隊は城下町を捜索しているという。シェンロは森を探すように指示された。真面目に公太子探しなどをする気もなく、町をぶらぶらと遊んでいようと思っていたシェンロは小さく舌打ちをした。
 後宮の後ろにある森、つまりディグアの森だが、これはジーティガの城を半円の形で覆う巨大な森である。鬱蒼と茂る木々の間に人間が通るための道はなく、この森によってジーティガは背後からの攻撃から守られている。さらに森を含めた城とその周辺の町は小高い崖の上に位置している。つまり、ジーティガ公国は天然の要塞なのだ。軍隊で踏み込む事もままならない。これも、ジーティガが長年中立を保ってこれた一つの要因だと言えるだろう。
 季節が季節だけに、森の中はいささか蒸し暑く、シェンロは上着を脱いだ。
 まったく、なんて面倒な性癖を持った公太子だ。
 少しくらい頭がいいからと、周りが甘やかしすぎたのがいけないのだろう。
 シェンロは城下町で、公太子の何度か絵姿を見たことがあった。それを見て彼は苦笑した。
 その絵姿に描かれた今年で御年八つのザーティガ公国の公太子殿下は、まるで本の挿絵の妖精かなにかを思わせるような美少年であった。輝かんばかりの金色の髪に真っ直ぐと射るような灰色の双眸。白い肌はすべらかそうで、鼻梁もすっきりととおっている。おそらく当人を限りなく美化させたものなのだろう、絵師が無理をした様子が絵からありありと感じ取れた。
 絵師が当人を美化させるためにそれだけ無理をしなくてはならないのだから実際の容貌はたいした事はないのだろうが、その気性と才能だけは他とは一線を画しているようである。
 噂に聞く公太子殿下は、天才だ。
 齢八歳にしてすでに公子が習うべきほとんどの学問を修め、今はもう政務もこなしているという。会議にも出席しているというその発言は的確にして奇抜。頭のまわりすぎるその少年に、時には公王や大臣達もついていけないらしい。
 クアスは言った。
『あの方をそこらの八歳のガキと同じに考えて接しない方がいい。二十も過ぎた天才のある青年だと思って接した方が、よほどしっくりくるぞ』
 神童だと、彼らはそう言う。
 神や精霊など御伽噺の中でしかありえないようなこの西大陸では、『神に使わされた童』などと、ずいぶん信憑性のない表現だがと、シェンロがそこまで考えた時、前方に何かゆらめくものがちらりと見えた。
 なんだ?
 自然身を低くして、気配を消す。傭兵業の鍛えた習慣だった。
 相手が公太子であるのならそこまで警戒する必要はないだろうが、なにせここは公道もない未開の森なのだ。何がいてもおかしくない。シェンロは腰に刺した短剣に手を伸ばし、ゆっくりと足を進めた。
 近づくにつれて、シェンロはいぶかしげに眉をよせた。
 あのゆらめくのは……炎ではないか?
 それも空中で炎が浮いているように見える。まさか、ありえない事だが。
 シェンロはますます警戒を強め、その炎らしきものに一歩一歩近づく。どうやら向こうは拓けた場所のようだった。木々に遮られる事なく陽光が燦々とあたっている。
 そして、シェンロはそこにあった光景に絶句して立ちすくんだ。
 それこそまさに、本の挿絵のような光景だった。
 木々の茂る森の中、突然拓けた場所で踊るようにゆらめいているのはいくつもの小さな炎だ。炎はまる生きているように変幻自在に形を変えて揺れている。大きく小さく、空へ一直線に走ったかと思うとその先で消える。そしてその炎らは一人の少年を囲んでいた。
 金髪に灰色の双眸。どう見ても十もいかない少年だが、人間には見えなかった。金の髪は陽光を反射して透けるようだし、どこまでも深い灰色の瞳は血の通っていない宝石のように見える。彫刻や絵画でも到底表わしきれないだろうその神秘的な美しさは、人間の腹から生まれたものであるはずがない。まるでどこかの王族が着るような服から伸びる手の先で、また新たな炎が生み出される。いや、その灰色の双眸が空中に視線を走らせるだけで、そこに炎がゆれた。
 シェンロは自分が恐怖にすくんでいる事に気が付いた。
 これまで数々の戦地をくぐりぬけて来た自分がこんな、少年を前に? あの炎も何か仕掛けがあるに違いない。ちょっと人間離れした容貌をもっているだけじゃないか。理性はそう言うが、感情が付いていかない。
 アレが、人間であるわけがない。
 アレは、自分の領域の外にあるものだ。自分が関わってはいけないものだ。
 シェンロの中で警鐘が鳴る。できる事なら今すぐ踵を返してその場を逃げ出してしまいたかった。しかしまるで足がその場に縫い付けられたかのように動けない。汗も流れなかった。息をしているのかも定かではない。シェンロは今、自分の全ての身体機能が止まっているかのような錯覚に陥っていた。
 息を……しなければ。
 人間は息をしなければ死んでしまうのだから。
 そう思って、意識して口から空気を吸った。空気が動く。
 それに、少年は敏感に反応した。
 シェンロは自分を罵倒した。
 馬鹿な! 見つかってしまう!
 少年が顔を上げる。心臓ががんがんとうるさく、シェンロの耳にはそれ以外何も聞こえなかった。風に木が揺れる音も、何も。
 目が、あった。
 驚いた。
 ソレは、自分を認識した。認めた。
 灰色の目は見開かれる事も細められる事もなく、ただシェンロを捉えていた。
「名は」
 ソレの発した言葉が聞き取れず、シェンロはただ立ち尽くした。なにより人外の者の言葉などわかるはずがない。
「名は何だ」
 二回目でやっと、それはこの大陸の公用語だということに気が付いた。ザーティガでもその言語が主要な言語だ。
 つまり、人間の言葉だ。
 答えなければいけない。
 質問を理解したのなら答えなければ。
 シェンロはごくりと唾を飲み込んだ。かろうじて出した声は、かすれていた。
「……シェンロ」
 シェンロは息を呑んだ。
 炎が。
 彼の目の前に現れた。
 突然にだ。
 突然、シェンロの目前の空気中の酸素が燃焼した。
 熱い。
 炎がシェンロの前髪を撫でた。
 だが不思議と燃えなかった。熱さは感じたが、それがシェンロを傷つける事はなかった。
 そして、現れた時と同様突然に、炎は消えた。
 残った熱だけが、それが現実だとシェンロに突きつける。
 消えた炎の向こうの少年は、微動だにしていなかった。
 そして言った。
 固まって動けないシェンロを、無感動に見ながら。
「シェンロ。お前を今日から私付きの近衛に任命する。今日お前が見た事を他で話せば私にはすぐわかる。……命が惜しければ、口をつむぐ事だな」
 まるで傲慢で命令しなれた様子がひどく似合っていた。
 そして少年は周囲にまだ漂っていた炎を一気に消すと、シェンロの横を通り過ぎて背後の木々の間に消えていった。城の方向だ。おそらく、城へ帰るのだろう。
 しかしシェンロはしばらくその場から動けなかった。
 この時彼は初めて知った。
 あの、城下町で見た公太子の絵姿。
 あれは実物が美化されたのではなくて、ただ絵師の技術が実物に追いつかなかったのだ。
 当然だと思った。アレを、人間の手で再現するなど不可能に決まっている。
 ザーティガ公太子ザーティス。
 あれは人間ではない。
 人間ではないのだ。
 シェンロはその身を動けなくしているのが恐怖なのか畏怖なのか、わからなかった。ただわかったのは、自分がとんでもないモノを見てしまったのだとういう事だけだった。




 入隊一週間目にして異例の昇進。
 シェンロの突然の公太子付き近衛への任命は、兵士仲間の噂の的となった。
 先日森から帰った公太子が直々に、公王に頼んだというのだ。一体森の中で何があったのか、兵達はシェンロを捕まえては聞きたがったが、彼は曖昧に笑って、ただ森の中で寝ていらっしゃった殿下を見つけただけだと言った。
「シェンロ」
 公王ザカリアは四十前の、親しみやすさと重みを兼ねそろえた男だった。低く自分の名を呼ぶ声には力強いものがあったし、色んな国で傭兵をやっていれば自然色んな国の王を見るが、シェンロはこの国の主には素直に好感がもてた。さすが大陸を代表する中立国家の元首だと思わされる。
 ザカリアは人懐っこい笑みを浮かべて顔を上げるようシェンロに言った。
「今回は急の異動で動揺させたと思うが、何せ息子に頼みごとをされるなど滅多にない事なのでな。親バカと笑ってくれてかまわんぞ」
「とんでもございません。身に余る光栄でございます公王陛下」
 兵長であるクアスから異動を告げられ、その日の夕方にシェンロは公王に呼ばれて謁見の間までやって来た。そこは非公式の謁見の時に使う部屋だったので公式の方に比べると狭いが、その分ザカリアの顔がよく見えたし声もよく聞こえた。広い部屋では声が反響して聞こえにくいのだ。相手が遠すぎて顔がよく見えないのもいただけない。部屋に通されたシェンロに、ザカリアはそう言って笑った。
 似ていない。
 シェンロがこの人懐っこい公王に最初に抱いた感想はそれだった。
 まるで少年のように笑う公王は、人間離れした公太子には似ても似つかない。しかしシェンロはそれを不思議だとは思わなかった。ザカリアは人間で、ザーティスは人間ではない。そもそも似ているはずがないのだ。
「実は、息子が他人に執着をみせるのは初めてなのだよ」
 重大な事を告白するようにザカリアが言った。
「あれは君を近衛に欲しいと言った。子供の言う我侭にして少しずれてはいるが、あんな風に息子が自分の意思を私達に示す事は滅多にない。だから私達は……つまり、私と妻の事だが、私達はお前に感謝しているのだよ。ありがとう。どうか、主従としてだけでなく、対等な友人としても、これからあれと仲良くやってもらえるか。あれの友人となる事は、必ずお前の役に立つだろう」
 優しく目を細めたザカリアは、息子を心配する父の顔になっていた。
 あのような特殊な息子でも、この公王と公妃は愛しているのだ。心から。
 シェンロとは違う。シェンロは子供の頃に捨てられた。そして商団に拾われて、そこで育てられた。
「承知致しました」
 シェンロは頭を垂れた。
 公太子殿下の生活は、普通の八歳児のそれとは似てもにつかなかった。
 朝起きれば身支度をして公王夫妻と和やかに朝食を取り、その後すぐに割り当てられた執務に取り掛かり、合間に散歩の時間を入れながら昼食もまた公王夫妻と庭で取る。午後は書斎にこもりきり、そのまま夕食まで出てこない事もしばしばらしい。
 シェンロはまだ十にも満たない公太子が早くも執務の一部を任されているのにも驚いたし、普通王族が十四になるまでに終える教育を彼が既にすべて終えているというのにも呆れた。なんでも公太子は必要以上に他人と接するのを嫌うらしく、空いた時間に同じ年頃の子供と遊ぼうともしないし、城下町に遊びに行こうとも思わないようだった。暇を見つけては、森へ行くか遠くから独自に取り寄せた書物を読みふけっているという。公王夫妻は公太子が五歳の時にはもう息子に専用の書斎を与えたのだ。
 シェンロに与えられた仕事は、そんな公太子殿下に四六時中付き添ってその身辺を警護する事だった。これまで近衛が自分に付きまとうのを厭っていた公太子殿下が自ら選んだ青年に人々は注目したが、それはシェンロにとってどうでもいい事だった。
 数日のうち、彼はおとなしく影のように公太子殿下について歩いていたが、その日の午後、書斎に閉じこもったザーティス公太子殿下に彼はついに我慢をしきれなくなって書斎の扉を叩いた。彼は書斎の外での警護を命じられていた。
「殿下」
「入れ」
 返事はすぐに返ってきた。
 子供特有の高い声であるにもかかわらず、その声には重いものが含まれている。威厳、とでも言うのだろうか。彼は寡黙で高潔だ。公太子を前にすると、シェンロはクアスやザカリアを前にした時よりも緊張するのだった。
 シェンロは少し躊躇ったあと、簡単に装飾のなされた扉のノブをつかんだ。回して押す。手入れが行き届いているのか、扉はきしんだ音一つしなかった。一番初めに目に入ったのは小さな貸本屋くらいなら開けそうな量の本が納められた本棚と、それにかけられた梯子である。
「何だ」
 声はその梯子の上からした。
 シェンロは中に入り扉を閉めると、梯子を見上げた。
 ザーティスは二メートル半ほどの梯子のてっぺんで手に本を持ち、シェンロを見下ろしていた。
 こうして見ると、初めて森で会った時とは印象が大分違う。あの頃は神秘の中に身を置いたような、ミステリアスで明らかに人外の雰囲気を醸し出していた公太子だが、今はそれなりに人間に見えるほどには落ち着いている。現在の彼は確かに人間に見えた。その印象は初対面の時とは別人のようだが、シェンロにとって、あの森での出来事は忘れようにも忘れない出来事であった。
 シェンロは口の端をゆがめて笑った。実のところ、こうして公太子と話すのは、一週間ほど前の森の中以来だった。
「私の聞きたい事がわかりませんか?」
「私は人間ではないよ」
 あっさりと得られた返答に、シェンロは緊張しそこねた。公太子が話はこれでお終わりだとばかりに本に目を戻したので、シェンロは慌てた。
「え、ちょ、待ってください」
「まだ何か?」
「いや、何かって言うか。……え? 人間じゃない? じゃああんたは」
「受け取れ」
 頭上から降ってきた本を、シェンロは慌てて両手を伸ばして受け取った。もう少しで取り落とす所だった。それは古い紙質の本で、装丁だけ後で作られたもののようだった。タイトルはない。中を見てもいいものなのか判断しかねてシェンロは公太子を見上げた。公太子は他に持っていた本を本棚に戻すと、するすると器用に梯子を降りてきた。梯子の下にいたシェンロは一歩下がって降りてきた公太子を見た。身長は彼の胸ほどもない。まだ幼い子供なのだと、思い出した。
 公太子は、シェンロを一瞥もしなかった。彼はそのまま奥の、彼の体格に合わせて作られた机と椅子のところまで行き、椅子に座った。机の上には数冊の本がつんである。筆記具は見当たらなかった。その時初めて、公太子がシェンロを見た。シェンロは一瞬息を止めた。自分が居竦んでいるのだと気付くのに時間がかかった。
「とりかえ子というのはわかるか?」
 その質問はあまりに突然で、シェンロは一瞬答えあぐねた。
「……人間の赤ん坊と、魔物の赤ん坊をとりかえる……というアレですか?」
 そういう御伽話はいくつかあった。
 自分の醜い赤ん坊を嫌った魔物が、その魔物の赤ん坊を美しい人間の赤ん坊と交換するのだ。人間として育った魔物の子供はどこかしら他の人間と違う部分を持ち、人々から異端視されながらも強く優しく成長するというのがオーソドックスなストーリーと言えるだろう。ただしただの御伽話だ。実際魔物などどこにもいないし、そんな話も聞いた事はない。
 公太子は立ち上がった。シェンロはびくりと小さく身を震わせてから、自分を叱咤するように小さく舌打ちをした。相手はただの子供だ。そう自分に言い聞かせる。
 しかし公太子はそんなシェンロも気にせずゆっくりと本棚に指をすべらせながら、室内を歩いた。その仕草は、ひどくしなやかだ。目を奪った。公太子は詩を暗誦するように言った。
「大抵の場合それは精霊と獣の間で行われる。獣とはつまり、犬猫、人間も含めた全ての動物の事だ。精霊はその外見には頓着しない。そもそもが精神の生き物だから。外見などいくらでも変えられる。そして同時に気まぐれで遊び好きだ。彼らは戯れに新しい精霊の子供と獣の子供を取り替える。そして獣の子供を育てるのを楽しむんだ。ミルクをあげ、餌を取り与えるのに楽しみを覚える。本来精霊にはミルクも餌もいらないから、珍しいのだろう」
 シェンロは公太子の言っている事についていけなかった。
 何を?
 何を言っているのかこの人は?
 公太子は本棚を伝い、シェンロの目の前で止まった。
 その時の公太子はシェンロを見ていた。シェンロには彼のその灰色の双眸が赤く炎のように燃え上がったように見えた。
「では結果的に捨てられた形となった、精霊の子供はどうなると思う?」
 捨てられた。
 精霊の子供。
 シェンロは喉の奥が引きつるのを感じた。今自分は、ひどく恐ろしいものを前にしているのではないか。
 自分の身体だというのにそうでないような感覚に陥る。汗がどっと出る。それは、あの時森の中で感じたものと一緒だった。
 人外のものを前にした恐怖。
 畏怖。
 だめだ。
 自分は決してこの存在には勝てない。
 いっその事、この場でひれ伏して服従を誓ってしまいたい。
 公太子のその目に見られていて、そのまま自分が息を止めてしまわないのが不思議だった。
「彼は一人だ。獣は自らが育てているのが精霊の子供だとは知らない。知らないからこそ育てる事ができる。だから彼は自ら、その獣であるふりをしなければいけない。生まれてからずっと、周囲を騙し続け、誰にも本心を見せる事なく、たった一人で戦わなければいけない」
 シェンロは、公太子が本棚を伝っていた指をゆっくりと掲げ、自分の眉間の目の前で止めるのをなす術もなく見ていた。
 八歳の公太子殿下は当然シェンロよりも小さい。自然シェンロは公太子を見下ろす形を取っているのだが、ぴたりと自分の眉間いあてられた小さな指に、彼は身動きもできなかった。
「しかし忘れるな。取り替えられた精霊の子供は決して憐れむべき存在ではない。彼はその気になれば、自分の周囲の獣を惨殺する事もできるだろう。取り替えられたからには精霊の元へは戻れないが、獣の呪縛から自らを解き放つ事なら造作もない事なのだから」
 眉間にあてられたザーティスの指先から、熱を感じる。
 シェンロは奥歯をかみ締めて、悲鳴を上げるのを必死でこらえた。一瞬火達磨になった自分が思い浮かんだが、必死でその想像を打ち消した。
 そしてその圧力は、唐突になくなった。
 ザーティスは腕を下ろした。
 彼の双眸には炎などなかったし、もちろん指先にも何の変化もなかった。
 公太子殿下は、底の見えない笑みを浮かべたまま、そこに立っていらした。
「他に聞きたい事は?」
 それ以上何か聞く気力が残っているはずもなく、シェンロは大人しく書斎の外での警護の仕事に戻った。彼は自分が手に本を持ったままだったと気付いたが、もう一度あの視線の前に戻る気にはならなかった。ためしに中を見てみると、それは難しげな学術論文だった。字体を一目見てわかった。
 それはシェンロの父が書いたものだった。