竹刀の切っ先


 努力をしなければいけない。
 そう悟ったのはいつだったか。
 女に生まれた以上、綺麗になる努力をしなければいけない。
 自らを美しく磨く事に力を注がなければいけない。
 それは外見も心も同じ事。
 強くあれと自分に言い聞かせて。
 強く美しい女は、どんな富や権力を持った男にも勝るのだから。
 富や権力を持たずして、その身一つで望む全てを手に出来るのだから。
 それが、女という生き物なのだから。




 雨は止まず、まだぱらぱらと弱い雨音が聞こえた。
 門をくぐり長い道を通って玄関の前で止まった車の中で、あたしは久しぶりの本家の様子を見ていた。
 秋平は傘をとってくるから待ってろとあたしに言い渡し、自分は濡れて玄関先まで行って家政婦の一人と話をしている。
 相変わらず庭が綺麗だった。
 雨をはじく緑の葉。椿の茂み。たとえその持ち主がどんなに醜悪であろうとも、この庭は毎年美しい様子を見せるのだろう。それは、この荻原という一族の中で唯一の救いのようにも思えた。
 汚れたどうしようもない一族だ。
 ママを認めず、パパを馬鹿にし、あたしを蔑視した。
 少なくともあたしにとっては、救いようもなく醜い一族だ。ほんの一部を除いてだけど。
 あたしは車を降りた。
 ドアを開ける音は雨音に吸収されたのか、秋平は気付かない。雨は優しくあたしに降りそそぎ、少し冷たい。あたしはそのままふらふらとした足取りで、庭の方へ踏み入った。
 勝手知ったる道だった。
 八坂家に引き取られるのが決まる前、あたしはしばらくこの屋敷で生活していたから。
 池を渡り庭をしばらく行くと、紫陽花に彩られた場所に出る。その場所は屋敷の奥の縁側に面していて、屋敷の主人のお気に入りの場所でもある。
 その紫陽花の前であたしは立ち止まった。年寄りは朝が早いと思った。
 紫陽花の咲くその中央の広い場所に、一人の老人が雨にうたれて立っていた。ただ立っているのではない。竹刀を両手に構え、目を瞑って瞑想しているようだ。白の胴着と紺の袴に身を包んだその老人は、ママを雌猫呼ばわりしたクソ爺に違いなかった。
 老人の背後の茂みの向こうで、あたしは音を立てずにその様子を見守った。
 静かな空気が老人を包んでいる。まるで雨音さえも、彼の前では遠慮しているようだった。
 雌猫と、言い捨てた彼の目は氷のようだった。
 あたしの事を孫どころか人間とも思っていないような目。
 ショックだったのは、否定できない。
 いるとは思っていなかった祖父という存在に、甘えたいという気持ちがあったのは否定できない。
 たぶんあの爺があたしと血が繋がっているのだと思ったからこそ、母をあんな風に言った事が許せなかったのだ。
 彼にとっては義理の娘だとも言える母の事を、雌猫と、言い捨てた事が。
 一体、どれだけの時間が経過したのかはわからなかったが、雨はあたしの下着までもぐっしょりと濡らすほどに降り続けていた。
 突然、老人が言葉を発した。
「戻ったか」
 驚きはしなかった。老人があたしに気付いているだろう事はわかっていた。小娘の気配も読めないようではこの一族をまとめる狸の親分にはなりえなかっただろうから。
「戻ったんじゃない。一言言いに来たのよ」
 あたしは答えた。
 爺はあたしに背中を向けたまま微動だにしない。あたしもその場から動こうとはしなかった。
「お前には八坂の長男との縁談がある」
「秋平と? は。ついに狂ったんじゃないの爺」
 あたしは嘲笑した。
「どこをどうしたらそんな発想になるんだか」
「お前が荻原を名乗る以上下手な真似はさせられない」
 つまり、飼い殺す手段としての結婚というわけだ。
「くだらない保守的な考えだわ」
「お前に選択権などない。部屋の奥で黙って祝言の日を待っておればいいのだ」
「前世紀の遺物ね」
 その時老人が動いた。
 それはまるで八十をすぎた老人の動きとは思えなかった。流れるようで、優美。雨の軌跡さえも彼の動きに合わせて軌道を変えているように見える。認めたくはないけど、あたしはこの時その動きに見惚れていた。まるで何かを舞っているようなその動きに、心を奪われていた。
 そして次の瞬間には、竹刀の切っ先はあたしの喉下にあてられていたのだ。
 老人の、まるで熱のない双眸があたしを見た。
 どこかで見た目だと思った。
「有正は私を裏切った」
 そのしわがれた声さえも冷え切っているようだ。触れたら切れてしまいそうに。
 有正はパパの名前。老人の息子の名前。
「裏切らせたのは下賎で薄汚い雌猫だ。お前もそれと変わらぬ」
 まるで事実だけを淡々と並べたような断定の言葉。
 そして唐突に、あたしは理解した。
 まるで曇りの空から雲が晴れていくかのように唐突に、あたしは理解したのだ。
 なぜ、今更秋平について行ってこの爺に会う気になったのか。
 なぜ、今こんな言葉をぶつけられても穏やかな気持ちでいられるのか。
 宝石の目だ。
 宝石の目を見たからだ。
 桜太の死んでしまった目の向こうに、雌猫とママを言った時のこの老人の目を見たからだ。
 今あたしを見るこの老人の目に向こうに、桜の木を見ている時の桜太の目を見たからだ。
 輝きながらも死んでいる目。
 触れたら切れてしまいそうなのに虚無をたたえた目。
 なんて。
 悲しい。
 同じ何かを、この老人とあたしが拾った少年は背負っている。
 あたしはその時、まるで捨て猫を前にしたときと同じような気持ちになっていた。
 無条件で、手を差し伸べたくなっていた。
 この悲しい目をした老人に。
 醜悪な自らの一族に絶望した老人に。
 愛した息子に逃げられた悲しみをたたえる老人に。
 あたしは、赦しの雨を注いであげたかった。
 あたしは、優しく抱きしめてあげたかった。
「ねぇクソ爺」
 あたしは言った。喉元の竹刀など物ともせずに。老人は身体をぴくりとも動かす事はなかった。
「パパもママも、あんた達の事を悪く言った事なんてなかったよ」
 だから中学生のあたしは彼らを信じて、ついて行ったのだ。
 深く考える事なくついて行ったのだ。
 悪い人たちだとは、聞いていなかったから。
「パパはずっと、あんた達を愛していたよ」
 荻原の家を、愛していたパパ。けれどママも愛していたから。ママは一人だったから。ママを選んだパパ。
 その選択は間違っていなかったのだろう。
 けれど、この老人も一人だったのかもしれない。
 一族を一人支える身で、孤独であったのかもしれない。
 あるいはパパはそれを知っていたのかもしれない。
 それでもママを選んだのは、ママを誰よりも愛していたからなのだ。
 ママが言っていた。パパが最期に心配したのは、あたしでもママでもなかったと。
「パパは最期に、あんたの事を呼んだんだよ」
 お父さん、と。
 死の床で。
 老人の目が見開かれた。
 驚きが、その双眸に命を吹き込む。
 その時あたしは初めて、老人の目に人間らしい熱を見たのだった。
 それ以上言う事はなかった。
 あたしはやっぱり心のどこかでこの爺に対する憎しみを消せないでいたし、それを氷解するのは今すぐには無理だった。
 まるで固まったように動かない老人を無視して、あたしは踵を返した。
 ぱしゃり、と水のたまった土の上を行く。
 あたしは早足で歩いた。
 速く家に帰らなければと思った。桜太の元へ。
 あたしが本当に包んであげたい、宝石の目をもった人の所へ。
 庭を抜けると、傘をさした秋平がこちらを見ていた。
 まるで何があったかわかったような顔だ。あるいはわかっているのかもしれない。
「帰る」
「わかった」
 短いあたしの一言に、秋平はまた短く答えた。車に乗る前にタオルを無造作に投げられた。
「シート濡らすなよ」
 無理な相談というものだ。あたしはまるで服のままプールに入ったような惨状だったから。あたしは肩をすくめて、助手席のシートの上にタオルを敷くとその上に腰をおろした。
 秋平は運転席に乗り込むと、傘をたたんで後部座席に入れてすぐ、暖房をつけてくれた。今のあたしにはありがたかった。
「猪子」
 車を走らせる前に秋平はあたしの名前を呼んだ。
 今日二度目だ。
「俺は、ずっとお前に負い目があったんだけど、お前と結婚してもいいと思ったのは、負い目のせいじゃないんだよ」
 優しい声。撫でるような声。
「うん」
 あたしは答えた。
 知っていたのだ。
 あたしが叔父に犯されかけた事で、一番ショックを受けていたのはこの青年なのだと。
 あたしを救えなかった事に、一番憤りを感じていたのはこの青年なのだと。
 それが恋なのか義務感なのかは知らないけれど。
「うん。でも、家にはあたしを待ってる人がいるの」
 桜の木の下であたしが拾った人。
 宝石の目を持った人。
 あたしから逃げなかった人。
 だからあたしは帰らなければならない。
「うん」
 そう答えると、秋平はゆっくりとアクセルを踏んだ。
 それからは何も話さなかった。
 もうすぐ夜が明ける。