予定外の出来事


 華子を見ているとつくづく不思議な気持ちになる。
 今こそよちよち歩きでつたない言葉さえ喋るようになった彼女は、自分が初めて見た時はうごうごと動く赤ん坊だった。彼女はその名前も過去もない真っ白な状態で姉の腹から生まれ、そしてたった数月で自分を見て笑うようになった。
 こんな不思議があるだろうか。
 彼女もいつか成長して友達を作り恋をして、結婚する相手をこの家に連れてくるのだ。
 そんなこと想像もできない。
 華子がうちに来てから、言いようもない気持ちが胸を満たす。
 たとえば武兄が目尻を下げて華子と遊んでいる時とか。
 たとえば綱兄が華子のミルクを作っている時とか。
 たとえば、静姉が華子に母乳をあげている時とか。
 それらの光景を見るたびに、僕の心に何か柔らかでひどく暖かいものが去来して、そして僕を満たす。
 幸福と。
 人はそれを呼ぶのだと思う。




 はじけるような泣き声が聞こえた。
 広中はベッドに横たわったまま、持っていた本をつと視線からずらして部屋の扉を見た。
 今日は休日だ。武一も綱もでかけている。綱はたぶん研究室で、武一は何も言っていなかったからたぶんデートだろう。正平は仕事で、今うちには静と華子と広中だけだった。
 正平は忙しい。それだけの責務があるのだから、当然なのだろう。そのおかげで静が頻繁にこの家に来てくれるのだとも言える。家事に関しては、静が帰ってくる前よりもずっと楽になった。
 広中は読んでいた本にしおりを挟んで机の上に置くと、ベッドから出た。
 華子が泣いている。たぶん、昼寝の時間なのだ。

 階下に下りる頃には泣き声はやんでいた。居間に入ると静がソファに座って華子に母乳をあげていた。
 一般的な男子高校生の中でも理性的な部類に入る広中少年といえど、年頃の健康男子には変わりない。女性の裸を見ればそれなりに興奮するし顔も赤くなる。さすがに授乳中の姉に興奮することはないが、どこかいたたまれない気持ちにはなった。
 絨毯の上には洗濯物が畳む途中で置いてあった。
「ああ、ねぇ。昼ごはん何がいい?」
 静が聞いてくる。
「なんでもいいよ」
 彼は答えて、絨毯の上に座ると洗濯物を畳み始めた。こういう状態を見て、そのままにできるような躾はされていないのだ。
 すると静は笑った。
「ありがと。うーん。でもなんでもいいっていうのが一番困るのよね」
「じゃあオムライスは?」
「卵がないの」
「炒飯」
「私の炒飯ってぱさぱさして美味しくないのよね」
 広中はむっとして言った。
「じゃあ聞かないでよ」
「あはは。ごめんごめん。じゃあオムライスにしようかな。華子が寝たら買いに行ってくるから、ヒロは華子みててね」
「僕が行くよ」
「や、他にも買うものあるからいいわ。ついでに夕飯も考えながら買い物してくる」
「ふーん。いいけど」
 広中は授乳中の静をあまり見ないようにしている。武一も同じで、いくら姉でも相手は女性なんだしじろじろと見るのはやっぱりあまりよくないだろうと思っているのだ。でも綱は双子だからか遠慮なく授乳中の華子を覗き込んで「すげぇ必死」とか言って笑ったりするし、正平は正平で「そうそう、母乳飲んでる時もすごく可愛いよね」とか同意したりするからすごいなこの二人、とか思っていた。正平は夫なのだからいいとしても綱はそういうところがすごく図太い。
 綱がいる時はいつもついているテレビは消されている。音楽がかけられていることもなく、静はいつもこういう静かな中でいろいろな家事をこなす。
 豪胆で兄弟の誰も敵わない姉だが、実はとても慎ましやかで控えめな性格なのだと広中は思っていた。三人の兄弟があまり頼りなかったからこんな風に強く育ってしまっただけで、もし自分達が身体も大きくて体育会系の頼りがいのある兄弟だったらきっと清楚に育っていたんじゃないか、とたまに思ったりする。体育会系の兄達も清楚な姉もとても想像できないけれど。
「ヒロはきっと素敵な旦那さんになるわね」
 静が言った。
「洗濯物を畳める男なんてポイント高いわよ」
「正平さんは畳めるの?」
「無理に決まってるじゃない。あの人お坊ちゃまなのよ?」
 そういえばそうなのだ。たまに忘れてしまうのだが。
「ああ、でもいつかヒロがお嫁さんを連れてくるなんて想像できない」
 そう嘆息する姉に、広中は笑った。
「おばさんくさいよ静姉」
「うるさいわね。いいのよ」
「でも僕も華子がいつか彼氏連れてくるなんて想像できない」
「そうねぇ」
「そういえば静姉子供も産まないし結婚もしないって言ってたのに、どういう心境の変化だったの?」
 言うと、沈黙が返ってきた。どうしたのかと広中が振り向くと顔をこわばらせた姉がいた。広中の怪訝そうな顔を見て静は首を傾げて取り繕うように笑った。
「恋は魔物よね」
 そして冗談を言う。
 静が、子供も旦那もいらないと言っていたのは本当だ。たぶん静が高校生くらいの頃で、何かやらかした静に武一がいつかお前も結婚するんだから、とか説教をしていた時に姉の口から飛び出した台詞だったのだと思う。
「何? どうしたの?」
 広中は姉の動揺を見てみぬふりはしなかった。
 すると静は少し辛そうに顔をゆがめてから、ふぅと大きなため息をついた。腕に抱く華子を見る。華子はもう寝たのだろうか。
「……華子はさ、予定外だったからね」
 広中は顔をしかめた。
「どういう意味?」
「華子ができてなかったら、結婚もしてなかったと思うし今頃は正平とも別れてたかもね」
「え、嘘」
 広中は声を上げた。そんなこと信じられない。というかありえないだろう。あの正平が静を手放すとも思えない。
「わかんないけど。だからこの子は私にとっては予定外なのよ」
 そう言う姉は複雑そうに顔を歪めていた。姉のその表情が広中には不思議だった。
 静は確かに華子を心から愛しているし、そう見える。なのにどうして辛そうな顔をするのだろう。
「まさか静姉、正平さんの他に好きな人でもいたの?」
 広中がそう言うと、静は目を丸くして弟を見た。
「……さすが天才少年の発想は違うわね」
「うるさいな。言った後僕だってないなって思ったよ」
 広中は恥ずかしくなってぷいと顔をそむけた。
 静に他に好きな相手がいたとして、正平はそれに気付かないほど馬鹿じゃないし、それを無視して静を自分のものにしようとするほど傲慢でもないだろう。
 広中は正平が好きだった。
 かっこいいし面白い、いい義兄だと思う。
 華子と正平は、両親がいなくなってどこか穴が開いたようだった河野という家を、満たすために現れたようなものだった。
 その穴は広中が、幼いながらも感じ取っていたものだ。
 朝食や夕食。家族が全員集まるべき場所にいない両親。兄弟がばらばらでいる時はあまり明確にならないその不在が、四人がそろうことによって浮き彫りになる。そのひどい空虚感は、どうしようもなく兄弟達の中に巣食っていたのだ。
 だから、静は家を出たのだと広中は思っていた。
 家族が全員集まらなければ、両親がいなくても不思議ではない。
 そういう空間を演出しようとしたのではないのだろうか。
 そんなこと、姉には聞けないけれど。
「でも華子を見てるとすごく幸せな気持ちになるよ」
 広中は言った。
 彼は姉に伝えたかった。
 静がこの家にもたらしたものがどんなにか大きいかということを。
 足りなかった部分を埋めて、広中の中を満たした暖かいもの。
「僕にとって華子も正平さんも、予定外の幸福だった」
 たぶん武一や綱がお嫁さんを連れてきたのだとしても、こういう感じにはならなかった。静だったからだ。他でもないこの姉が連れてきた二人だから、こんな風に欠けてた部分を埋めることができた。
「……んだと思うよ」
 だがさすがに自分の言っていることが少し恥ずかしくなって、広中は語尾をあいまいにした。
 すると静がぷっと吹き出した。
 広中がむっとして振り返ると、静は泣きながら笑っていた。
「……やだ、もう。ヒロってば」
 広中は慌てた。
 姉の泣いているところなんて初めて見たからだ。
「え、ちょ、なんで泣いてんの静姉」
「ううー。年かなぁ。涙腺弱くなってるのよね」
「まだ二十代じゃん。えっと華子もう寝てるの? もらおうか?」
「んん、お願い」
 華子を受け取る一瞬だけ広中は顔をそらした。乳房が見えてしまうからだ。すると静はまた笑った。
「なんだよ」
「ヒロ可愛い。ヒロが赤ちゃんだった時のこと思い出す」
「やめてよ」
「ふふ」
 受け取った華子は暖かく、ミルクの匂いがした。この柔らかな重み。
「重い」
「ああー。華子ももう、断乳させないとね」
「今までなんどか挑戦してそのたびかわいそうとかって挫けてたくせに」
「よし。じゃあ今日から断乳」
 華子はうどんのようなものならもう食べられるのだ。母乳を求めるのは寝る時に落ち着くという理由以外にはないのだろう。数月前までは、母乳がなくては生きていけない赤ん坊だったのに。
「じゃあこの勢いで買い物行ってくる」
「化粧くらいしなよ」
「生意気」
 静はもう泣いていなかった。
「アイス買ってきて」
「はいはい」
 広中は華子を抱きなおした。
 柔らかくて暖かくて重いもの。
 これが幸福というものなのだ。