森が穢れている。
彼女が触れる空気の中に感じた違和感を、テティアトに言ったら彼はそう答えた。
森が穢されているのだ。
彼女は怒った。森が穢されているのを知っていて、なぜ精霊達は何もしようとはしないのだ。彼女にはできないあらゆる事ができるくせに。
するとテティアトは笑った。
正確には、笑ったように見えた。
本来実態を持たない精霊の姿は彼女のイメージによって形作られる。彼女は精霊によって育てられたが、中でも最も彼女に近かった精霊テティアトは、彼女には、空そのもののような青い髪に青い双眸を持っているように見えた。目は切れ長で、口元はいつも意地悪く笑っている。風の精霊としての性質そのままに、気まぐれで傲慢だ。
「僕達は穢れに対しては無力なんだよ、リース」
彼らは彼女をそう呼んだ。
常に大地には縛られず、リースがどんなに成長しても彼らは常に彼女を見下ろしていた。
「白い布が墨にたやすく染められるように、僕達は無力だ。触れても穢れに染まるだけ」
「だからってほおっておくの」
「どうにかしたいと思うのならお前が行けば? お前は人間だ。僕達とは違う」
まただ。
リースは唇を噛んだ。
テティアトはいつもこういう言い方をする。
我らとは違う。
じゃあどうして私を連れてきたのだと、そのたびにリースは思う。そしてその悲鳴のような問いを、テティアトは見透かして答えるのだ。
「お前が僕達のいとし児だからだよ、リース」
リースはかっとした。
右手で腰の左側に下げた剣を抜いて、その場で一閃した。目の前の精霊をぶったぎってやるつもりだったが、同時に彼が絶対にそれを受ける事はないとわかっていた。案の定、彼女の剣は空気を切った。はるか頭上からテティアトの笑い声が聞こえた。
リースはテティアトを睨み付けた。
大きくなったといっても、彼女の背はまだ低い。人間で言う十六歳は、精霊にとっては胎児にも等しい。
風となって飛ぶテティアトには届かない。
「馬鹿!」
そう怒鳴りつけると、リースは憤懣やるかたないといった様子で初夏の森を歩いて行った。
そんな彼女の後ろ姿を、テティアトはにやにやと笑って見送った。
リースは怒りを露わにして森の中を歩いていた。
「なによ。いつもいつも」
空を飛んでリースを見下ろして、でもそれでもいとし児なのだと嘯く。
昔はよく泣いたものだが、今では泣くのだって馬鹿らしい。泣いたって精霊達は喜ぶだけだ。
「馬鹿じゃないの」
彼らには欲望がない。
求めるという事がないのだ。
ただ綺麗なものを好む。興じる。それだけだ。
だから生への渇望さえない。
森が穢されれば、精霊は消える。それが摂理だ。それに対して恐怖を抱かないのは、精霊がそういう生き物だからだ。
けれどリースは精霊ではなかった。
人間、というのだそうだ。彼女の種族は。
飛ぶ事も木々を操る事もできない。優しくされれば嬉しいし、つれなくされれば悲しくて泣いてしまう生き物なのだ。だから精霊とは違う。
違うのだ。
「私はぜったい、いやよ」
森が穢されている? そんな事を看過できるわけがない。
リースは立ち止まった。
空気が違う。どろりとしている。
目を瞑るともっとわかる。森の入り口の方から、穢れが染み込んで来ている。
怒りを感じた。
精霊が穢れを嫌う生き物ならば、こんな事をするのは精霊ではない。
では何だ。人間だ。
「人間って、本当に最悪」
リースは吐き捨てるように言った。
リースは今まで二度ほど人間に会った事があった。一人目は逃亡中の盗賊で、もう一人は死に場所を探している青年だった。どちらも最悪であった事は言うべくもない。
あの、肉の内側でどろどろと渦巻いているものの汚らしさ。
あれと自分が同じ種族だなんて思う事も嫌だった。
「追い出してやる」
左手で腰に下げた剣に触れる。
これはテティアトが彼女のために持ってきてくれた剣だ。何も力を持たない小さなリースに、剣術や戦術を教えたのは彼女を攫った精霊だった。
これがあれば人間なんて怖くはない。
本当はほんの少し、こんな穢れをうむ存在を恐ろしく思っていたが、リースは剣に触れて自分を奮い立たせた。柄の部分に宝石がいくつもあしらわれた剣だったが、彼女にはその価値などわかるはずもない。二年くらい使っている。それが唯一、彼女の物と言えるものだった。
精霊にできないのなら、自分が森を守らなければいけない。
彼女の居場所はこの森にしかないのだ。
リースは再び歩き出した。
そっちは森の入り口だよ
精霊が話しかけてくる。
穢れがあるよ
だから行くのだ。
この森が彼女の故郷だ。
「私が守るの」
リースは答えた。
リースは森の外に出た事はなかった。
一度もだ。
前に森の中で人間に会ってからは外の世界への憧れも霧散したし、外に出る必要性が生じた事だって全くなかった。
だから森の外へ出るという事は少なからず勇気を必要とした。腰に佩いた剣を握り締め、どんどん精霊の気配が薄くなっていく森の中を歩く。人間の匂いが濃くなってくる。この森の、ある程度入り口のあたりまでは、人間達も出入りするのだ。精霊の住むこの森には、実りが豊富だから。
リースは心臓を押さえた。どきどきとうるさい。
大丈夫だろうか。
唐突に不安が襲ってくる。
外に出たとたんに、人間に捕らえられたりしないだろうか。
捕らえられてそして、あの穢れを植えつけられたりしないだろうか。そうしたらもう森には戻れない。
でも、森が穢されているのは人間が原因なのだ。ならば人間の世界に出なければ話しは始まらない。
空気が重くなっている。
澄んだ気配が澱んできている。
穢れは確実にこちらの方から漂っている。
ふと、林立する木々の向こうに、リースは少し開けた場所を見つけた。彼女の視力はいい。湖があるみたいだ。森の奥にも湖はある。水の近くは優しい水の精霊がいて、幼い彼女がテティアトに隠れて泣く時は川や湖の近くを選んだものだった。
リースはなんとなく、そちらに向かった。
それを、防げたのは日頃人外の存在に鍛えられていたからだっただろう。気配のうすい精霊を相手に剣を振るうのは、まるで空気を相手にするように難しかったので、リースは知らないうちにかなりの達人になっていた。
リースはほとんど無意識に腰に佩いた剣を抜き、そしてその襲撃を弾いた。
がきいんと、剣の触れ合う音がした。失敗したと悟るや否や、相手はすぐに向こう側に飛びのいた。
相手の剣は、小さな小刀のようなもので、そしてそれは躊躇いなくリースの首を狙っていた。
リースは驚いて目を見開いた。
精霊だ。
気配でわかる。相手は精霊だった。金色の髪を持っている。整った顔立ちに、外見だけ見ればリースと同じ年くらいに見えたが、精霊ならばきっとずっと年上だ。
相手もまたリースを見て目を見開いていた。
彼女が剣を受け止めた事に対して驚いているのか、それとも突然現れた彼女の存在自体に驚いているのかはわからなかった。
リースは違和感を覚えた。
目の前の少年は精霊に見える。見えるのだが、どこかが違った。
その時リースは、少年の小刀に血がついているのに気が付いた。
リースはどこも怪我をしていない。
ではきっと、弾いたときに少年を傷つけたのだ。
でも精霊は血なんか流さない。
「……あなた、誰?」
リースは誰何した。
「人に名前を問う前に自分が名乗るのが礼儀だろう」
少年は少し低い、突き放すような声で言った。
リースは驚いた。次いでむっとした。
精霊と生活していて礼儀なんて問われた事がないからだ。むしろ精霊の方が礼儀しらずだ。影でくすくすと笑ったり、人を馬鹿にして上から見下ろす。
リースは少しだけ不愉快に思いながらも、慎重に答えた。
「リースよ」
名前を明かす時は慎重にならなくてはならない。
テティアトの名前だって、本当の名前じゃない。精霊には精霊の本当の名前があって、それはリースには発音できる類のものではないので、便宜上教えられたのがあの呼びにくい名だ。呼びにくいから他の名前にしてくれと一度頼んだけれども、便宜上の名でもそれは他の名前では意味がないのだとテティアトは言った。
よくわからなかったけれど、とにかく名前は大切なのだ。
「あなたは?」
これでどうだとばかりにリースは聞き返した。
金髪の少年は少しの間検分するようにリースを見ていたが、やがて手に持った小刀を下ろして構えを解いた。リースは少し驚いた。向こうが先に引くとは思わなかったからだ。リースもまた剣を鞘に収める。
「ザーティス」
少年は名乗った。
「ザーティス=イブ=ジーティス」
リースは今度こそ目を見開いた。
精霊は姓を名乗ったりしない。そんなものないからだ。
「あなた人間なの?」
「お前こそ、人間なのか」
「私は人間よ」
「気配が違う」
「ああ、少しくらい精霊に染まってるかも。ずっと森の中で暮らしているから」
「ずっと森で?」
ザーティスは片眉を上げた。
リースは少し感動していた。
こんな風に人間と話ができるとは思ってもみなかった。
人間にしては、目の前の少年にはあの、内側のどろどろが薄いのだ。彼女が過去会った人間は厚い肉があって、それに隠してずっと育ててきた内側のどろどろが隠しきれずに漏れてきている感じがしたが、今相対している少年にはそもそもその肉自体があまりないように思える。だから精霊だと思ったのだ。
精霊には人間でいう肉のようなものがないから内側が透けていて、だからこそ綺麗で隠すべきものがない。少年には、言われて見れば少しだけ、ほんの少しだけ人間らしい淀みが見えたが、リースが会った人間に比べれば無視できる程度のものだった。
そうか。
とリースは思った。
人間にもこういう人間がいるのだ。
彼女は少し嬉しくなった。
「ザーティスはよくここに来るの?」
ザーティスのすぐ後ろに湖が見える。
「たまに」
ザーティスはそっけなく答えた。
「そう。ねぇ、私達、友達にならない?」
リースははしゃいでいた。
初めて会った、嫌悪感を抱かない同属だった。
ザーティスは最初彼が立っていたと思われる木の陰まで歩いて行って、少しかがんで小さな鞘を取り上げた。何も装飾のない、簡素な鞘だ。ぱちん、と音をたてて小刀を鞘に収める。
「別にいいよ」
ザーティスは答えた。
リースは嬉しくて笑った。
「よろしく、ザーティス」