Dear her Darling

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 ダーリンとの出会いは夜の繁華街。
 なんとなくぶらぶらしてたら補導された。
『あんな所に何の用だったの? だめじゃないか。君みたいな女の子がこんな時間にあんな所をうろついてちゃ』
 何こいつ。
 うざ。
 これが第一印象。
 それが何故か三日後には初デートをしていたし、一週間後には私は彼の嫌いなものを余す所なく知っていた。
 彼はトマトと羽のついた生き物と大音量が嫌いなのだ。だから私達はデートでイタリアンレストランには入らなかったし、蝶々を見てはしゃがなかったし、ディスコなんかには決して行かなかった。
 彼は私の嫌いなものを聞いてきた。
 家、と私は答えた。
 すると彼は笑って、薫子さんは僕の弟達に似てるね。 と言った。その笑顔がなんだかとても可愛くて、私は思わず背伸びをしてキスをしてしまった。すると彼は驚いて顔を真っ赤にした。
 トマトと羽のついた生き物と大音量が嫌いで弟達を自分の息子のように可愛がっていてキスくらいで真っ赤になっちゃうような私のダーリン。
 ねぇ私、こんなにあなたを好きになるとは思ってなかったの。
 だからとても、驚いたのよ。




 小さい頃に叔母夫婦の家に引き取られた。
 けれど叔母夫婦にはすでに娘がいて、彼らはどうしても実の娘と同じだけの愛情を私に注ぐ事ができなくて、自己嫌悪したり、私に物を買って与えたり、わざと実の娘の方にきつくあたってみたりしたけれども、やっぱり無理で、結局私を同じ娘として扱う事を諦めたらしかった。
 彼らはテストで私が実の娘よりも良い点数を取った時は実の娘を慰め励ましたし、私が実の娘よりも悪い点数を取った時は実の娘を褒め称えた。それはまるで童話シンデレラに出てくる継母のように徹底していて、完璧主義な叔母夫婦らしいと私は思った。
 そんな環境で育ったからか、当然のように私は家族というものに憧れがあったし、早く自分だけの家族が欲しかった。私は今すぐにでも子供を産んで、そりゃもう食べちゃいたいくらいに溺愛したかった。けれども私の大事なダーリンはとても真面目で臆病な堅物で、決してキス以上の事を私にしようとはしなかった。私は彼のそんな所が好きなような嫌いなような。ああけれどその欲望を平気そうなふりをして抑え込んでいる彼の顔を見ているとやっぱり愛してるなぁと思えてしまうのだった。
 日本の法律では女は十六歳、男は十八歳にならないと結婚できないらしい。
 私とダーリンの年齢差は四つ。
 そして今日、晴れて私は十六歳になった。
 記念すべきその日、私はいつもよりも早く目覚め、いつもよりも緊張して朝ごはんを食べ、いつもよりも毅然として家を出た。
 私は是非とも彼と婚姻を結びたかった。
 結婚したかった。
 伴侶になりたかった。
 けれどその最大の障害がどこにあるのか、同時に私にはわかっていた。
 それは彼自身。
 真面目で臆病な堅物ダーリン。
 私は彼の家に呼ばれた事がない。
 彼は私が彼の家に行くのを恐れているふしがある。
 彼は彼の弟達の話をそれは嬉しそうにして、彼の父親の話をそれは自慢気にするというのに、彼は私が彼の家に行くのを承諾しない。
 どうも、私のダーリンの家庭は私の家庭よりも複雑なようなのだ。私と同じように自分の家を嫌いだという彼の弟達。有能で冷血な彼の父親。ダーリンはその父親に、私が傷つけられるのを恐れている。
 彼は彼の父親を愛していた。
 これは間違いない。
 父親の話をする時の彼はパイロットである親を自慢する小学生のように嬉しそうだったし、誤解されやすい人なんだよ、と言った時の彼は心からその父の性質を心配しているようだった。
 けれどそれでも彼は、私がその父親にひどい罵倒を浴びせられる事を懸念している。
 それは彼が現実を美化してしまうような愚かな人間ではなかった証拠だけれども同時に、私という人間を甘くみている証拠でもあった。
 いつも私の我儘を笑って聞いてくれる彼が、昨日は頑として譲らなかった。
 彼の弟達と父親に紹介して欲しいという私に、まだ時期ではないからと彼は首を振った。私は納得できなくて、何度も彼に訴えたけれども、彼は真面目で臆病で堅物な上に頑固な所まで発揮してくれて、決して私に押し負けたりしなかった。くそ。
 結局誕生日の前日だというのに喧嘩別れだ。最悪。私は昨日の夜遅くまで泣いていて、おかげで今日は目が腫れてしまっていたが、そんな私の顔も、彼は笑って可愛いと言ってくれるに違いないと私は思っていた。
 私は学校までの定期を持っていたのだけれども、その時は切符を買った。
 何故なら私のダーリンの大学は定期圏外に存在するからだ。
 私は戦いの前の戦士のように自分を叱咤した。
 だって私はこれから戦いに行くのだ。
 敵の名前は荻原有正。
 私を虜にした、大切なひと。
 最初は確かにうざいと思っていたのに、いつからか私は彼に恋をしていた。
 なんでだろう。何がきっかけだったのかしら。
 だって私は、まるでスポンジが水を吸い込むみたいに自然に、彼を好きになっていったのだもの。これが運命ってやつ? 違う違う。この熱情は、運命なんて陳腐な言葉で片付けられるものでは決してないわ。
 ダーリン。
 たまに私は、あなたの大切な弟達や父親を殺してしまいたくなるの。
 そうしたらあなたは、私だけのものでいてくれるのかしら?




 大学は思っていたより広くて、もともと方向感覚のない私はあっさりと迷子になった。私は彼の時間割を暗記していて、この時間彼が213教室で勉強している事を知っていたけれど、私がその213教室にたどり着く前に終業チャイムが鳴ってしまった。
 ブーっという非常ベルみたいなチャイムだったので私はしばらくそれがチャイムだと気付かなくて、たくさんの校舎に囲まれて途方にくれていた私は校舎の中からわらわらと人が出てきたのを見て、授業が終わったのだと知った。
 この後の彼は授業がないので、どこへ行ってしまうのか見当もつかない。
 大学の出入り口は三つもあるから出入り口で張っていても彼に会える確率は三分の一。その数字は今の私の気力をそぐのに十分な力を持っていて、私は立っていられなくなってそこにあったベンチに座り込んでしまった。
 どうしよう。泣けてくる。
 今朝からずっと、我慢して張り詰めていたものが、はりさけそう。
 ううう。
 どうしよう。
 死んじゃう。
 苦しい。
 胸が潰れてしまいそう。
 それでも大声で泣く事ははばかられて、拳を目に押し付けて、うーとか唸ってひそかに泣いていたら、なんか変な大学生に声かけられるし。
「お嬢ちゃんどうしたのー? ねぇよかったら俺達これから遊びに行くんだけど一緒に行かない? つーか君高校生でしょ? こんな所で何してんの?」
 あーもーうざいから本当に。心からうざいから。どいてあっちいって話しかけないでよ馬鹿ども。その下卑た笑いをひっこめやがれ。
 ダーリンダーリンダーリン。
 今来てすぐ来て早く来てよ。
 愛の力で私を見つけて。この悲鳴を聞きつけて。
 今会いたいの。
 今私の名前を呼んで欲しいの。
 いつものように、頬を撫でる風のようなその声で、優しくどうか。
 話しかけてよ。
「薫子さん」
 突然ぐいと腕をひかれて、私はひかれるまま立ち上がって、三人くらいいた軟派大学生を押しのけてずんずかと引っ張られて、私の腕をひくその背中を見て、私は、今度こそ死んじゃうと思った。
 うそ。すごい。
 彼だ。
 さっき必死で耐えようとしていた涙がぼろぼろとこぼれてくる。今の私の顔は相当ひどい事になってるに違いない。
 私の腕を掴む彼の手からまるで痺れるような毒が回ってくるみたいな気持ちになって、校舎の裏手の、少し人気がなくなってきたらへんで、私は耐えられなくなって彼の手を振り払って足を止めた。
 私に腕を振り払われて、ようやく私を振り向いた彼は、珍しく怒ってるみたいだった。
 ああ、既視感だ。
 初めて会った時と同じ。
 何の用だったの?
 彼は憤慨したように肩を怒らせて、見も知らない小娘を叱ってくれたのだ。
 けれど今の彼は私を見て、深く息を吐いた。
「……なんで、制服のままこんな所へ来たの?」
 低く呟くようなその声は怒鳴りつけるのを何とか我慢しているように聞えた。
 私は学校の制服のままだった。だって今日は平日だったし、家を出る時に制服を着ていなければ叔母夫婦はどこに行くのかと私を呼び止めるだろうと思ったからだ。時間を無駄に使いたくなかった。一刻も早くあなたに会いたかった。あなたに会って、安心したかった。
 でも、もう駄目だ。
 怒ったような彼を見て、今や私は不安に襲われた馬鹿な小娘に成り下がってしまっている。
 隠して押込んで張り詰めていた不安が流出してしまっている。
 全部虚勢だ。彼が私を大事に思ってる? そんな自信、昨日の夜に砕けて消えてしまった。
 泣いて目が腫れたこんな不細工な女を、彼が可愛いって思ってくれる保障なんてどこにもない。彼が私を家に呼ばない理由が私が傷つくのを恐れているからだという証拠なんかどこにもない。だって彼は、こんな涙でぐしゃぐしゃで制服姿のまま大学まで押しかけてきた馬鹿女をうざいと思っているのかもしれないし、昨日あんなに頑固に私の我儘を拒んだのだって、ただ単に彼の大切な家に踏み入らせるほど私が大事な女じゃないだけなのかもしれないのだ。
 だってこんな小娘よりも、同年代の女の人の方がずっと色気もあるしいい女だ。
 へこむ。
 本当に。
 もう二度と立ち直れないくらいに。
 これから永遠に、暗いくらい世界の中に置き去りにされるみたいに。
 潰れてしまいそう。
 昨日の夜涙がこぼれる度に私の中に積もっていった不安が、私を押しつぶしそうなくらいに大きくなっている。どうしてあなたの大切な家族に会わせてはくれないの? 不安が膨らむ。
 私は彼の顔を見ていられなくて、私のこの不細工な顔を見て欲しくなくて、俯いた。それでも何か言わなきゃと思って、絞りだすように声を出した。
「……お願い。あなたがもし私がいなくても生きていけるんなら、捨ててしまって欲しいの」
 彼の顔なんか見れない。
 怖くて顔なんか上げられない。
 だって本当に私うざい女じゃないか。
 こんな。
 学校に押しかけて、こんな風に泣いて。
 最悪だ。
「中途半端な愛ならいらないの。だって私は死んじゃいそうにあなたが好きなの。あなたが欲しいの。あなたを私のものにしたいの。……でもあなたがそうじゃないのなら、あなたはいつかきっと私を嫌いになってしまう」
 それだけは。
 絶対に。
 嫌だと、思う。
 私はまた拳を目に押し付けた。
 これは泣く時の私の癖だ。声を押し殺して、唸るように泣く。獣みたいだ。もっと可愛く泣ける女ならよかったのに。
「でも本当は捨てて欲しくなんかない。だって、あなたに捨てられてもきっと私の心臓は潰れちゃう。あなたの大切な人たちをいっそ殺してしまいたくなる。あなたの中に住む者を私だけにしてしまいたくなる。そんなの嫌なの。嫌なのよ」
 絞りだすように。
 この胸の内にあるもの全てを。
 全てを壊してしまいかねない言葉たちを。
 私の欲望を。
 エゴを。
 ドロドロとしたものを。
「……お願い」
 きっともう二度と、こんな切実に何かを願う事なんてない。
 神様にだって仏陀にだって、こんな風に祈らない。
 小さな声で、呟くように。
 他の誰にも聞えない秘密のように。
「私のものになって」




 後で、有正さんは、本当にあの時はやばかったと言った。
 私があまりに可愛くて可愛くてもう今すぐその場で押し倒してしまいたくなってでもそれを必死で抑え込んで我慢して、それを紛らわせるように私を抱きしめてくれたのだと言った。
 彼が、私を彼の家に連れて行ってくれなかったのは、二人ともまだ未成年で、親の同意がないと結婚できないので、二人ともちゃんと成人してたとえ彼のお父さんに反対されても結婚できるような状態になってからに紹介した方が、彼の父親を説得できるだろうと考えたからだった。
 私のダーリンは真面目で臆病な堅物で頑固な上に、策略家だった。
 そうして、君は初対面のおっさんの暴言に傷ついて逃げてしまうような女じゃないだろう? と彼は笑った。
 たまんないねぇっす。
 彼はだって私が思っていたよりもずっと私の事を理解して、そして愛してくれていたのだ。
 それを知って、私の中に巣食っていた不安は春先の雪のように解けて消えた。
 でも願いはやまない。
 私はあなたを手に入れたい。
 私だけのものにしたい。
 どこにも行けないように、閉じ込めてしまいたい。
 ねぇ気付いてた?
 あれはプロポーズだったのよ。
 そう言うと、彼は笑った。
 私がとろけそうに愛してる、あの声で言う。
『もしかして知らなかったの? 僕はもう君のものなんだよ』



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