晴れハレルヤ


 それが誰だかすぐにわかった。
 夜が明けてくると雨も止んで、外の空気が湿り気を帯びているのを車内からでも感じることができる。アパートの前の桜の木はいくつかの蕾がもう花をつけていて、朝露をはじいていた。
「停めて」
 あたしの言葉に秋平はブレーキを踏んだ。
 車が止まるか止まらないか所であたしはシートベルトを外してドアを開けた。
「桜太!」
 言ってあたしは彼にかけよる。桜の木の下に座り込んだ男は、濡れて張り付いたTシャツを着てよれよれのジーパンを履いていた。ジーパンはあたしのだ。男性物のバーゲンで買ったのがこんな所で役に立つとは思わなかった。
「桜太」
 初めて彼を見つけた時みたいに、彼の前にしゃがみこんだ。
 桜太は体育座りして膝に腕を回して、顔を伏せていた。あたしが名前を呼ぶと、彼がぴくりと身じろぎしたのがわかった。
 ゆっくりと顔をあげた桜太は、あたしを見て大きく目を見開いた。
 見開かれた目から、透明の綺麗な液体がぽろぽろと流れてくる。
 あたしは驚いた。
 涙だ。
 なみだ。
 熱い双眸から流れるもの。
 桜太の目はもう宝石ではなかった。
 生きた目だった。
 彼の瞳には感情が宿っていた。
 熱が。
 激しい、心が。
「っ」
 桜太に抱きつかれて、あたしはその場に尻餅をついた。
 痛かった。けど何も言わずに彼の背に手を回した。
「っうぅ」
 胸の所が涙でぬれ、嗚咽が聞こえた。
「も、帰って、こない、かと、思った」
 かろうじてそう言うのが聞こえた。
「帰って来たよ。桜太、あたし、帰って来たよ」
 あたしはまるで、小さな子供をあやすみたいに彼を抱きしめた。
 その時わかった。
 そうか。
 彼も恐れていたんだ。
 桜太に逃げられると思って絶望したあたしみたいに、あたしに置いていかれる事に怯えていたんだ。
 置いていかないで。
 どうか、ひとりにしないで。
 あたしは桜太を抱きしめる腕に力を込めた。桜太も、あたしを抱きしめる腕に力を込めた。少し痛かったけど、甘い痛みだった。
「あたしはあんたに会いに、帰って来たんだよ」
 短い黒髪に頬をよせる。
 愛しいと思った。
 この存在を、世界の何よりも愛しいと。
 護りたいと。
 胸が熱い。
 これは、桜太の涙の熱さだ。
 焼けるように。
 ……焼けるように?
 あたしははっとして、桜太を身体から引き剥がした。
 見ると、彼は目を閉じてぐったりとしている。目の端から涙がぽろりとこぼれた。額に手をやって、あたしは悲鳴みたいな声をあげた。
「なにこれ。すごい熱じゃない……!」
 一体何時間雨の下にいたんだろう。
 あたしは後ろを振り返った。
「秋平! 手伝って!」
 何かを察した秋平は、ちょうど車を降りた所だった。




 家の鍵は開いていて、あたしは部屋に走りこむとすぐに布団を敷いた。後から入って来た秋平が、その上に背負っていた桜太をおろす。
 あたしはそのまま台所に行くと、夏は普段から愛用している氷枕を取り出して、乱暴に氷を流し込んだ。タオルも濡らしてしぼる。
「頭」
 畳の部屋に戻って、秋平に桜太の頭を持ち上げさせて布団との間に滑り込ませると、そっと額にタオルを置いた。
 それが冷たかったのか、桜太は朦朧とした様子で目を開けて視線をさまよわせる。あたしを見て、彼は柔らかく微笑んだ。
「ありがとう」
 あたしは笑い返した。
 すぐに彼は意識を失った。
「体温計、出さなきゃ」
 立ち上がったあたしを秋平が止めた。
「おい、こいつ……」
「あたしが拾った子」
 簡単に答えて食器棚の下にある救急箱の中をあさる。
「拾った……?」
「そうよ。……あった」
 包帯の下から水銀の体温計を見つけた。あたしはまた小走りで畳の部屋に戻って、桜太の傍らに座る秋平に体温計を渡した。
「風邪薬買ってくる。あたしの服でいいから、着せ替えてあげて。看ててあげて」
「薬ねぇのかよ」
 顔をしかめて体温計を受け取った秋平に、あたしは眉をあげて答えた。
「ないのよ」
 振り返り、テーブルの上の財布を取ると、靴を履くべく玄関へ行く。
 ママは肺炎で死んだ。風邪をひいた時に風邪薬を飲んだけど効かなくて、病院に行った時は手遅れだった。ママの葬式の日に、あたしは家にあった風邪薬を捨てた。
 こんなもの、効かないならあっても意味はない。
 そう思った。泣いた。泣きながら、風邪薬を踏みつけた。

 あたしは玄関を出た。
 雨が振った後だからか、少し肌寒い。
 けれど寒さが入り込む隙間もなく、あたしの心を別の感情が満たしていた。
 目だ。
 彼の目が。
 生きていた。
 ぎらぎらしていた。
 宝石じゃなかった。
 熱を帯びて、輝いていた。
 微笑んだ時も。
 優しかった。暖かさがあった。心から嬉しそうだった。
 安堵も感じた。
 生き返った。
 彼は、生き返ったのだ。
 玄関の扉の前で、私はたまらずその場にしゃがみこんだ。
 身体の内から何かに突き動かされて、涙がぽろぽろと流れてきた。
 あたしは泣いた。静かに涙を流し続けた。
 悲しいという理由以外で流す涙は久しぶりだった。
 いつか。
 この涙が蒸発して雲となって雨となって土へ還ったなら。
 世界は愛に満ちたものとなるだろう。
 何故ならこの涙は、あたしの彼への愛ゆえに、流されるものなのだから。
 ハレルヤ。
 彼とあたしを出会わせたこの世界に、祝福を。




 祝福。まさにそれだ。
 僕は、これまでないくらいの幸福感を感じていた。
 熱で朦朧とした意識の中で。
 彼女が、帰って来た。
 僕に会うために、帰って来たのだと言った。
 抱きしめてくれた。
 ああ。
 なんて満たされた気持ち。
 涙が出そうだ。
 もう、彼女の前で泣いてしまったけれど。
 初めてだ。
 こんな。
 幸福感。
 暖かい。

 ふと、意識が現実に戻った。
 目を開けると、僕をじぃと見る男がいた。
 見覚えがある。
 まだ熱で意識がはっきりとしていなかった僕に、男は言った。
「よう、タテシナサン。俺を覚えてるか?」
 この、男の目。
 見覚えがあるこれは、《僕》を見るものではない。
 覚醒する。
 この男のこの目は、《立科家当主》を見る目だ。
 吐き気がこみあげる。
 同時に先程までの幸福感が失せ、突然突きつけられたた現実にくらくらとした。
 ああ、と思った。
 そうだ。
 僕の名前は立科桜太。
 これは、僕のためではない世界がいやで逃げ出した、

 愚かな臆病者の名前だ。