この長い長い道のりの上で見つけた唯一の光

 ジーリスは、森の中を走っていた。
 速く。もっと速く。
 どうして私は走れないのだろう。
 彼女を育てた精霊達は、皆言った。
『仕方がないのよ。あなたは人間なのだもの』
『俺達はこの星そのものだからな。俺達はこの星に縛られる事はないが、お前はそうもいかないだろう』
『人なのだから』
 人間?ひと?人?
 それが、一体どれほど精霊と違うものなのか。
 精霊の中で育ったジーリスがそれを知るためには、自分と彼らを比べればよかった。
 飛べない、消えない、手足を動かすように木々を動かす事などできない。
 もちろんジーリスには精霊達が醸し出すような神秘的な雰囲気も持ち合わせてはいなかったし、そのせいで彼女は深い劣等感に囚われた。
『私も精霊になりたい』
 何度願った事か。
『無理だよ。精霊になるには、お前はその身体に囚われすぎている。俺達がどう見える? お前と同じような手足を持ち、お前と同じような目鼻を持つように見えるんじゃないか? けれどなジーリス。俺達には本来肉体がない。人間と同じ形にお前が俺達に見ているのは、お前が自分の身体に囚われている証拠。お前が自分自身に見せている幻なんだよ』
 彼らにもし身体があるとすれば、それは木々や土や風であると言える。
 精霊は精神の存在だ。
 しかしジーリスは人間であるがゆえに、精神を明確な肉体なしでは考えられない。
 だから精霊に自分と同じような器を見るのだと、精霊達は言った。
 お前は精霊にはなれないのだと。
 永遠に、自分達とは違う存在なのだと。
 ならばなぜと、幾度彼女は問うただろうか。
 なぜ自分を人間のもとから攫ったのかと。
 なぜ精霊の子供ととりかえたのかと。
 しかし答えはいつも一つ。
『お前が愛しいからだよ』
 彼女は泣きそうに問う。
 愛していると言うのなら、どうして違うものだと言うの?

 ジーリスは走っていた。
 どうしてもっと速く走れないのだろうか?
 あの自由な精霊達に追いつけるほどに、速く。
 背中を嫌な汗がつたい、目頭がつんとした。
 涙で目の前の道がにじむのがわかった。
 その道は果てしなく見えた。
 どこまでも続き、変わらない。
 走っても走っても、先になにも見えやしない。
 あとはただ闇。
 ぞっとした。
 これから先どんなに走ったとしても、誰もいない。
 そんな可能性に、背筋が凍る。
 ジーリスは、人間という種族が自分と同じものだとはどうしても思えなかった。
 精霊の中で育ってきたから。
 ジーリスは、精霊という種族が自分と同じものだとはどうしても思えなかった。
 人間として生まれてきたから。
 では私はなんなのだろうと、自問する。
 この道に、自分と同じ者など誰もいないのではないだろうか。
 誰一人、自分と同じにこの道を行く者などいないのではないだろうか。
 どんなに走っても、この闇と道以外なにもないのではないだろうか。
 それは、なんて、果てしない孤独なのだろう。
 ジーリスは走っていた。
 そして手を伸ばして、喘ぐようにその名を呼んだ。
 ……ザーティス、と。




「ジーリス」
 呼ばれて、彼女ははっとして目を覚ました。
 そこは彼女と夫の寝室で、ベッドサイドの椅子に座りベッドの縁に伏せるようにして眠っていたジーリスを、上半身だけ起こしたザーティスが覗き込んでいた。
 彼は、側にあったタオルで妻の頬の汗を拭いて笑った。
「看病をしている奴の方が顔色が悪いとは、おかしな話だな」
「……ザーティス、治ったの?」
 ジーリスは、まだ夢見心地に言った。
 頬を撫でる柔らかな感触がひどく気持ちよく、彼女はこれが現実なのだと実感した。
 ああ、ここは闇ではない。
 あの、果てしなく続くような孤独ではないのだ。
 まるで捨てられた子犬のような目で自分を見てくる妻に、ザーティスは苦笑して、その頬に優しくキスをしてあげた。
「心配させてすまなかったな。まさか、風邪にかかるとは俺も思わなかった」
 もともと精霊であるザーティスは、自らの精神を、誰の目にも見える肉体という器で囲って人間に擬態していた。幻とは違う。実在する肉体。それはザーティスが人間の中で生きるうえで必然的に必要な術であったし、彼は本能でそれをなした。しかし肉体と言っても自らの力で作り上げたそれは完全にザーティスの精神の支配下にあり、彼はおよそ人間がかかるような病気にかかった事は一度もなかったのだ。
「肉体に入った菌を排除しきれなかったんだ。まぁ、人間は本来そこまで自分の身体をコントロールできないからな。俺の擬態も本物に近づいてきたって事だ」
 人間に。
 近づいている。
 人間は精霊にはなれないが、精霊は人間になれる。
 何故なら精霊は精神が全てで、その精神が変われば根本を変える事もできるからだ。
 ザーティスは、確実に精霊から人へとなっている。
 精霊としての本性を現す事も最近ではなくなっているし、こうして……本来普通の精霊にはありえない、『風邪』などという病気にもかかった。
「……ザーティス」
 ジーリスは呼んだ。
 その頬を、はらはらと涙がつたっている事も気にしないで、ただまっすぐに、自分の感情をもてあましたように、夫を見上げた。
「私は、不安だわ。今まで一度も気を失ったりなんてしなかったあんたが、高熱で倒れた。生きた心地がしなかった。ねぇ、私は不安よ。我侭を言えば、あんたにも、人間なんかになって欲しくないのよ」
 素直に、自分の思ったままを口にする。
 ザーティスが、倒れたと聞いた時。血の気がひいた。
 今までありえない事だったから。
 人間への擬態が本物になるほど、人になろうとしているザーティス。
 その理由を知っているからこそ、ジーリスは決してそれを止めようとはしなかった。
 けれど。
「……人間になったら、あんた、私より先に死ぬかもしれない。人間は弱いわ。ひどく。精霊とは違う」
 ジーリスは恐ろしかった。
 精霊から人間へと異例の変化をとげようとしているザーティスは、その寿命を縮めているのではないだろうか。
 か弱い人間となって、もし彼が、あっさりと死んでしまったら?
 自分を置いて、この、長い道の上から消えてしまったら?
 絶えられない、孤独が襲う。
 これまで確固とした形を成していなかった不安が、今ジーリスの中で広がっていた。
 人間となったザーティスは高熱を出して倒れる事も風邪をひくことだってある。これまでそのような病気に全く免疫というもののなかったこの男が、一体それに耐えられるのだろうか?
「ザーティス」
 俯き、涙を隠すようにしながら、ジーリスは喘ぐようにその名を呼んだ。
「あんたは、私が走っていた『道』の上で見つけた、たった一つの光なの。ずっと一人だと思っていた私が、やっと見つけた光なの」
 彼女は自分が今ひどく弱気になっていることに気が付いていた。
 なぜだろう。
 心が悲鳴を上げている。
 さみしい。お願い。置いていかないで。
 それは、幼い頃からずっと心の奥に抱いていた悲鳴だ。
 それが、堰切ったように止まらない。
「お願いよ。ザーティス。私を不安にさせないで。一人にしないで」
 ひどい頭痛が彼女を襲っていた。
 寒気もする。
 気分が悪い。
 自分が何を言っているのかも、わからない。
 しかしふわりと抱きしめられた感触だけは、はっきりとわかった。
 いつになく優しく、自分を包んでくれる。
「ジーリス」
 彼は。
 いつも傲慢でわがままで性格が悪くて、ジーリスは本当にムカついたりするのだけれど。
 たまに、こんな風に優しく名前を呼んで抱きしめてくれる。
 ジーリスが、どうしようもない気持ちをもてあそんでいる時を、彼は敏感に察知する。
「お前の不安を取り除くのは、俺にはできない。俺は人間になりたい。精霊なんて、お前より恐ろしく丈夫で寿命の長い生き物など、考えただけで反吐が出るよ」
 それはジーリスも知っていた。
 彼が、人間へとなろうとする理由。
 今ジーリスが抱えているのと同じ恐怖を、ザーティスは抱えていたのだ。長い事。
 精霊よりも人間は早く死ぬ。それは当然の事で、それでいくと、ジーリスがザーティスよりも早く死に、またその後も長い生が彼を待っている事は、明白だった。
「けれどジーリス。約束する。もし俺が死にそうになれば、その前にお前を俺が殺す。お前をもう一人になどしない。お前が悲しむ顔を見るのは、俺の本望ではないのだから」
 ザーティスは嘘をつくけれど、約束は本物だ。
 彼が殺すと言うのなら、きっと本当に殺してくれるだろう。
 それが、ザーティスにとってどんなに辛い事かわかっていても、ジーリスは喜びが湧き上がるのを止める事ができなかった。
「本当ね?」
「ああ」
「私を置いていかない?」
「ああ」
「絶対よ?」
「約束するよ」
 そう言うと、ジーリスは、華がほころぶような、純粋な子供のような笑顔を見せた。
「……よかった」
 ああ、これで。
 不安などない。
 ジーリスはザーティスを信頼していた。
 彼が約束するというのなら、それは現実に起こるだろう。
 よかったと、もう一度だけ呟いて、彼女は意識を手放した。


 どうやら気を失ってしまったらしい妻の額にそっと手をあてて、ザーティスはため息をついた。
 ひどい熱だ。
 どうやら夫を看病しているうちに、風邪をうつされてしまったらしい。
 病気になると人は心細くなるようだが、ジーリスのそれのなんと極端な事か。
 まるで小さな子供のように不安を打ち明ける彼女を、ザーティスは初めて見た。
 彼は妻を起こさないようベッドから抜け出すと、椅子に座ってベッドの縁に突っ伏す彼女をそっと抱き上げて、自分が今まで横になっていたベッドに横たえた。掛け布団もきちんとかけてやり、汗と涙ではりついた銀の髪をはらってやった。
 失うわけにはいかない。
 強く、思う。
 ザーティスの歩んできた道こそ闇だった。
 彼は精霊であるゆえか精神の発達が著しく、周囲の人間の凡庸さに呆れ退屈を感じていた。
 自分より優れた者のいない場所で、彼は一人だった。
 ザーティスがジーリスにとって光だというのなら、それはザーティスにとっても同じだ。
 ジーリスは光だった。彼の、暗い道を照らす。
 取り替え子として取り替えられた瞬間から、自分達は一対だったのだ。
 そう思う。
 一緒に生まれてきた双子よりも近い存在。
 半身と言ってもいい。
 その孤独を癒すのは、互いだけ。
 ザーティスは、紅く頬をそめて眠る妻の額にそっと口付けを落とした。
 闇がなくなったわけではないけれど。
 木漏れ日のように溢れる光の、なんて優しい事だろう。
 ザーティスは侍女を呼ぶ事をやめ、側にあった氷水でタオルを冷やし、ジーリスの額にあてると椅子に座った。
 そして布団からはみ出た手を握る。
 ジーリスの苦しげな呼吸がふっとゆるんだ。
 それがひどく愛しくて、彼はそっと妻の名を呼んだ。