花が運ぶのは人の笑顔と時間の残り香と未来にかなった夢

 ティーレ。
 行って来て、お母様のお怒りをといておいで。
 私が行ってもお母様は余計お怒りになるだけだろうから。
 いいわお父様。
 けれどね忘れてはならないわ。
 お母様がお待ちになっているのはお父様なのよ。
 お父様がいかなければ、お母様のお怒りは真実とけはしないのよ。




 東よりの内陸に位置する公国ザーティガにある帝都の夏は、比較的からっとしていて湿気もすくない気候である。街で飛躍的に売り上げを伸ばす氷売りは、自慢の氷を氷山まで取りにいっていて街の人々はその冷たさと大自然の美味しさに声をあげる。
 さて、ここ帝都の執政が左右される王宮の執務室でも、透明のカップに入れられた飲み物と氷山から直接取り寄せた氷がカランと音をたてて、夏の情緒を醸し出していた。
 そしてちょうど軍部の書類を持って戻ってきたシェンロは、執務室の戸口で立ち止まり憮然とした。
「で…陛下は?」
 彼はいまだに時折、ザーティスを殿下と呼びそうになる。二十年以上の付き合いになるというのだからそれも仕方なかろうが、公共の場でそれではしめしがつかないと、彼は必死で自分をいましめていた。
「さきほどご不浄とおっしゃって行かれましたが」
 つまり便所である。
 執務室内の文官の一人の言葉に、シェンロはするどく視線を走らせた。シェンロは元傭兵というだけあって、細められた双眸には有無を言わせぬ迫力がある。しかしザーティスの鬼畜さに日々耐え抜いている形となるこの執務室の文官たちは、さすが鍛えられているのかその一睨みに臆する事などなかった。
「いつの事だ」
「ほんの十度前の事かと存じますが」
 西の大陸では、基本的に時間は角度で表わす。百八十度が半時、三百六十度が一時、という計算になり、この執務室から一番近い便所までは三度もあれば十分に着けるだろう。それから用を足していればそろそろザーティスが戻ってきでもいい頃合である。
 シェンロは舌打ちをすると、つかつかと書類の積み上げられたザーティスの執務机に近づき、その上にまた自分の持ってきた書類をどさりと置いた。それはさながら紙でできた崩壊寸前の塔のようだった。どこか一枚抜いたらすぐに崩れてしまいそうである。
「陛下はお逃げになられた。私が探してくるから、仕事を進めていてくれ」
 そう言い捨て置いてから執務室を出て、【帝王探索係り】という部署を新しく編成してもらおうかと思ったが、それができた場合お鉢が回ってくるのは絶対に自分だと思い当たり、低く呻いたシェンロだった。




 ザーティスが人外の者であり、ジーリスが人外の者の元で育ったというのは王宮では暗黙のうちに語られる噂である。人の口に戸は立てられないということでこの噂を特に止めようとも思わなかったザーティスだが、それには他に理由があった。それはこの西大陸の性質というものである。精霊や神などはこの大陸では御伽噺の域を出ないのだ。実際には存在しない空想の生き物。それが西大陸における精霊であり神であった。これが東大陸であれば話は変わろうが、帝国が存在するのが西大陸である以上その噂は噂や伝説の域をでないものでしかなかったのだ。
 ジーリスに侍女が付いていないのも、同じような理由からである。彼女はもともと自分の世話は自分でする性格だし、精霊の中で育ち精霊を夫にした彼女は、精霊を否定する人間に進んで好意を持てなかったのだ。
 その日もジーリスは一人後宮の中庭の大樹の下で横になっていた。昔精霊仲間に吹雪の中置き去りにされ死にかけた事もあるジーリスは、冬よりも夏の方が好きだった。庭は緑に溢れていて、夏に咲く花が彩りを加えている。
 その内の一つはジーリスが自ら種植えから始めて育てた花だった。
 種を持ってきたのはザーティスだ。名前はわからないが、青い小さな花が咲く、ジーリスのお気に入りだった。
「あぁー気持ちいいー」
 前髪を撫でる風は優しく、むき出しの腕に触れる草は柔らかい。
 普段ジーリスは基本的に後宮から出ない。それはザーティスから必要以上に出歩くなと釘をさされているからでもあるが、彼女自身人前に出るのをあまり好まないからでもあった。
 ジーリスは、自らを豪奢に着飾り人と会話を楽しむよりも、一人草の上に寝転がり風を感じる方に喜びを感じる性格であったのだ。
 さてその時、いつものように穏やかな午睡を楽しもうとしていた帝妃殿下は、部屋の方でなにやら物音を聞きつけた。後宮の中でも帝王と正妃の住まいとなるこの西の宮に自由に出入りができるのは唯一の妃であるジーリス、帝王であるザーティス、そして大公と大公妃のみである。大公は執務中のはずなので、遊びに来た大公妃か執務を抜けてきた夫であろうと思い、ジーリスは身体を起こした。
 そして目を点にした。
 ジーリスが普段食事をとっている部屋からこの中庭へは直接出入りできる構造になっていて、部屋と中庭を隔てているのは大きなガラス製の扉だけである。今開け放たれているその扉の向こうには、一人の少女が立っていた。
 少女はくせのある金髪を背まで垂らし、可愛らしいピンクのドレスに身を包んでいた。年のころはまだ十に満たないくらいだろうか、驚きにか大きく見開かれた双眸は灰色で、そこには好奇心も見え隠れしている。健康的に日焼けした肌にバラ色の頬。文句なしに可愛らしい少女であると言えるだろう。将来は飛び切りの美人に成長するに違いない。
「驚いた」
 少しも驚いていなさそうにジーリスは呟いた。
「あなたどこから入って来たの?お名前は?」
 ジーリスは立ち上がり体についた草をはらうと、ザーティスがいつも座る椅子の背もたれに手をかけたまま固まったように動かない少女に歩み寄った。
 ジーリスが少女の前まで来てしゃがみこむと、少女はまじまじとジーリスを見つめた。
 その灰色の双眸はどうやら光の加減で色が変わって見えるらしく、ジーリスが光を遮った事でそれは深い青に見えた。綺麗な瞳だ。
「お名前は?」
 ジーリスはもう一度聞いた。
「ティーレ」
 少女の声は、まるで蜂蜜のかかった砂糖菓子のように甘い声色だった。何か力を秘めた声。ジーリスは優しく目を細めた。
「迷い込んで来てしまったのね、ティーレ。あなたのお家はどこかわかる?」
「ここは私のお家ではないのですか?」
「そうよ。残念ながらね」
 不安気に目を彷徨わせるティーレを安心させるように、ジーリスは微笑んだ。その笑顔に、ティーレは幾分ほっとしたかのように強張らせた身体を弛緩させた。椅子からも手を離し、両手を握るようにする。
 ジーリスは、なるべくティーレを怖がらせないようにゆっくりと、その握り締められた手を取った。触れ合った手から流れ込んでくる、柔らかな嵐。
「…驚いた」
 ジーリスはまた呟いた。
 ティーレの中から、風の精霊の祝福だけでなく火の精霊の力も感じ取ったからだ。
 まるでとろけてしまいそうな甘い声は、風の祝福の証である。仮にも精霊の中で育ったジーリスは、精霊と普通の人間を見分けるくらいなら容易にできる。そしてその目で見た時、この少女は明らかに普通の少女ではなかったのだ。しかしまさか二つの元素の精霊の祝福を内包しているとは、人の身にはあまりすぎる恩恵と言えるだろう。
 精霊の祝福とは、生れ落ちてから与えられるのでは赤子の表面を覆うだけのメッキのようなものでしかない。真実その赤子に祝福を与えようとするのなら、母親の胎内にいる時に祝福を与えなくてはならないのだ。しかし二つの精霊の力を受けるのは、母である妊婦にとっても胎児にとっても安全であるとは言えない。力が強すぎるのだ。成人した健康体であるならいざ知らず、体力も劣っているだろう妊婦とまだ身体が完成されていない胎児に精霊の力をほんの断片とはいえ分け与えるのは、賭けとも言える行為なのだ。
 祝福を与えようとするほど好意を寄せる相手であるのなら、精霊はまずそんな賭けをしようとはしないだろうし、もし与えようとしたとしてもそれに耐えられるという確信がある場合に限る。
 それにしても、世界中の精霊の中でも中心に据えられる元素の精霊の内の二つの祝福を与えるなど、危険な賭けには違いなかかっただろう。
 ティーレが彼女のいた場所からこの後宮まで迷い出てきた理由はわからないが、おそらく彼女の内にある二つの精霊の力が関係しているに違いない。こんな少女に簡単に破られるような警備はしていないはずだからだ。しかし精霊が関わってくるとなると、ジーリスにはお手上げとなる。彼女は精霊の中で暮らしていても精霊について学んだわけではない。先程の祝福云々についても夫から教わった事なのだ。
 これはザーティスが執務を終えて戻ってくるのを待つ他ないだろう、とジーリスは結論付けた。名前や容貌から考えても、少女がそう遠い所から来たようにも見えなかったのが、ジーリスを急がせなかった。
「いいわティーレ。じゃあお迎えが来るまで私とここで遊びましょうか?」
 お迎えとはもちろんザーティスの事である。
 ジーリスの申し出に、ティーレはまた驚いたような顔をしたが、すぐに嬉しそうに顔をほころばせたのだった。




 ティーレは、花の名前をよく知る少女だった。
「これはタトリアの葉ね。春に咲いた花をごらんになった?花弁がハート型だから愛の告白にも使われるのですって。お母様のお庭にもこの花がたくさん咲いたのよ」
 花を愛で、薬草の事ならよく知るジーリスだが、毒にも薬にもならない草花の事に関しては全くの無知である。その類の事にはむしろザーティスの方が詳しく、彼が草花を植えたこの庭は季節を問わず美しく色づいているのだ。
「詳しいのねティーレ。すごいわ」
 ジーリスは心からの賛嘆を込めて言った。その言葉にティーレは照れくさそうにはにかんで笑う。それがとても可愛らしいとジーリスは思った。
「お父様が書斎にあった草花の本をくださったんです。ご自分はもう覚えられたからと」
「素敵なお父様ね」
「はい」
「あ、そうだわ。それならこれはなんという花かわかる?」
 思いついてジーリスが指差したのは、ザーティスが種を持ってきてジーリスが植えた青い花である。
 それは花がなければ雑草として摘み取られてもおかしくないような小さなものだというのに、地中に強く根をはっている。その力強さがジーリスは好きだった。
 それを見てティーレは嬉しそうに顔を輝かせた。
「ああ、これは」
「知ってるの?」
「はいもちろん知ってますよ。けれどこの花がここにあるという事はお姉様はやっぱり……」
「何をやってるんだ?」
 ティーレの言葉は、上から降ってきた声に遮られた。 その声の主は、誰かを確認するまでもなくジーリスにはわかった。
 顔をあげるとやはり、室内に背を向ける格好でしゃがんでいた二人の背後に仁王立ちになった金髪の男の姿があった。執務を抜けてきたのだろう。本来はまだ休憩に入ってない時刻だ。シェンロの胃痛を思うと、同情のため息がもれるジーリスだった。
「ああ、ザーティス。この子はティーレ。あなたなら一目見てわかるだろうけど、迷子みたいなのよ。帰してあげて欲しいんだけど……」
 立ち上がり夫に話しかけたジーリスは、言葉を途切らせた。夫であるザーティスが物珍しげに足元でしゃがんでいるティーレを見ていたからだ。妻を目の前にしてそれ以外のものに興味を示す事の少ない彼にしては、珍しい事と言えた。一方ティーレの方も、身体をひねり顔をあげて、まじまじとザーティスを見上げている。
 光を反射して色を変える灰色の双眸と、深淵をたたえる灰色の双眸が交錯する。
 ふと、ザーティスが笑いをもらした。
「……なるほどな。娘、こっちへ来い。ジーリスはそこにいろ」
 ザーティスはティーレを呼び寄せた。
 言われるまま立ち上がったティーレは、室内に戻るザーティスの後をとことこと付いて行く。邪魔になっても具合が悪いので、ジーリスは言われたとおりその場で事の成り行きを見守る事にした。
 ジーリスと一定の距離を置いた事を確かめると、ザーティスは少女に二、三言何かを問う。するとティーレはやけに嬉しげにその質問に答えた。やっぱり!とかなんとか声が聞こえる。
 その後のザーティスの質問にティーレは部屋の扉を指差して答え、ザーティスは了解したとばかりに頷くと同じように扉を指差してなにやらティーレに指示を出す。こくりと頷いたティーレは、後ろを振り返りジーリスに駆け寄ってきた。
 目の前で立ち止まって別れを言うのかと思いきや、直前で飛びついてきたティーレを、ジーリスは驚きながらもしっかりと支えた。戦場から遠ざかろうともその足腰は衰えを見せていない。ティーレはジーリスの首にぶら下がるような格好のまま彼女の頬に音を立ててキスをすると、はずむような声で言った。
「ああ、なんて素敵なのかしら! 帰ってターラに思う存分自慢ができるわ!」
 言っている意味はよくわからなかったが、自分を見て本当に嬉しそうに笑うティーレがとても可愛くて、ジーリスはその頬にキスを返してあげた。
「短い時間だったけど楽しかったわティーレ。もし出来たらまた会いましょうね」
「ええ、また会いましょう!」
 ジーリスがティーレをゆっくりと地面に下ろしてあげる。両足で地面を踏みしめたティーレはドレスの裾をあげて丁寧な礼をすると、踵を返して室内に戻って行った。
 そしてなにやらザーティスに耳打ちすると、彼女は声を上げて笑った。驚いたのが、ザーティスも楽しげに顔をほころばせている事だった。夫が子供好きだなんて話を聞いたこともないジーリスは、いぶかしげに眉をひそめる。
 そしてティーレはごきげんようと言ってすたすたと部屋の扉をくぐって行った。
 ぱたん、と扉が閉まる。
「……どういう事?」
 あれでティーレは家に帰れたのだろうか?
 ジーリスは少し小走りで室内に入ると、部屋を横切り扉を開けて左右を見渡した。そこはいつもと同じ後宮の廊下であり、誰一人として歩いていない。
「心配せずとも、あの娘がここに来たのはちょっとした事故だ。二つの精霊の力を持った副産物だろう」
 振り向くと、やはり悠然とザーティスが言った。なんだかどことなく嬉しそうだ。ジーリスは眉をよせた。
「事故?」
「ジーリス、あの娘は双子だそうだ。もう一人はターラという男児だと。我が帝国の未来は安泰だな」
「は?」
「しかし、異種族間に子供は出来にくいはずだが、双子とはな。数を打てば当たるというやつか。ふむ」
「いやだからあんた何言ってるの?」
 こちらの話を全く聞いていない様子の夫にジーリスは詰め寄る。自ら近寄ってきた妻の腰に、ザーティスは流れるように手を回した。
「何はともあれ近い未来に俺の夢が完全に実現されるとわかっているのなら、頑張らざるをえないようだな」
「は? 夢? ってあの平和な世の中で云々って……ん?ちょ、それって」
「黙れ」
 ザーティスは奪うように妻の唇をふさいだ。




 ああターラ! ターラすごいわ私、今すごい体験をしてきたのよ!
 ああ、待ってよそう怒らないで。
 心配させた事は謝るわよ。
 そうね、ターラの目の前で消えた事も謝るわ。
 でも元はといえばお父様が私をだしにお母様のご機嫌を取ろうとなさったからいけないのよ。
 そう、そのお父様よ!
 短い御髪のお父様、ものすごく格好よかったわ!今みたいに適当に伸ばしてらっしゃるのはやはりだらしがないもの。お母様もまるで少女のようだったわ!
 あ、お父様。
 お父様、こちらへいらして。
 ティーレが今何を体験して来たかおわかりですの?
 そう、そうですわ。
 ねぇお父様。
 私、やはりお父様は言葉が足りないと思いますのよ。
 だってあんな昔からお母様の庭にはあのお花がありましたのに、お母様はお花の名前さえもご存知ありませんでしたのよ。
 さぁさ、お父様、今お母様のお部屋に行ってお花の名前を教えてさしあげてください。
 そうすればお母様のご機嫌も直る事請け合いでしてよ。
 ああ、そういう事をおっしゃるからお母様も意固地になられるのです。
 お父様がお母様を怒らせる事がお好きなのは知っております。どうせお花の名前も、教えるのに一番面白い機会を狙っておいでなのでしょう?お花の名前を聞いて、怒るべきなのか喜ぶべきなのか考えあぐねるお母様を御覧になりたいのでしょう?
 ああもう、ターラからも言ってあげてちょうだい!
 お父様、いい加減その性格を直さないと私、お母様を連れて家出しますよ。
 ターラは置いていきます。帝国の世継ぎだもの。
 さぁさ、お父様。お母様の元に行ってらして。
 いいですか?
 今日の夜までにお母様のご機嫌が直ってなかったら、私本当に家出いたしますからね。
 ティーラ。
 唯一の女性。
 こんな名前のお花を差し上げるほどお母様を愛していらっしゃるのなら、もっとそれをまっすぐに表現なさればいいのに。
 ……そうねターラ。
 あれが、お父様のまっすぐな愛情表現なのよね。
 ああ、お母様も難儀な方ですこと!




 後宮の門番もぎろりという一睨みで顔パスしてきたシェンロは、ぶつぶつとなにやら言いながら帝王陛下のいるだろう部屋を目指してあるいていた。
 帝王のいる場所は帝妃のいる場所。
 そしてこの時間帝妃のいる場所といえば、昼寝にぴったりな中庭に面した食事をする部屋である。
「いや探索隊に必ずしも私が起用される事もないかもしれん。何せ私は将軍として多忙、やはり帝王陛下探索隊には暇な兵士達を数名私があてがって…」
 そう呟きながら目指す部屋一直線に歩いていたシェンロは、数分後、件の扉を開けてちょうどいい感じだった帝王夫妻の雰囲気をぶち壊してしまい、帝王陛下の容赦のない嫌味皮肉の数々を後一週間に渡ってあびせられる拷問にかけられる事となる。
 憐れだ。