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 僕には大切なものがたくさんある。
 可愛い恋人。
 したたかな上の弟。
 生真面目な下の弟。
 不器用な父。
 そして君だ。
 この世界に生まれてきた小さな君。
 世界平和なんて願わない。
 ただ僕の手の中の君達が幸せであればそれでいいんだ。
 猪子。
 小さな小さな僕たちの娘。




 子供の泣き声がした。
 その声を聞いて、僕は足早に団地の階段を昇った。
「猪子」
 案の定、家の前で小さな女の子がしゃがみこんで泣いていた。
 彼女は涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げて僕を見つけると、さらに顔を崩して僕に抱きついてきた。
「ぱぱぁー」
 膝にタックルしてきた僕の娘は、来年小学生になる。可愛いさかりだ。
「どうしたの? ママは?」
 聞いても小さな猪子は泣くだけで返事をしない。僕は膝にしがみ付く娘を抱き上げてあげる。すると猪子は今度は首にしがみ付いて泣く。
 大きな声だ。彼女の感情を遮るものなどなにもない。
 僕は猪子を抱き上げたまま玄関を開けた。
「ただいま」
 娘の泣き声にかき消されて聞こえないくらいの声で帰宅を告げる。いつも出迎えに来てくれる妻はやはり姿を見せなかったので、僕は靴を脱いで奥に歩いた。
 黄色の暖簾を掻き分けて居間に入ると、妻の背中が見えた。
 この頃には僕の首に顔をうずめる娘の泣き声も小さくなっていて、娘が背中を向けている妻の様子を伺っているのがわかった。
「ただいま、薫子さん」
 今度の声は届いたようだったけれども、やはり薫子さんは返事をしなかった。猪子はもう泣くのをやめていて、どこか怯えるように僕にしがみ付いている。
 僕はとりあえず鞄を床に置いて、よいしょと猪子を抱きなおした。
 するとうぐぐ、と呻くような声が聞こえた。
 僕はその声を聞いて、僕にしがみ付く小さな娘に声をかけた。
「猪子、猪子」
 首にしがみつく猪子の腕をやさしくほどいてやり、身体を離して娘の顔を見た。
 悲しそうな顔の彼女に、僕は笑いかけた。
「大丈夫、ママはもう怒っていないよ。見てきてごらん」
 そう言って僕は猪子を床に下ろした。
 猪子は不安そうに僕を見たけれども、意を決したように薫子さんに近づいた。そして恐る恐る母の顔を覗き込んだ猪子は、驚いたように目を見開いて今度は薫子さんにしがみついて泣いた。
「ごめんねママ。泣かないで。泣かないで」
 呻くような声で泣くのは薫子さんの癖だ。
 彼女は僕らの小さな娘を抱きしめて、小さな声で言った。
「私もごめんね、猪子」




 僕らは父に結婚を反対されて、僕は家を出た。
 父は怒ったし、弟達は呆れてでもどこか寂しそうに笑った。
 父も弟たちも彼女も、僕には同じくらい大切だったのだけれども、僕は彼女と暮らす事を望んだ。何故なら僕はきっと僕の周りの誰よりも強欲で、血のつながりというものを無条件に信じるほどに傲慢だったからだ。僕は僕の欲しい全てを手に入れたかった。そのために、彼女を選んだのは正しい事だったのだと今だって信じてる。
「何で喧嘩したの?」
 猪子を寝かしつけた薫子さんが居間に戻ってきて、食後のお酒を嗜んでいた僕の向かいに座った。
 薫子さんは甘い香りがする。きりりと吊りあがった凛々しい双眸からは想像もできない、甘くて優しい芳香を放っている。それはどうしようもなく僕を惑わす。
「別に、どうでもいい事よ」
 薫子さんがテーブルの上においていた自分のコップを手に取ったので、僕は彼女にお酌をしてあげた。
 とぽとぽと継がれるお酒は日本酒で、僕がワインよりもビールよりも日本酒がすきな事を知っている彼女は、家に一瓶かかす事がない。
「ふーん」
 僕は言って笑った。
 僕は絶対に彼女を追及しない。
 強がりの彼女は追及されるとますます口を閉ざしてしまうからだ。押せば押すほど薫子さんは身を固く、貝のようにしてしまう。それは、たぶん彼女が彼女の義理の両親に、一度愛されてそして拒絶されてしまったからなのだと思う。彼女は、彼女の義理の両親は悪くないと言う。自分達の本当の子供の方を愛するのは、人間として当然なのだからと庇う。けれど僕は、それはないだろうと思う。彼女を自分達の子供として迎え入れると決めたのだから、彼らはそれをまっとうすべきだったのだ。
 けれど彼女が違うというから、それに関して僕は何も言わない。だってそんなの過去の事だ。僕が願うのは、これから先の彼女の幸福だ。願はくは、僕の知らない彼女の過去だって全部幸せであってほしいけれども、その願いを叶えられなかったのは、もっと早く彼女に出会わなかった僕の不徳だ。
「……おじいちゃんに会いたいって、猪子が言ったのよ」
 しばらく黙ってお酒に口をつけていた薫子さんが、ぽつりと言った。
 それが先ほどの僕の質問への答えなのだと少しして気付いた。
 薫子さんは僕を見ない。
「さやかちゃんが今年のお正月はおじいちゃんの家で過ごすんだって。それを聞いてね、私もおじいちゃんの家に行きたいって、あの子が言ったの」
 さやかちゃんは猪子の友達で、一番仲がいい。来年からの小学校も同じなので、親としては少し安心する。
「いつも年明けに行ってるでしょって言ったら、お父さんの方のおじいちゃんがいいって言うの」
 薫子さんの義理の両親には、毎年年明けにご挨拶に行っている。実の娘の方は未婚で、まだ家にいる。薫子さんと実の娘は別に仲が悪いというわけではなく、けれど両手を挙げて再会を喜ぶほど仲が良いというわけでもないようだった。けれど彼女は毎年あの家に挨拶に行くのをかかさないようにしていた。薫子さんは薫子さんなりに、あの家族を愛しているのだ。
 僕と同じように、家族を愛しているのだ。
「私、何ていったらいいかわからなかった」
 薫子さんの声が小さくなる。必死で泣くのを我慢している。コップもテーブルに置いて、手を握り締めている。
「じゃあお父さんに聞いてみようね、って、いえなかった。……だって、聞いて、あなたがあなたの家族を思い出して、私を捨てて行ってしまったらどうしようって……怖くて、いえなかった。でも猪子はおじいちゃんちに行きたいって言って、私……」
 僕は素早くテーブルを周り、薫子さんの腕をひっぱって、彼女を抱きしめた。
 ううう、と彼女の呻き声がする。
 彼女は自分のその泣き方が嫌いみたいだけれども、僕はとてもかわいらしいと思う。
 獣のように、彼女は泣く。
 僕が僕の家族を離れて彼女と暮らし始めた事を、彼女がとても憂えているは知っていた。彼女は彼女の家族を愛しているから、同じように僕が僕の父と弟達を愛していることをよく理解していて、そして同時に恐れてもいた。
 彼女と結婚してから、僕はあの家に行っていない。弟達に会ったり、父に手紙を書く事はあっても、あの家には行っていない。弟達が淀んでいると言ったあの家。父が身を棘にして守っているあの家。僕には確かにあの家への執着があるけれども、大切なのはそんな事じゃないんだ。
「薫子さん」
 彼女が泣くと、僕はどうしたらいいかわからなくなる。
 彼女を幸せにしたいのに。
 その方法を見失ってしまう。
「薫子さん」
 嫌がる彼女の顔をあげさせて、僕はささやくように言う。
「僕は絶対に君を捨てたりしない。猪子という宝物をくれた君を、僕をどうしようもなく泣きたい気持ちにさせてくれる君を、決して捨てたりなんかしない」
 どんなに言葉を尽くしたってきっと彼女の不安は拭えない。
 それがもどかしい。
 僕の中には確信があるのに。
 それを伝えられない。
 どうしたらいいんだろう。
 どうしたらいい?
「ままぁ……」
 すると小さな声が聞こえた。
 見てみると、部屋に通じる襖を少しあけて、猪子が泣きそうな顔で立っていた。
「ままぁ、ねむれないの……」
「猪子」
 薫子さんが僕から離れて席を立つ。母の顔になって、猪子の方へ行く。
「じゃあママと一緒に寝よう」
 薫子さんに抱き上げられた猪子は、一瞬ほっとしたような顔を見せたが、今度は薫子さんの肩越しに僕を見て、また泣きそうな顔になって手を伸ばした。
「ぱぱもいっしょにー」
 その猪子の顔を見て、僕は泣きそうになる。
 僕は、どうしようもなく、薫子さんと、猪子を愛している。
 だって彼女たちは、僕の家族なのだ。
 僕の新しい家族だ。
 薫子さんが猪子を抱き上げたまま僕を振り返る。
 彼女は笑っていた。
 涙のあとを残して、けれど楽しそうに笑っていた。
「ママだけじゃ足りないって。欲張りな子ね」
 そして僕は確信する。
 僕達は幸せだ。
 もう既に幸せなのだ。
 こんなに愛しい人がいるだけで、それだけで、どうしようもなく幸福なのだ。
「薫子さん、僕はもうどうしようってくらい今幸せなんだけど、どうしようか?」
 僕が聞くと、彼女は少し驚いたような顔をしたけれども、すぐにほころぶように笑った。
「一緒に寝よう。猪子をはさんで、川の字で」
 なるほど。
 それが幸せの形なのだ。



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