桜太は無口な男だった。
自分の事でしゃべった事と言えば、名前、年齢、好きな食べ物。その三つ。
立科桜太、二十歳、好物は納豆。
職業は? 無言。
家族は? 無言。
家は? 無言。
好きなアーティストは?
「そういうの、聴かないから」
彼の言葉にあたしは目を見開いた。
「うっそ。少しも?」
あたしと桜太は赤いビーンズ型の卓を挟んで向かい合っている。家の中には台所と畳の部屋が一つ、そして小さなユニットバス、というか恐ろしく狭いトイレ付き風呂がある。
「うん」
桜太は頷いた。
彼は二十という年齢にしてはひどく幼い反応をした。だからあたしも敬語なんか使おうとも思わなかったんだと思う。二歳年上なのに、まるで人見知りの激しい弟を相手にしているような気分になった。
「荻原さんは?」
「え?」
彼はあたしの名前を聞いても笑わなかった。猪の子供って書いて猪子。ありえない。どうよこのネーミングセンス。人格を疑うよ、ほんと。荻原と呼べと言ったのはあたしだ。で、勝手にさん付けしてるのが桜太。だから年上に見えないってのよ。
まさか聞き返されるとは思わなかったあたしは、少し面食らって答えに窮した。
「好きなアーティスト」
すると彼は、あたしが質問の内容を理解できなかったのかと思ってつけたしてくれた。
荻原さんの好きなアーティストは誰?
そんなの、答えたってあんた知らないなら意味ないじゃんとは思ったけど、答えた。
「うーん。ビョークとか、小島真由美とか好きかな。ジャンル全然違うけどこの二人」
「ふうん」
桜太は気のない返事をしたけれど、不思議と頭にこなかった。
彼の目は相変わらず綺麗で、外でなくても照明の灯りを反射してきらきらと光っていた。
「桜太。あたしが少しずつ教えてあげるよ。あんたの好きなアーティスト、テレビ番組、お笑いコンビや漫画。教えてあげる」
あたしは身を乗り出して言った。
彼にそれらのものを教えるのは、拾った者の責任だと思ったからだ。好きなアーティストも、テレビ番組も、お笑いコンビも、漫画も、彼のきらきらとした、でもどこか死んだような目に息を吹き込む手段だと思ったからだ。
宝石のようにきらきらとした目。
けれど、宝石は生きていない。無機物だ。
宝石の目。死んだ目だ。きらきらと。
なにがあんたをこんな目にさせてるの?
「あたしがあんたに教えてあげるよ」
あんたがどんな曲を好きなのかを。
ポルノでもボブディランでも映画のサントラでも何でも聴かせてあげる。
すると、桜太は笑った。
あたしはどきりとした。
その笑顔がとんでもなくやらわかくて優しくて、まるでそれこそ春風みたいだったから。
あたしはどきりとしたのだった。
「なにやってるの?」
あたしの家には布団が一つしかない。とりあえずお風呂に入って、さっぱりして出てきたあたしは、布団の横に座って困ったような顔で考え込んでいる桜太を見て首を傾げた。
先にお風呂に入った桜太は、ドライヤーで乾かさないで湿ったままの髪をしてて、ちょっとどきりとする。こうして見ると、なかなか整った顔立ちだ。
桜太は、あたしを見上げると、まるで大人みたいに言った。
「やっぱり僕布団いらない。男と女が同じ布団で眠るなんてよくないよ」
あたしは肩をすくめた。
「なによ、あんたあたしを襲う気?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
「ならいいじゃない。問題なし。さぁ寝よう」
「だからちょっと待ってって」
あたしは笑って桜太の腕をひっぱると、そのまま布団に倒れこんだ。慌てて立ち上がろうとする桜太と、それを阻止して彼は布団に縫いつけようとするあたしとでプロレスみたいになる。
「あぃたたたたたんまたんま」
「ほーほほほ。柔道経験者に寝技で勝とうなんて甘い甘い」
あたしは中学生の頃柔道部に入ってた。先生なんかにも中々筋がいいとか言われてた。目指すはヤワラちゃんだとかいい気になってた。ママはあたしを褒めてくれた。強い女に育つのよ、と頭を撫でてくれた。
完全にきまった袈裟固めを解いてあげると、ぜいぜいと肩で息をする桜太を見下ろして、あたしはにやりと笑った。
「さぁ寝ましょ。あんた布団から放り出して寝たら、夢見が悪そうでいやなのよ」
この言葉に、桜太はしぶしぶと同じ布団で寝る事を承知した。
幸いな事にうちの布団は普通のものよりも大きい。人二人眠るには十分だ。
「これはね、あたしとママが寝てた布団なのよ」
部屋の電気も消して、真っ暗な空間の中であたしは言った。桜太はまだ起きていて、そのきらきらとした目をあたしの方に向けていた。今度は何で光っているんだろう。ああ、カーテンが開いてる。月か。
「ママはね、二年前に死んじゃった。パパはずっと昔に病気で死んじゃったんだって。さすがにパパの保険金も尽きてきたし、ママの貯金だけじゃ生活できないしね。高校は入ってすぐやめちゃったの。今は毎日バイトしてるんだ。バイト楽しいよ。色んな人に会えるし。今度桜太も連れて行ってあげるね」
あたしは桜太と向かい合い、その頬に手をそえた。
憎らしいくらいにすべすべの肌。綺麗な目。でも悲しい目だ。
あたしは桜太の頭を抱きしめた。
「おやすみ桜太」
「おやすみ」
返って来た言葉がうれしかった。
ほんとはあたし、ずっと、こうやって夜抱きしめるぬくもりが欲しかったのかもしれない。
だって人の温かさは、ひどく安心する。
泣きそうなくらいにほっとするから。
きっとあたし、今日は素敵な夢が見られるだろう。