小さくなる心臓


 金曜の今日は、午前中はティッシュ配り、午後から夜まではビデオレンタル屋でバイトだ。あたしにとってバイトは半ば趣味みたいなもんで、働いてると生きてるって感じがして好き。生きるために頑張ってるって感じがするとこがいい。
「じゃあ桜太。あたし行って来るね。お昼に一回帰ってくるけど、また出かけるからね。もし桜太が出かけたいんなら出かけてもいいけど、戸締りはしてね。鍵は郵便受けに入れておいてね」
「うん」
 あたしはまるで幼稚園の息子を一人家に残していくみたいな気持ちであれこれ言った。
 桜太は、それをうざがらずにいちいち頷いていた。
「桜太、お昼はうちで食べる?ならあんたの分も何か買ってこようか?」
「ううん。いいよ。僕、荻原さんの分もお昼作ってあげるよ。これでも料理は得意なんだ」
 これは意外だった。
 肩に大きめの鞄をさげ、Tシャツにジーンズというラフな格好で玄関に立っていたあたしは、軽く目を見開いた。
「ほんとう?」
「ほんとうほんとう」
 にこにこと請け負う桜太に、あたしはじゃあお願いしようかな、と言った。
 コンビ二弁当じゃない御飯なんて久しぶりだ。昨日桜太に食べさせてあげたのも、買い置きしてたカップラーメンだったから。
「まかせて」
 桜太がにこりと笑ったので、あたしも笑った。
「じゃあ行って来るね」
「あ、ちょっと待って」
 そう言うと、桜太はあたしの方に一歩踏み出した。意外にたくましい腕が伸びる。
 ふわりと髪に触れられて、あたしは心地よさに目をつむった。頭を撫でられるのは好きなのだ。昔から。けれど彼の手はすぐに離れた。
「糸くず、ついてたよ。頭」
 目を開けると、彼は糸くずをつまんだ手をあげて笑っていた。
 あたしはありがとう、と言うと、じゃあ行って来ます、と言って家を出た。
「いってらっしゃい」
 彼はあたしを見送った。
 しばらく歩いて行ってから私は息を吐いた。
 キス、されるかと思ったのだ。
 あの甘い口付けを。
「ちぇ」
 残念な気持ちがしたのは否定しないが、あたしが彼に恋をしたとかそういう話ではない。愛欲よりも肉欲に近い、『ちぇ』なのだ。餌を請うように、セックスを請うように、口付けをして欲しかったのだ。
 やだやだ。あたし、軽い女みたい。昨日会っただけの男にキスを求めるなんて。
 けれど悪い気分はしなかった。
 そして桜の下を歩いて、気が付いた。
 二年ぶりなのだ。
 誰かに、いってらっしゃいと言われるのは。
 誰かが家で待っていてくれるのは。
 なんだか嬉しくて、あたしはスキップなんかしちゃったりした。
 ああ、大声で叫びたい気分。なんて?
 思いつくままに。
「ああっもう、なんだか嬉しいぞー!!」
 この声、彼に聞こえちゃってるかしら?




「よろしくおねがいしまーす」
 ティッシュを配ってる間中ずっとってわけじゃないけど、少なくとも一時間に一回、いや四十分に一回くらい、桜太の事を考えた。
 強盗に入られていないだろうか?
 それとも出かけた?
 そのまま帰ってこないかもしれない。
 今頃書置きを書いてるかも。
『一宿一飯の恩は忘れません。ありがとう』
 もし出て行くとしたら、きっとあたしのお昼御飯と一緒に彼はその書き置きを残していくだろう。
 彼の御飯は美味しいだろうか。ああ、そういえばお金を渡すのを忘れた。お金は持ってるだろうか?買い物ができなかったらお昼だってできない。うちの冷蔵庫には野菜も肉もほとんど入っていないからだ。
 家に帰って、彼がいなくなっていたら、きっとあたしはがっかりするだろう。けれど悲しくはないと思う。あたしはそれを受け入れるだろう。
 昔、公園の入り口のところで拾って連れて帰ってミルクをあげた猫が、バイトに行って帰ってくると家の中をめちゃくちゃにして窓から逃げてた事があった。白い猫のはずだけど毛が汚れてて、家に帰ったら洗ってあげようと猫用シャンプーを買って帰ったところだった。
 ミルクの入った容器がひっくり返り長崎土産のビードロが落ちて割れてしまっているのを見て、片付けるのが面倒だとは思ったけど、悲しみや怒りや裏切られたという気持ちはなかった。
 だってこれはエゴなのだ。
 拾ったのはあたしの勝手。逃げるのは猫の勝手。たとえあたしの元から逃げようとも、あたしにそれを責める事はできないのだ。
 あたしは裏切られたと愕然としたくない。
 だって信じたのはあたしの勝手。あたしの責任なのだから。
 その責任を相手に擦り付けるのはお門違いというものだ。
『うーん。猪子のその生き方はかっこういいけど、ちょっと悲しいわね』
 言ったのはママだ。
 父を愛して、学生の身であたしを産んで、先立たれて、子供を育てて頑張りすぎて、病気で死んだ女。奔放な女。
 悲しい?
 どこが?
 強い女であれと言ったのはママなのに。どうしてそれを否定するような事を言うの?
 わからなかった。
 そして今でもわからない。あの母の言葉の意味。
 だって彼女はもう、死んでしまったのだから。




 アパートに着くとまず郵便受けを見た。鍵のついてない誰でも中を見れるタイプのそれには、エッチビデオの広告と、鍵が一個入ってた。バナナのキーホルダーがついた鍵。
 うちの鍵だ。
 ただ出かけてるだけだという可能性もあったのだけれど、あたしはああ、桜太はいなくなったのだなと思った。消えたのだなと思った。
 野良猫は流浪の民だ。ふらふらと、あちこちを渡り歩く渡り鳥。たった一個のカップラーメンとたった一夜の寝床なんかで、そんな生き物を縛り付けていられるなんて、初めから思っちゃいない。
 書置きにはなんて書いてあるだろうか?
 そう思いながら鍵を回してドアを開けた。
 玄関からまっすぐ前に見えるビーンズのミニテーブル。その上には何も置いていなかった。台所に目を移すと、コンロの上に鍋と網が置いてある。網なんか、ママがいた頃しか使ってない調理用具だ。ママは魚を焼いたり餅を焼いたりしてくれた。あたしは靴を脱いで、鍋の中を見た。
 味噌汁だった。お豆腐とわかめの味噌汁。
 うん。日本の御飯ってかんじだわ。
 炊飯器は保温になってる。けどメインがない。まさか味噌汁と御飯だけって事はないだろう。鞄を置いて、畳の部屋に入って部屋の中を見回す。
 今朝、確かにいた少年はもういない。あるのはくちゃくちゃになった洗濯物と、畳まれた布団だけだった。
 部屋が広く感じた。とんでもなく広く。逆にあたしの心は狭くなる。きゅっと、押しつぶされるみたいに。白い猫に逃げられた時と同じだ。
 ママが死んで、初めて一人で朝目覚めた時と同じ。
 これは悲しさではない。
 確かに、ママが死んだ時は悲しかったけれど、これはそれとは違うのだ。
 胸がきゅっとなる。部屋の、広い空間に侵食されて、あたしの心が小さくなる。ママが死んだ次の日の朝より、野良猫が逃げた日より、もっと、小さく小さく。
 ああこうしてあたしは、いつかぱちんと消えてなくなるのかもしれない。
 そう思った。
 何匹も猫や犬や少年なんかを拾ってきて、いなくなって、そのたびに小さくなって、いつか、あたしはぱちんと消えてなくなってしまうのだ。
 その日が早くくればいい。
 だって心が小さくなる感じはものすごくいやだから。
「……ぅ」
 呻いて心臓のところを握り締める。
 もうぎりぎりのところまで小さくなったこの心臓は、きっと、ちょっと力を入れれば割れてしまうだろう。
 がちゃり。
 ドアが開いた音がして、あたしが押さえつけていた心臓は驚いて飛び上がった。
「あれ?荻原さん、帰ってたんだ。結構はや……」
 振り向いたあたしを見て、桜太は一瞬目を見開いて言葉を失った。
 あたしは、のん気にもその目がいいなと思った。目を見開いた時の桜太の目は宝石の目じゃなかった。生きている目だった。そしてあたしは、彼のその双眸に自分が映っている事に、ひどく安心した。
 けれどあたしは長く彼のその双眸を見ている事はできなかった。何故なら桜太が、次の瞬間には部屋にあがりこみあたしを抱きしめていたからだ。
「……桜太。土足」
 顔を彼の肩のところに押し付けられながら、あたしは言った。
「うん」
 桜太がしゃべるたびに胸のところが動く。肺が、空気を出し入れしている。
「でも荻原さん、抱きしめててあげなきゃ、壊れちゃうし」
 そう言って桜太はあたしを抱く腕にもっと力をこめた。
「痛い。こっちの方が壊れそうだよ」
 あたしは文句を言った。
「うん。身体は壊れても大丈夫だけど、心は壊れたら大変なんだよ」
 どっかの歌詞みたいな台詞。馬鹿みたいに気障な台詞。
 けれどあたしはよかった、と思ったのだ。
 さっき、心臓を握りつぶしてしまわなくてよかった。
 消えてしまわなくてよかった。
 だって、桜太がこの部屋に帰ってきて、あたしがいなくなっていたら、彼はきっと泣いてしまうから。
「壊れたらだめだよ、荻原さん」
「うん」
 あたしは目を瞑って答えた。