「どうした? 一年間、武者修行の旅に出るのではなかったか?」
昼間、執務を抜け出したザーティスは、部屋の長いすでだらしなく寝そべるジーリスを見て、楽しそうに笑いながら言った。ジーリスは目をつむり、両手をお腹の上においている。
ザーティスは長いすの肘置きに腰掛け、上から妻の顔を覗き込んだ。
「寝たふりか? 賢くないな」
「うるさい」
呻くようにジーリスは答えた。
まぶたを押し上げ、その銀の双眸で目の前の夫を睨みつける。
「あんた、全部知ってたんじゃないでしょうね」
「まさか。知ってたらお前を剣術大会になんぞ出すはずがなかろう?」
ザーティスはこの上なく楽しそうに笑い、ジーリスはこの上なく不機嫌な顔をする。
「詐欺だわ」
「帝国の未来を考えてくれたのだろうよ。まだ生まれてもいないというのに、俺達の子は帝王としての素質を十二分に備えているようだな」
「は?」
「お前が一年間旅に出ると言うのなら、俺も政務をほおって付いていっていたという事だ。俺にとって、帝国などその程度のものに過ぎん」
「……史上最悪の王さまだわ。あんたって」
ジーリスは吐き捨てた。
「史上最高の妻だよ、お前は」
ザーティスは妻についばむような口付けをした。
顔を上げた時、ザーティスは真っ直ぐに自分を見上げる妻を見て片眉を上げた。
「なんだ?」
「リティシアと話した?」
薔薇のようなグライア侯爵夫人。
「ああ。意外だった。どうせお前は試合に出るために具合が悪いとか言うのだろうと思っていた。身代わりを用意しておくとはな」
「ザーティス。彼女はずっと恋をしていたのよ」
ジーリスは言った。
ジーリスの双眸は、澄んだ水のようだった。
濁りのない。
何も隠していない。
ザーティスは手を伸ばした。
その目のすぐ横に触れる。
水が揺れる。
ジーリスは動かなかった。
「彼女はずっとあんたに恋をしていたの」
他の誰かの妻になっても、その夫を愛しても、彼女はずっとかつての恋を忘れられなかった。
正妃候補として。
その人の妻になるのだと信じていた。
ジーリスが奪ったのだ。
その恋を。
「決着をつけたいのだと言っていたの」
今の夫を愛しているから。
ザーティスは笑った。
「お前の思い通りに事は運んだか?」
ジーリスは苦笑した。
「幻滅したって言ってたわ。あんた一体何をしたの?」
リティシアは笑っていた。
もう彼女に憂いは見られなかった。
そしてそれでも、と彼女は言った。
『それでもわたくしは貴女が嫌いだわ。きっとずっと、一生、大嫌いよ』
ジーリスは笑った。
彼女のその潔さが、ジーリスは好きなのだ。
ザーティスはもう一度ジーリスの頬に口付けを落とした。
「生まれてくるのは双子だ。名前はお前が考えるといい」
「当然だわ。あんたのような性悪の人間に育たないように、いい名前を付けてあげなくちゃいけないんだもの」
剣術大会の後、帝妃殿下の妊娠が発覚した。二ヶ月だという。
妊婦に武者修行は過度の運動であるとして、《戦女神の一年間強化講義カリキュラム》 はドクターストップがかかってしまったのだ。
帝国の子供は秋に生まれる。
実りの季節に。