狂うような恋は世界を従える

 それは狂信に似ている。




 二年前、ザーティガ公太子は北の国境まで巡察へ行った時に、とある集落で銀髪の女性と出会った。二人は運命的な恋に落ち、公太子殿下はすぐにかの女性を連れ帰り、妃とした。しかし突然の環境の変化に彼女の身体はついていけず後宮にこもりがちになり、そして社交場に現れる事もほとんどなく一年が過ぎた。戦争の続く西大陸を憂えた公太子が各国に平和条約の締結を呼びかけたその年、公太子妃はとうと身体を壊して実家でもある北の集落へ静養に行く事になった。そうしてそのまま一年が過ぎ、その間に公太子は戦争を終わらせるために大きく行動を起こした。進軍を始めたのだ。ついに西方の大国であるサヒャン王国との条約を結ぶ事に成功した公太子はその足で北へと妃を迎えに行き、二人が揃ってザーティガの王宮に戻ったのは、二人が出会って二回目の春の事だった。
 さて、久しぶりに後宮に戻られた病弱な妃殿下はその日、マルア公爵令嬢からの贈り物を受け取っていた。
「斬新なデザインね」
 開けてみるとそれはずたずたに引き裂かれたドレスだった。胸の下の部分を締め付けそれから下部をすとんと落としたデザインは最近の流行であるというのに、切れ味の悪いはさみで切り裂かれていてはとても社交場には着ていけない。
 これを届けた女官は既に下がらせているし、ザーティスは執務中だ。
 ジーリスは公爵令嬢からの快気祝いを、いっそ懐かしい気持ちと共にまじまじと眺め回した。
 実の所、このような嫌がらせは初めてではなかった。むしろ二年前、ジーリスがこの後宮に入ったばかりの頃はもっとひどかった。落書きをされた肖像画なんかはまだいい方で、虫がぎっちりと詰まった壷を送られて来た事だってある。その全ての送り主が、マルア公爵令嬢、リティシア=マルアだった。
 ジーリスは彼女をよく覚えていた。
 公太子妃をお披露目するためのパーティで、ジーリスはリティシアを紹介された。北の集落から来たかよわい田舎娘という設定・・であったジーリスは、精一杯かよわい様子を演じてリティシアに挨拶をした。
 その時リティシアはにこやかだった。ジーリスとザーティスに祝いを述べ、二人の将来が明るいものであるようにと決まり文句を言うと早々にその場を辞した。この時ジーリスにとってリティシアは彼女が挨拶させられた大勢の内の一人でしかなかった。リティシアがジーリスの記憶に残ったのは、その後の事が原因である。
 北の辺境出身というのは紛れもない嘘だが、実際社交場というものが初めてだったジーリスはどっと疲労を覚えて一人夜風にあたっていた。これから先自分があのような世界で暮らしていくのかと思うと暗澹たる気持ちになる。様々な思念が渦巻いていて気持ちが悪かった。ジーリスがそれまで暮らしていたのは精霊の暮らす森だ。森は氷のようにぴしりとして清廉だった。この、渦巻く汚泥の中のような場所とは違う。
 ジーリスは深くため息をついた。
 ザーティスとの結婚を了承したのは早計に過ぎたかもしれない。そう考えた時、後ろから声をかけられた。振り向くと、城内から漏れる明かりの中に女性がいた。逆行で一瞬相手がよく見えずに、ジーリスは眉をしかめた。相手がゆっくりと足を進め、ジーリスの横に立って初めて、ジーリスは彼女が金色の髪と高そうな赤いドレスを身にまとっているのに気が付いた。年は恐らくジーリスと同じくらい。どこかで見たかと首をかしげ、そういえばさっき挨拶をし回った中にいたかもしれないと記憶を探った。しかしジーリスが該当者をはじき出す前に、リティシア=マルアは艶やかに微笑んだ。
「そのご様子では、殿下からわたくしの事をお聞きになってはいないのね」
 ジーリスはその言葉の意味をはかりかねて首を傾げた。
「あの……何か私は不調法をしてしまったのでしょうか?」
 『北の辺境から来た田舎者』は不安気に聞いた。するとリティシアはジーリスの怯えたような様子を見て満足気に頷いてみせた。
「そうね。あなたがしたのはとんでもない不調法だわ。たかだかあなたごときの田舎娘が、公太子妃の座に納まろうなんて。身の程知らずが過ぎるというものだわ」
 今度はジーリスは本気で驚いた顔をした。
 これはあれだろうか。噂に聞くイジメというやつか。
 森から出てザーティスに嫁ぐと言った時、精霊達は散々ジーリスを脅してきた。人間の女達の陰険なイジメというやつは、何度も彼らから聞かされた話であった。
 しかしリティシアはジーリスのそんな心中などわかるはずもなく、目を見開いて怯える田舎娘を傲慢に見下ろした。
「よろしくて? 公太子妃というものはいずれこの国を統べる王の妃になるのよ。それがあなたのような田舎娘に勤まるかしら? 逃げるのなら今のうちだと心得ておきなさい。大丈夫よ。公太子殿下にはわたくしがついているから」
「……」
 ジーリスはなんと答えていいかわからなかった。しかしその沈黙を、リティシアは相手が怯えているゆえと捉えたしかった。彼女はころころと鈴の音が鳴るように笑った。
「あらあら、恐ろしくて声も出ないの? まるで臆病な子ネズミみたいな子ね。公太子殿下も、こんな子を連れ帰っていらっしゃるなんてお戯れが過ぎるわ。すぐに飽きてしまわれるでしょうよ。それともあなたの方から妃にしてくれと迫ったのかしら。お優しい公太子殿下。きっと、貧しい娘を助けるためと思われになったのね」
 リティシアは軽蔑を込めて目の前の子ネズミを見やった。
 その子ネズミはうんざりしていた。
 理不尽さを感じずにはおれない。
 なぜ。
 あたかもあの男が被害者であるかのように言われるのか。
 この国の者は皆そうだった。お優しい公太子殿下。身分など気にせずに、貧しい妻を娶り幸せな生活を与えてあげた慈悲深い男。それが彼らの統一した見解だ。
 ちょっと待てと言いたい。
 毎日毎日結婚しろと迫ってきて、しまいには結婚しなければ森を燃やすだの森を死体の山にするだのと脅してきたあの男が慈悲深い? 他人をゴミみたいに見下すあの男がお優しい?
 世の中間違ってる。
 ジーリスは深くためいきをついた。
 剣を操るのならどんなに動いても疲労を感じないジーリスではあったが、慣れないドレスに身を包み、大人しい田舎娘のふりをして愛想をふりまくのは想像以上に疲れる仕事であったのだ。彼女はなんだかどっと疲労を覚えて、ふらりと城内に戻ろうとした。ホールを突っ切って後宮に帰ろうと思ったのだ。しかしそれを止めたのはリティシアだった。
「お待ちなさい!」
 彼女は慌てて言った。
「あなた、この場からいなくなるつもり?」
 これは公太子妃をお披露目するためのパーティであり、ジーリスはいわば主役である。勝手にいなくなる事など許されない。しかし彼女は疲れていたし、長年精霊の森で育った彼女にとって、社交場のそのような常識など知ったことではなかったのだった。
 片眉を上げて無言で肯定した彼女を見て、リティシアはそんなジーリスの本質を、少しなりとも感じ取ったようだった。この女は、望んでこの場にいるわけではない。望んで公太子妃という地位に着いたわけではないのだ。それに気付き、リティシアは怒りを覚えた。
「……あなたなんか、ふさわしくない。この国の王の妃には、ふさわしくないわ」
 搾り出すように言われたリティシアの言葉に、ジーリスはぴくりと反応を示した。
 つい先ほどまで隠そうともしなかった不機嫌な様子をおさめ、今度は好奇心を剥き出しにした子供のような顔でリティシアを見てきた。彼女はまるで今初めてまともにリティシアを見るといったようにまじまじと彼女を眺め回した。
 リティシアは、それが馬鹿にされているような気がしてならなかった。
「気分が優れませんので失礼させていただきますわ、公太子妃殿下」
 リティシアは辛うじてそう皮肉だけを残すと、ジーリスの横を通り過ぎて城内に戻って行った。ジーリスは彼女が見えなくなるまで、その背中を見送った。
 後から聞いた所によると、リティシア=マルアは、ザーティスの正妃候補であった人間だった。リティシアは小さい頃から、公太子妃になりいずれは公妃になるのだと言われて育てられてきたのだ。
「リティシア様から何か言われましたか?」
 公爵令嬢について聞いてきたジーリスに、シェンロは心配そうな顔で言った。当時シェンロはまだ・・ジーリスを、ザーティスに騙された憐れな娘くらいにしか思っていなかった。これから一緒に暮らしていくにつれてザーティスの性格の悪さに気付き、逃げ出してしまうのではないかといらぬ心配をしている。
 ジーリスはにっこりと微笑んだ。
「彼女はとても素敵な女性ね」
 そうするとシェンロは意外そうに目を見開き、ついでそれはよかったと破顔したのだった。
 これは嘘ではなかった。
 ジーリスは嘘をつかない。彼女は真実、リティシアを気に入っていた。
 だからこそリティシアがその後彼女に対して嫌がらせを始めた時も、ジーリスは徹底してそれらの事を他人の目や耳に入れないようにした。彼女は、それが他人を通してザーティスに伝わる事を恐れたのだ。そうしてザーティスがリティシアとジーリスの間に割り込んでくるのを嫌がった。それくらいに、ジーリスはリティシアという女性を好んでいた。
 だから一年間留守にした後宮に戻ったとたんリティシアからこのような贈り物が届いた事は、むしろジーリスにとっては嬉しい事だった。何故ならそれは、この一年間、リティシアという女性が変わっていないという事を示すものだったからだ。
 ジーリスはリティシアに会いたくなった。
 彼女の怒りに触れると安心する。
 ジーリスは、リティシアの怒りほど純粋なものはないと思っていた。王の妃にジーリスがふさわしくないと言った時の彼女の怒りは、精霊の放つ言葉のように力を秘め、そして綺麗だった。幼い頃から王の妃になるべくして教育を受けた彼女だからこそ、それに対しての怒りには不純物が少ない。様々な思惑が交錯し重く淀んだこの場所で、それはいっそ救いのようにも見えた。




 バン!
 乱暴に開け放たれた執務室の扉は悲鳴のような音を立てた。その音の原因はずかずかと室内に入り込み、ガン! とさらに大きな音をさせて正面にあった頑丈な机を蹴りつけた。そのすぐ近くで仕事をしていた文官は、樹齢何百年という大樹で作られたその机の側面が、銀の髪をした病弱なはずの目の前の女性に蹴られて見事にへこんでしまったのを見て、自分の目を疑った。
「執務中だ」
 突然乗り込んで来た妻に対して、ザーティスは手に持った書類から目を離さずに冷たく言い放った。自分の机がへこんでしまうくらいの勢いで蹴られたというのに、少しも動揺していないのはさすがとしか言いようがない。恐らく彼は、象並みの心臓を持っているのだ。
 しかし生憎そう言われてはいそうですかと引き下がるくらいなら、彼女もわざわざこんな所まで来たりはしない。ジーリスは書類を奪い取り、冷ややかな目で夫を見下ろした。
「リティシア=マルアを西の果てのじじいの所に嫁がせたのはあんた?」
 リティシアに会いたいと思っても、突然会いに行くのは失礼だと思えるほどジーリスは人間の間での常識というものを身に着けていたし、何より自分の身分というものを承知していた。そこでジーリスはまず贈り物の礼にかこつけてリティシアに手紙を書こうと女官を呼んだのだが、そこで彼女が西の果てを領地に持つグライア侯爵のもとへ嫁いだと聞かされた。ジーリスはたまたまグライア侯爵を覚えていた。酒樽のような体格をした八十過ぎの老人である。国境をまかされるような男であるので政治手腕はあるが、いかんせん女癖が悪かった。彼の起こす女性問題は後宮に閉じこもっているジーリスにさえも届くほどだった。
 そんな男のもとへ、リティシアが嫁いだ。確かグライア侯爵は二十年近く前に前妻を亡くしている。彼ほどの財産と地位を持った人間であるのなら後妻に祖父と孫ほども年を離れた女性を迎える事も珍しくないが、その相手がリティシアであるという所がジーリスには気に入らなかった。
 リティシアはプライドが高い。
 まさか彼女が、自分からすすんで女好きな老人の妻になりに西の辺境へ行ったとは考えにくかった。
 となると一つしか考えられない。
 いくら彼女でも、王族の命令なら逆らえない。
「答えなさい。ザーティス」
 ジーリスは答えを促した。
 書類を奪われたザーティスは、仕方ないな、とでもいう風に息をつくと、面倒くさそうに頬杖をついて妻を見上げた。
「リティシア? 誰の事だ」
「マルア公爵の二番目の娘よ。仮にもあなたの妃候補だった女性でしょ?」
 そこまで言われて、ザーティスはやっと思い出したようだった。
「ああ。そんなのもいたな」
 ジーリスは苛々した。
「とぼけるのはやめて」
「とぼける?」
 ザーティスは言った。
「何をだ? あの女が、お前にくだらない嫌がらせをしていたのをか?」
 ジーリスは舌打ちをした。やっぱりだ。この男は知っていた。隠せていると思い込んでいた自分が愚かしくて、自分を殴ってやりたい衝動にかられた。
「俺はなジーリス」
 彼は頬杖をやめて、椅子の背もたれに身体を預けた。高く膝を組み、その上で両手を組む。
 口の端に笑みを浮かべる。
 それは、戦場で彼が度々見せていた、冷血な指揮官の顔だった。目的のために手段を選ばない。人間離れした美貌が冴え渡る。一瞬、息を呑んでしまう。人ではない男。
「お前を害しようとするだけの人間ならどうでもいいんだ」
 その声は冷たい。
 どこまでも続く氷原のように、果てない。
 他者の理解というものを必要としない絶対者の声。
「お前が気に入りの玩具も与えよう。人でも物でも、好きにするがいい」
 悠然と言う。
 まるで世界全てが彼のものであるかのように。
 彼の思い通りにならないものはないかのように。
「だが、お前の気に入りの玩具がお前を害するのならそんなものに、存在価値など、爪の先ほどもないと思わないか?」
 ジーリスは顔をしかめた。
 ひどく、気分が悪い。
「ザーティス」
 彼女は言った。
「私はあんたのそういう所が、反吐が出るほど嫌いよ」
 人を物のように言う。
 存在をあっさりと切り捨てる。
 それは、ジーリスが最も嫌悪する事だ。
 存在の消去。
 すると彼は答えた。
 ひどく優しい笑顔を浮かべて、言う。
「俺はお前のそういう馬鹿な所も、結構好きだよ」
 その表情とは裏腹に、そこに甘やかな響きなどなかった。
 彼は相変わらず絶対者で、自分のその言葉に対する感想や理解など求めていないようだった。
 ジーリスは踵を返すと、黙って部屋を出て行った。
 その場に居合わせてしまった文官達は、今にも泣きそうな情けない顔で主人の奥方の後姿を見送った。
「馬鹿な女だ」
 ザーティスは誰ともなく呟いた。
 彼のその言葉は、執務室の静寂にとけて消えた。




 それらはザーティスの本心からの言葉だった。
 ジーリスを害するものも、ジーリスが気に入っている人や物も、ザーティスは特に興味を覚えなかった。それは、真実ジーリスを害する事ができるものなどないし、ジーリスがその夫以上に愛する者など存在し得ないという自信のためだった。
 それは信頼にも置き換えられる。
 ジーリスという存在は、それくらいで損なわれるようなものではないのだ。
 だが彼は、ジーリスが好意を抱いた対象が彼女に歯向かうのを許す事はできなかった。彼女に求められたのなら、その対象は従順であるべきなのだ。
 世界は彼女に従うべきだ。
 そうでない世界なら、存在さえも意味がない。
 彼の、彼女への感情は、愛情よりも狂気に近い。
 他者の言葉など必要なく、ただ盲目的に信じている。
 彼女の存在を。
 その絶対性を。

 リティシア=マルアが嫁したのは、八十過ぎの老人ではなくその息子である三十歳の男だった。グライア侯爵家は半年前に代替わりをして、息子であるダン=グライアが後を継いだのだ。確かに二人の結婚の世話をしたのは王家だが、それは正妃候補として行き遅れてしまったリティシアのための当然の事である。それに公王であるザカリアも公妃であるテシィリアも強制はしなかった。最終的にダン=グライアに嫁ぐと決めたのはリティシア自身だった。
 ザーティスはずっと、リティシア=マルアがジーリスを嫌悪し、何かと嫌がらせをしている事を知っていた。
 けれどどうしようとは思わなかった。
 何故ならザーティスは妻が、リティシアが彼女へ向ける純粋なまでの怒りを好んでいるのだと知っていたし、その結果の嫌がらせであるのなら彼女に大きな影響を与えるとは思わなかったからだ。
 ザーティスが排除するのは、ただ彼女を変質させる恐れのあるものだけだ。
 それは矛盾ではなかった。
 その絶対性を信じるのに同時に変質を恐れるのは、自分にとって絶対的なその存在が、流動的なものであるからだ。
 矛盾はこの点において生じる。
 流動こそが彼女の本質であるというのに、それを恐れる。
 不安になる。
 不安におされ、手段など選ばずに彼女を囲っておいてしまいたくなる。
 囲って閉じ込めてしまえばとたんに彼女は変質してしまうというのに。
 どうしようもなく。
 コントロールできない感情が湧きあがる。
 それは狂信に似ている。
 狂ったような、それが、彼の恋だった。




「ジーリス」
 彼女を怒らせると後が長い。
 わかってはいても、時にザーティスはわざと彼女を怒らせたりした。
 楽しいからだ。
 理由はそれにつきる。
「ジーリス」
 扉の前で名前を呼ぶ。
 後宮の主人は妃である彼女ではなくその夫であるザーティスの方だ。だから彼が開けろと言えば、開かない扉ではなかった。
 けれど彼はただ扉の前に立って、呼びかけた。
「ジーリス」
 そうやってしばらくすると、むっつりとした顔の妻が扉を開ける。
 彼女はまだ怒っているのだと主張しながらも、最終的には夫を部屋に入れる。
 きっと、勝てないと彼女は思っている。
 最後にいつも折れるのは自分だと、憤慨している。
 違うのだと気付いていない。
 そうではないのだと気付かない。
 既に狂っているのはザーティスの方なのだ。
 それに彼女は気付かないから、ザーティスは扉の前でその名前を呼ぶ。
「ジーリス」
 請うように。