ふたり


 双子には不思議な力があるらしい。
 側にいないのに互いの異変を感知したり、何を考えているかわかったり。
 ただ俺と静は二卵性だからなのか、そういう直感のようなものが一切なかった。静がジャングルジムから落ちた時も、熱を出して寝込んでいた時も、俺には何の異変もなかった。
 でも俺達はこの世に生れ落ちる前から一緒にいた。
 俺にはその確信があったし、静にだってあっただろう。
 お互いに、互いのことが、明示しがたい存在だった。
 静はそういった事をあまり深く考えない性格だったのだが、俺はずっとこの双子の姉という存在をもてあましていた。
 単純で、大雑把で、まっすぐで、乱暴で、優しく、冷たく、深い。
 静は俺にとって一言で表現しがたい存在だった。
 自分があの姉を誰よりも理解していると思ったことはないし、あの姉が自分という人間を誰よりも理解している存在だと思ったこともなかった。
 二卵性の双子っていうのはもとが同じ人間だったわけでもないし、たまたま同じ時期に母の胎内に宿って生まれてきた姉弟だというだけだ。
 でも普通の姉弟でないことは確かだった。
 兄や弟とは違う感情が静に対してはあった。
 責任とでも言うべきものかもしれない。
 双子なのだから、自分は家族の誰よりも静を理解する人間でなくてはならなかった。
 それが、十月十日、共に母の胎内で過ごした自分の義務だった。




 綱は一人で帰っていた。
 日はもう傾いていて、友達と校庭で遊んでいたのだが、最終下校時刻の放送が流れたので彼らはランドセルをしょって校門を出た。いつも同じ方向へ一緒に帰る同級生が今日は他の友達の家に遊びに行くとかで、綱は途中から一人になった。家でゲームをするらしい。魅力的ではあったが、学校から直接友達の家に遊びに行ったら母に怒られるのは目に見えていた。
 家から小学校までは歩いて二十分ほど。
 朝は集団登校なので兄も姉も一緒に家を出るが、帰りが一緒になることは滅多になかった。上級生の武兄はクラブに入っていたし、静は友達とおしゃべりをしてから綱よりも少し早く帰るからだ。
 途中公園を通る。
 綱は一応中を見ながら公園の前を歩く。友達がいたら声をかけるし、もしまだ何人かで遊んでいるのなら、一度家に帰って母に許可を取りまた遊びに来ることだってできた。
 けれどその時綱が見つけたのは思わぬ人間だった。
 綱は入り口から公園の中に入ると、上級生が走り回る中央を避けて歩いて奥のジャングルジムの下にたどり着いた。
 上を見上げる。
 静だった。
 擦り傷の多い足がスカートから伸びてぶらぶらと揺れている。姉の赤いランドセルはジャングルジムの下にほおりなげられていた。靴がジャングルジムの中央あたりに落ちている。たぶん上に座った後に落としたのだ。
 静は公園の入り口には背を向けていた。後姿で静だとわかったのは双子だからでもなんでもなくて、今朝家を出た時の服装を覚えていたからだ。
「静」
 綱は声を上げた。
「何やってんの?」
 この双子の姉はこの公園の中ではここにあるジャングルジムが一番好きだった。もっと小さい頃には落ちて病院に運び込まれたというのに、懲りずにこの四角い鉄棒の融合体に登っている。
 でも彼女は女の子にしては活発すぎるという部分以外は優等生で、家に帰るのが遅いと綱が怒られることはあっても、静が怒られるなんてことは今まで一回だってなかった。本当なら今は怒られるかどうかけっこうぎりぎりの時間で、静はとっくの昔に家に着いているはずだったのだ。
 だから綱は、日が傾いているこの時間にジャングルジムの上に座る姉が不思議だった。
「帰らないと母さんに怒られるよ」
「知ってる」
 上から声が降ってくる。
 それはいつもと同じ静の声だった。
「綱は先に帰ってて」
 綱は困惑した。
「もうすぐ六時の鐘が鳴るよ」
 綱はなおも言った。
「知ってる」
 まるで頑なな王女様のようにジャングルジムの頂上に座した姉は言う。
 綱は逡巡したが、やがてランドセルを近くの木の枝にひっかけて、自分もジャングルジムを登り始めた。登りきった綱はぎょっとした。
「静」
 静は、両目から大粒の涙をこぼして落ちていく太陽の色に染まる空を睨んでいた。きゅっと唇を噛んで、嗚咽を堪えている。夕日のせいでなく鼻も目も真っ赤だった。いったいどれくらい泣いていたのか。
 静がこんな風に泣くところを綱は見たことがあった。
 静が散らかしっぱなしだった玩具を広中が飲み込んでしまって母さんが広中を病院に連れてっている間、家で待っている時に静はこんな風にして泣いていた。ずっと前から約束していた動物園が、父さんの仕事の都合で行けなかった時もそうだったかもしれない。
 綱は前の時も、前の前の時もそうしたように、黙って静の隣に座った。少し距離をあけたのは、くっついて座るような年じゃないからだ。静と綱は、今年で中学年になったのだ。
 やがて静が言った。
 不思議なことにその声は泣き声にはまったく聞こえなくて、普通のいつもの姉の声に聞こえた。
「ナオに好きな子がいるって、綱知ってた?」
 ナオは綱と同じクラスの男子だ。足が速くて、女子に人気がある。綱には常日頃から理解できない部分の多い姉も、そういうところは普通の女子と一緒だった。静はナオが好きだった。
「知らない」
 綱は純粋に驚いていた。
 好きな子? ナオにはそんな子がいるのだろうか。好きだどうのっていうのは綱の年ではからかいの対称にしかならない。クラスの中で誰が可愛いというような会話はしても、『好き』という単語はタブーとなっていると言ってもよかった。
「いるんだって」
「誰? クラスのやつ?」
「ううん。高校生だって」
「こーこーせー?」
 それはすごい。大スキャンダルだ。というか大きすぎてよくわからない。高校生なんていうものは、雲の向こうの存在だ。兄を含む高学年の上級生だって、彼には大人のように見えたのだ。
「私、振られた」
 だから静は、ここで唇を噛んで睨むようにして泣いていたのだ。
 というか告白したのか。姉の勇気にはいつも脱帽する。
「自分の好きな人が」
 静は言う。
 目の前の空は、肉じゃがのような色をしている。
「自分のことを同じくらい好きじゃないってすごくつらいね」
 綱はまだその恋をいうものをしたことがなかった。
 でも静のいうそういう状態はなんとなくわかると思った。綱は昔母を広中にとられたような気持ちがあったし、兄が幼い自分達よりも同級生の男子達を遊びに行くのもあまり面白くなかったのだ。
「むかつくよな」
 言うと、静は笑った。
「むかつきはしないよ。つらいの」
「どう違うの?」
 綱は顔をしかめた。姉の言っている意味がわからなかった。
 静はずっとまっすぐに前を見ている。
 涙はもう止まったようで、それが綱を少しほっとさせた。
「心臓のね。奥のほうがぎゅうってなるの。深い深い部分が誰かに絞られてるみたいになって、息がうまくできなくなるの」
「ふうん」
 綱にはよくわからなかった。
 思えば。
 たぶん静は、感性のひどく鋭敏な子供だったのだ。
 彼女は聡く、周囲の感情をよく察知し、そしてうまく立ち回る子供だった。たぶんそのせいか幼い頃から綱の知らない感情を多く彼女は内に溜め込んでいて、そして彼女の中には大きな大きなポケットのようなものができたのだろう。
 結局その日、日が暮れるぎりぎり前に二人は帰り、静も母に怒られることはなかった。家に帰るまでに彼女の顔の赤みは完全にひいていて、武兄も父さんも静が泣いていたことに気付かなかったのだが、母だけは気付いた。気付いてそして、後で綱と静が寝ている部屋にやってきて静が起きているのを確認すると、こっそりどうしたの? と聞いていた。たぶん泣いていたのを隠そうとした彼女の矜持を気遣い、父さん達の前では聞かなかったのだ。静は母の前で声を上げて泣いた。綱はずっと起きていた。
 やがて父と母が死んで、四人で暮らすようになり、静は仕事で海外に行った。そして夫と子供をつれて帰ってきた。
 ずっと明るかった姉が、最近様子がおかしいことに綱は気付いていた。
 たぶん、あの、熱を出した日からだ。
 静が熱を出して、華子をつれてうちにやってきた日。
 兄や広中は知らない。
 綱だけが見たのだ。
 夜中にトイレに行こうと思って起き出して、ドアを開けて廊下の電気を点けて階段に向かった。
 そこで彼は立ち止まった。
 階段の一番上に、誰かが座っていたからだ。兄だったら悲鳴をあげていたかもしれない。でも綱には、それが静だということがすぐにわかった。
「……嫌な夢みちゃった」
 静は言った。
 それは平生の彼女の声を同じ声だった。
 でも綱はすぐにわかった。
 彼はため息をつくと、黙って彼女の隣に座った。肩や腕があたってしまうくらい近くに座ったのは、もうそんな事を恥ずかしいと思う年齢ではなくなったのではなく、階段が狭いからだ。
 やはり静は泣いていた。
 あの夕暮れのジャングルジムの上で見た時のように。
 前を睨みつけて嗚咽も漏らさず泣いていた。
「……」
 つらい、と静は言わなかった。
 父と母が死んでから彼女は一度も、そういった言葉を吐いたことがない。つらい、苦しい、疲れた。人間なら、まして両親を亡くした人間なら誰しも抱くはずのそういった倦怠感や心の奥の痛みを、彼女は口にしなかった。
 すべてを心臓の奥のあの大きなポケットに仕舞い込んでしまっているのだ。
 武兄とも一度話したことがあるが、静はまだ、両親の死から立ち直ってないように思える。
 それはたぶん、武兄や綱、広中達のせいだった。
 両親の死に打ちのめされた馬鹿で弱い愚かな兄弟達のために、静はずっと前を見ていたから。彼らの傷を気にしてばかりいて、自分の傷を省みていなかったから。
 だがそうと気付いても、どうしたらいいのかはわからなかった。
 綱は、自分と静が一卵性の双子でなかった事が、恨めしかった。
 もし噂に聞く双子の神秘が今この瞬間自分達に降りかかったのなら自分は静に何と言ったらいいかわかったらだろうし、今までだって静がこんな風に一人で泣いていることももっと早く気付いていたのだ。
「きっと、母さんのお腹の中にいた頃からそうだったんだろうね」
 静は言った。
 綱は怪訝そうな様子を隠そうともせず姉を見た。
 彼女は前を見ていた。
「綱は、私が本当につらい時、いつも側にいてくれる」
 静は膝の上に腕を組んで顔をうずめた。顔を少しだけ動かして、綱を見る。綱は初めて、静が自分を見たような気持ちになった。静は笑う。
「さすが双子だね」
 どうして。
 綱はかっとした。
 姉の胸倉を掴む。引きずるように顔を近づけた。自分が泣いているのかもしれないと思った。怒っているつもりだったが、懇願するような顔になっているのかもしれない。
「どうしてお前は」
 今、彼女は、綱のための言葉を口にした。
 静のために何もできない自分の無力さを痛感していた彼を、優しく労わる言葉を口にしたのだ。
 泣いていたのは静なのに。
「どうしてお前はそうなんだ」
 静の腕が背中に回る。
 いつの間にか静が綱を抱きしめていた。
 綱は泣いていた。静は熱かった。たぶんまだ、熱があるのだ。
「馬鹿静」
 彼女は恐るべき女だった。
 その細い腕で、なにもかもを包み込んでしまおうとする。
「武兄も俺も広中も、お前が一人で泣くことなんて望んでないんだ」
「ごめんね」
 静は言った。
「ごめんね」




 あきらかに。
 俺達兄弟の中で一番強情なのも、虚勢を張るのがうまいのも、静という名の俺の双子の姉だった。
 彼女はずっと、自分の中の大きな大きなポケットの中に、ありとあらゆる屈託を隠している。そしてそれを兄弟達に見せようとはしないのだ。
 でもたぶん今、静のその虚勢という名の壁ははがれてきているのだろう。
 武兄も広中も、静の様子に気付いている。
 彼女は自分の内側にある何か大きなものを隠しきれないでいる。
 たぶん正平さんや華子という存在が。
 すべてを包み込もうとする静を、さらに大きく覆おうとする存在が。
 何かを変えようとしている。
 だから静は「ごめんね」と言ったのだ。
 それは彼女の心臓の向こうにある屈託の一端だ。
 静が決して見せようとしなかった、彼女の奥にある大きなもの。
 それを綱が逃すまいとして静を抱きしめた。
「お前は何も悪くない」
 熱で意識を失った姉に、綱は繰り返しそう言った。
「お前は悪くない。お前は何も悪くないんだ」
 言葉が。
 静の口から彼女の身体に入り血と混じって全身にめぐることを願った。
 お前は何も悪くないのだと。
 ただただその言葉を、無垢な子供のように信じてほしかった。