太陽の憂鬱

 帝王陛下は、ここ数ヶ月非常に機嫌が悪かった。
 これはいまだかつてなかった事である。
 帝王陛下の不機嫌によって宮廷内に及ぼされる被害は甚大で、(官の精神的苦痛による業務の停滞、遅延等)その対処はこれまで何よりも優先される事項であった。帝妃と喧嘩をしたというなら官達は夫婦の仲を早急に修復するよう帝妃に懇願したし、帝妃の宮から閉め出しをくらっていると聞けば彼らは帝妃に土下座をしてどうか怒りをお鎮めくださいと祈った。
 しかし今回はそういった対処がされる事は決してなかった。
 王の不機嫌の原因がわからなかったわけではない。
 むしろかの尊い御方の不機嫌の原因は誰の目にも明らかで、それに対する最適な対処も誰もが承知していた。
 が、良識のある大人であった宮廷の人間達は、決してその対処法を取ろうとは思わなかった。
 それくらいなら自分達がひたすら歯を食いしばってキリキリと痛む胃に耐えるべきなのだという事を彼らは理解していた。
 数ヶ月前に、後宮で二つの産声が上がった。
 双子である。
 女児はティーレ、男児はターラと名づけられた。
 自分の子供の世話を乳婦アーヤーにまかせる事を拒否した帝妃は、日中は常にこの二人の赤ん坊と共にいる。
 帝妃は毎日、新米母として初々しくも一生懸命に赤ん坊の世話をした。おむつを変え、ミルクを飲ませる。泣けば抱き上げ、子守唄を歌った。
 たとえ妻が自分よりも子供にかまけているからと帝国の王の機嫌が日に日に悪くなろうとも、後宮の一室のこの暖まる母子の光景を邪魔する事など、誰にもできるはずがなかったのだ。
 帝妃ジーリスが昼寝の部屋として愛用している後宮で一番日当たりのいいその部屋も、国中から贈られてきた様々な育児用品で溢れ返っていた。色とりどりのクッションや、音の出る玩具。大きな人形。この部屋に一歩入るだけで、ザーティスは不愉快そうに顔をしかめた。
 昔は執務を抜け出してこの部屋を訪れていたが、最近は文官達が自らザーティスに休憩を取るように勧めてくる。彼らの飲む胃薬の量は日々着実に増えているようだった。
 この部屋には大きなベッドが置かれていたが、子供が生まれる前からジーリスは日当たりのいい床の上で眠るのが好きだった。だからザーティスはベッドの方には目もくれず、窓際にうずたかく積まれたクッションの山の方へ歩み寄った。
 天気はいい。
 初夏の風が開け放たれた窓から柔らかく吹いてくる。
 子供が生まれてから少しだけふくよかになったジーリスは、その銀色の髪を惜しげもなく広げて眠っていた。
 その隣には、二つのまるまるとした物体が横たわっている。
 ザーティスはまた眉間の皺を深くした。
 もう一度言おう。
 帝王陛下は、ここ数ヶ月非常に機嫌が悪かった。
 それもこれもこの二つのまるまるとした物体のせいである。
 これらのせいでジーリスはまったくザーティスに構っている暇がなくなってしまった。
 側にいる時は大抵この片方あるいは両方を抱いているし、これらが泣けばたとえ口付けの途中でもそちらへ飛んでいった。
 まったく、納得のいかない、予想だにしなかった事態である。
 ザーティスは子供を望んでいた。
 それは間違いなかった。
 帝国のためだとかそういう理由ではなく、ジーリスを縛る枷としてだ。
 ともすれば羽を生やして飛んでいってしまいそうな妻を縛り付けるものとして、ザーティスは子供の誕生を歓迎していた。だがこういう事態になるのならば話は別だ。
 ザーティスは、いい加減我慢の限界にきていた。
 消してしまおうか、と思いついたのはつい先ほどの事である。
 何のことはない。
 彼の炎で燃やしてしまえばいいのだ。
 灰も残らぬほどに燃やし尽くしてしまえばいい。
 ジーリスはきっと怒る。
 けれどそれが何ほどの事だろう。
 彼は、ジーリスさえ手に入ればそれでいいのだ。
 彼は注意深くその二つの塊の上に手を翳した。目を細める。
 四肢を縮めて眠るその脂肪の塊は、金色の髪をしていたが、全体的にはジーリスに似ていた。人間の性格というものは生まれた時点で決まっているものなのかもしれない。ティーレの方がややおてんばで、ターラは大人しい。
 ジーリスは一日に何度もその頬にキスを落とした。
 我慢がきかない帝王陛下が数ヶ月も我慢したのは、この赤子達にキスをする時の、ジーリスの顔が好きだったからだ。
 精霊の中では祝福を与える時にする口づけを、ジーリスは何度だって子供達に降らせていた。
 ザーティスはため息をついた。
 手を降ろす。
「なんてことだ」
 彼は嘆いた。
 くすくすと笑い声が聞こえた。
「当然だわ」
 ジーリスは目だけを開けて夫を見上げた。
 彼女が起きていた事に、ザーティスは驚かなかった。感覚の鋭いジーリスが、こんな身近で一瞬とはいえ発された殺気に、気付かないわけがないのだ。
 彼女の青褐色の双眸は、外からの光を受けて湖の底のような色に見える。
「衝撃的だな」
「当然だって言ってるでしょう。あんたは絶対に、この子達だけは殺せないわ」
「殺せると思った」
 ザーティスは手を伸ばして妻の首に手をあてた。彼は笑った。
「お前だったら、俺は迷わず殺せる」
 実際、ザーティスがジーリスを殺した方がいいのではないかと思った事は一度ではない。どこかへ消えてしまう前に。自分の手から逃げてしまう前に。手足をもぎ取り、目を抉り、その心臓を掻き抱いて死ぬのが一番幸せなのではないかと、今でも思う事がある。
「ああ、その方が現実的かもな。この苛立ちを解消するためなら」
 手の平は喉にあてたまま、指先で頬を撫でる。
 眠っていた妻の頬は、少し汗ばんでいた。
「抵抗するわ。少なくとも今は、あんたに殺されるのはごめんだもの」
「子供のため?」
 ザーティスは不愉快そうに少しだけ眉間に皺をよせた。
 ジーリスは笑った。
「それが嫌なの?」
「お前は俺のためだけに生きていればいいんだ」
「そういう女を捜しているなら他をあたって。私は誰のためにも生きたりしない」
 ザーティスは指に力を入れた。
 彼の指が、ジーリスの柔らかい皮膚にくい込む。
 ジーリスは顔色一つ変えなかった。
「死にたい?」
「別に」
 かつて。
 シェンロに言った。
『お前も殺せないか』
 下げられた切っ先に落胆した。
 あの頃は、自分を殺す者を求めていた。
 でもそれは変わったのだ。
 もう誰かに殺して欲しいとは思わなくなった。
 その代わり、こんなにも、誰かを殺してしまいたいと渇望するようになった。
 いっそ。
 この指に力をこめて。
 死を。
 永遠を。
 得たい。
 ジーリスは手を伸ばした。
 ザーティスの頬に触れる。
「途方にくれた顔をしてるわ」
「俺はどうしたらいいだろう」
 子供は殺せない。
 たぶんどうしても、それは無理だ。
 それが父性愛というものなのかどうかはわからないが、とにかく不可能なのだ。彼の火は、きっと赤ん坊を傷つける事は決してしない。
 ジーリスは殺させてくれない。
 彼女が本気で抵抗したら、自分が先に死んでしまうかもしれない。それだけはやってはならない事だ。
 この女を一人残すわけにはいかない。
「ジーリス」
 ザーティスはもう一度ため息をついた。
「俺だけのものになって」
「今が違うとでも言うつもり?」
「違う」
「あんたの子供じゃなかったら、私はこの子達に興味はないのに?」
「これは俺じゃない」
 ジーリスは笑った。
「とんだ独占欲ね」
 ザーティスは身をかがめて妻に口付けた。
「せめて少しは乳婦にまかせろ。でなくては帝国が滅びる」
 比喩ではなかった。
 実際、政務に影響が出ている。
「普通の母親には乳婦なんかいないのよ」
「お前は普通の母親じゃない」
 ジーリスは少しだけ抵抗したが、ザーティスは言下に切り捨てた。
「俺の妻だ」
 ザーティスは突然すばやく動き出した。ジーリスの肩と膝の下に手を入れて、彼女を抱き上げる。そのまますたすたと歩き、ジーリスをベッドに放り投げた。
「ザーティス!」
「黙れ」
 ザーティスは有無を言わさずジーリスの口を塞いだ。
 その時である。
 哀れを誘う泣き声が二つ、クッションの山から聞こえてきた。
 ザーティスはぴたりと動きを止めた。
 般若のような形相である。
「そんな睨まれても……」
 ジーリスは困ったように笑った。
「どういう躾をしている」
「頭がいいでしょう。きっとお母様が猛獣に襲われていると思ったんだわ」
 ザーティスは本日三度目のため息をついた。
 悩みのあまりなさそうな帝王陛下には、最高記録である。
「今すぐ乳婦を呼ばせる」
「実は昨日暇を出しちゃったのよ」
「シェンロを呼ぶ」
 結局最後に貧乏くじをひくのは、いつもの将軍殿なのであった。