突然の訪問者


 次の日の水曜は、深夜バイトの日だった。
 夜の三時まで駅前のビデオレンタルショップで働く。あたしは映画が好きで、そのレンタルショップの店長がたまにビデオのサンプルをくれるので、もう長いこと働いてる。
「危ないよ。そんな遅くに」
 出掛けに帰るのは三時半くらいだと言うと、桜太が顔をしかめた。彼はたまに、まるで大人のような話し方をする。まるであたしの保護者であるかのような顔をする。
「大丈夫よ。いつもの事だし」
「いつも大丈夫だったからって今日も大丈夫だとは限らないじゃないか」
 その通りだけど、昼間のビデオレンタルってたいくつだし給料も悪いんだもの、仕方ないじゃない。
「何?あたしにバイトやめろって言うの?」
 あたしは不機嫌に目を細めた。
 あたしは指図されるのが嫌いだ。命令されるのが嫌い。
 けれど桜太は微笑んだ。
「僕が迎えに行くよ。駅前のレンタルショップでしょ?」
「馬鹿ね。そしたらあんたが一人で外を出歩く事になるのよ」
「大丈夫。僕護身術やってたから」
 こういう時、男だから大丈夫だとは言わない彼が好きだった。
 女だから危ない。男だから大丈夫。
 愚かな決め付けだと思う。
 別にあたしは男も女も同じだと叫びたいわけじゃない。
 実際女は男に肉体的には劣るし暴力に走られたらそうそう勝てないだろう。けれど女には女の強さがあるのだ。毎月の生理痛に耐えられる、出産の痛みに耐えられる、男たちを優しく包み込むだけの、強さ。
 あたしはそれを誇りに思っている。
 あたしはその誇りでもって、笑った。
「大丈夫よ桜太。いざとなったら走って逃げるわ。これでも中学の時は、アンカーを走ってたんだから」
 鍵をかけて寝てね。
 そう言って、あたしは部屋を出た。




 うちのレンタルショップの売り上げは、半分くらいがアダルトビデオだ。こういう時、近所に知り合いがいなくてよかったと思う。だって知ってる人がAVなんか借りていってたらちょっと気まずいし、その人ももう二度と借りにこようなんて思わないだろうから。
「荻原さん、最近は拾いものはしないの?」
 人がまばらになってきた店内で、私の拾い癖を知っている店長が聞いてきた。
 店長は三十代前半の小太りの男で、ものすごく映画に詳しい。しかも雑学王だ。スネ夫が実は双子だとか、そんな事を知っている。一つの才能だと思う。
「しましたよ」
 返却されたビデオをケースに入れながらあたしは答えた。
「男の子を一人」
 桜の下で、かわいいけど目が死んでいる男の子を一人、拾いました。
 え? と店長が聞き返す前に、レジに客が来た。
「いらっしゃいませー」
 そう言いながら顔をあげて、あたしは舌打ちをしたくなった。
「そこのお嬢ちゃんを借りたいんですけど」
 ナンセンスだ。きわめてナンセンスな台詞だ。
 茶髪にピアス。そこらへんにいるような軽薄そうな男。切れ長の目。
 あの緑の封筒の男だった。
 内容にただ一言、 『うちに来い』 と書いた男だった。
 カウンターに差し出されたレンタルカードの裏の名前を記入する欄には、八坂秋平と書いてある。
 てゆーかなんであんたうちのカード持ってんのよ!
 あたしはそう怒鳴ってやりたいのをぐっとこらえて、すいませんちょっと今休憩いれていいですか、と店長に聞いた。


「何しに来たのよ」
 休憩をもらって、店先に出るとすぐにあたしはそう聞いた。不機嫌な様子を隠そうともせずに。
 ガードレールに腰掛けた秋平は肩をすくめた。
「手紙読んだろ?」
「ふん。あんなもん捨てたわ」
「はは。相変わらずつんつんしてるねぇ、お前」
 秋平はあたしより二つ年上の大学生だ。そういえば、桜太と同じ年だ。しかし二人の持つ印象は全く違う。秋平はまさに大学生活を謳歌している馬鹿息子という感じがするが、桜太はもっと重いものを背負っている雰囲気を持っていた。
「あんたら一族の前じゃなきゃ、あたしはもっと人当たりがいいのよ」
「知ってるよ」
 穏やかにそう言った秋平を、あたしはぎろりと睨みつけた。
 この男は、これまであたしがどんなに邪険にしてどんなにひどい言葉を投げつけても、怒る事はなかった。まるで手負いの獣でも見るかのような目であたしを見る。それが気に喰わなくて、あたしはますます牙をむく。
「俺は今日、お前を迎えに来たんだ」
 秋平はそう言うと近くに停めてあるワインレッドの車を指した。
「お爺さまの命令?」
 あたしは皮肉をこめて言ったが、秋平は笑うだけだった。
「そうだよ」
「長男は大変ね。春君は元気?」
「ああ。外を走り回ってるよ」
 春君は秋平の弟だ。確か今は小学校中学年くらいになってるはず。人懐こくてかわいくて、父方の親戚の中であたしが唯一素のままで接する事のできる従兄弟。
「あんた進級はできたの?」
 秋平は都内の名門私立大学に通ってる。こいつの家は結構金持ちだけど、裏口とかそういうのじゃなくて、ちゃんと実力で受かった大学だ。
「もちろん」
 こいつが本当は結構頭がいい事をあたしは知っていた。ただ馬鹿であるかのように装っているだけだという事も。
「あたしが車に乗らなかったらどうなるのかしら?」
「少々乱暴な手段をとらせてもらうかもね」
 つまり、あたしに拒否権はないという事だ。
 けれどこの時、あたしはあまり抵抗する気にはならなかった。秋平に連れられ、父がかつて住んだ家に行き、あのクソ爺に会ってもいいという気になった。
「あと一時間でバイト終わるから」
「わかった待ってる」
 店に戻るあたしに、秋平はひらひらと手を振った。




 二年前ママが死んだ時、突然連絡を取ってきたのが父方の親戚連中だった。荻原の家は別に由緒正しいわけでもない、爺の代からいきなりのし上がってきた成り上がりの一族だ。そのくせプライドだけは高くて、パパは当時天涯孤独でどこの馬の骨とも知れなかったママとの結婚に反対され、駆け落ちしたのだ。そしてパパが死に、ママが死んだ事をどこで知ったのか、世間体を考えた荻原の連中があたしを引き取るとか言い出した。
 初めはいい人達だと思った。
 ママが死んで途方にくれていた中学生のあたしはひょこひょこと彼らに付いていった。馬鹿だったと今でも思う。もう少しあの時のあたしに人を見る目があれば、と。
 あたしが引き取られたのが、パパの姉夫婦の家、つまり秋平達の家だった。初め秋平はあたしに無関心で、春君はあたしによく懐いた。あたしはこれから保護者となる人たちに気をつかって過ごしていた。
 そしてある日、秋平の父親があたしを犯そうとした。
 太ももを這う汚い手。煙草の匂い。
 その日は最悪だった。やっとの事で伯父の魔の手から逃げ出したあたしを伯母はあたしから誘ったのだと非難し、事情を聞いた荻原のお爺さまはこう言った。
『しょせんあの雌猫の血をひいた娘だ』
 血の気がひくとはこの事だ。
 もしあの時あたしがナイフなりなんなり刃物を持っていたら、そのまま刃傷沙汰を起こしていただろう。いや殺人事件かもしれない。ともかくあたしはその時はっきりと、じじいに殺意を覚えたのだ。
 結局あたしは八坂家を出て一人で暮らし始めた。高校もやめた。
 よくある話よ。
 ほんとにね。
 昔から煙草の匂いが嫌いだったあたしは、この件で決定的に煙草嫌いになった。あたしを襲った伯父はヘビースモーカーで、煙草の匂いとなると彼を思い出させた。
 秋平があたしにかまい始めたのは、皮肉な事にその事件の後からだった。彼は一人暮らしを始めたあたしの家を訪問し、電話をかけ、手紙を書いた。ある日いい加減にしろと言ったら、それらはぴたりと止み、たまに手紙が来るくらいになった。その手紙にはいつもあの叔父の匂い、八坂家の匂いがついていて、あたしは反吐が出そうだった。
「あんた、煙草吸わないの?」
 手紙からはいつも煙草の匂いがしたのに、秋平自身からも彼の車のシートからも匂いがしないので、あたしは聞いた。彼の車に乗せてもらうのは初めてなので、運転席の秋平は少し新鮮だ。
「ああ。俺が吸わなくても、親父の副流煙で十分だよ」
 あたしが会った頃、秋平は煙草を吸ってた気がする。ではやめたのだろう。
 あたしは窓の外に目をやった。
 冷たそうな雨が降ってきている。車内の時計を見ると、四時を指していた。さすがにこの時間ともなると高速は空いていた。桜太は心配しているかもしれない。一言言ってから来ればよかったと少し後悔した。
「あと二十分くらいで着く」
 リクライニングを倒して目を瞑ったあたしに、秋平が言った。
「着いたら起こして」
 そう言って、あたしは睡魔に意識をゆだねた。
 秋平が、小さく呟くのが聞こえた。
 猪子。
 そういえば、下の名前で呼ばれるのは久しぶりだ。
 そう思った。