パワーオブチャイルド


 秋平に会うと言ったら、彼女は大げさに目を見開いて言った。
 桜太って男が好きな人なの?
 笑った。
 彼女はよく冗談を言う。
 これまで僕に冗談を聞かせる人間はいなかった。新鮮だ。
 彼女との生活は、魚にとっての海のように潤いに満ちたものだった。
 そして魚にとって、陸よりも海こそが生きる場所であるはずなのだ。




 秋平が会見場所に指定してきたのは、二つ向こうの駅にあるファミリーレストランだった。実はそれまで僕は一人で電車に乗ったことがなかったので、たどり着くのに思いのほか時間がかかってしまった。
 彼はすぐにわかった。
 彼はレストランの奥の席にいて、テーブルには綺麗な緑色の飲み物が入ったコップがあった。何か文庫本を読んでいる。今日は平日なのに、学校はないのだろうか。そう思った。
 何と声をかけたらいいのかわからなくて、僕は無言で彼の座るテーブルの前に立った。
 秋平が顔を上げる。
 彼は、僕を見てどんな顔をするだろう。冷たい目で見るだろうか。無機質な目で。
 しかし彼は笑ったのだった。
「ああ、よく着いたな」
 聞きようによっては馬鹿にされたようにも聞こえるが、この時僕はべつにそう思わなかった。彼が、別にそう意図していないのがわかったからだ。
「まぁ、座れよ」
 促され、僕は彼の向かいに腰をおろした。
 こういう店には、この間彼女と出かけた時に入った。こういう店にはドリンクバーというものがあって、飲み物を何杯でもおかわりしていいからお得なのだそうだ。
「何か頼む?」
 メニューを差し出されたが、断った。別にお腹もすいていなかったからだ。
 彼は肩をすくめると、メニューを戻した。
 すぐにウェイトレスが水を持ってきた。注文が決まったらテーブルにあるボタンを押してくれとだけ言ってウェイトレスは離れた。
 秋平は本を閉じ、鞄に閉まった。
「さて、と。まずはあんた、俺のこと覚えてる?」
 僕はすでに彼の事を思い出してた。
 会ったのは企業のトップばかりが集まる会食で、彼は八坂建設の社長の息子としてそれに参加していた。八坂が僕の所に息子を紹介しにやってきたのだ。
『息子の秋平です。まだまだ未熟者ですが、立科さんとは年も近い。よい友人になれるでしょう』
 息子を通じて立科と懇意になろうという魂胆が見えていたが、僕は差し出された手を快く握った。僕の周りに来る人間は、大抵がそんな人間なのだ。
『初めまして、秋平君。僕は立科桜太だ。よろしく』
『……よろしくお願いします』
 少し上目遣いで、決してこういう上品なパーティには向かない仕草が印象に残っていた。髪の色も脱色しているしピアスだってあけている。きっと普段は普通に大学生をしているのが、僕と年が近いからという理由で連れてこられたのだろう。彼は慣れないその場所に戸惑っているようだった。
 僕は少し、彼に同情した。
 親はいつだって、子供を知らない場所に連れてくる。子供が望まない場所に。
 ところが今は完全に立場が逆転していた。
 このファミリーレストランは彼には自分の敷地であり、僕にとっては他人の敷地だった。こういう場で見る彼は、下品な大学生ではなく、堂々とした青年に見えた。逆に僕は、どう見えるのだろう。
「覚えてるよ。君は君のお父さんと来てた。八坂建設の社長令息だね」
 僕の言葉に、彼は笑った。
「令息なんてがらじゃねぇよ。なんだ、覚えてるなら話は早ぇな。まさかうちの親父も頭があがらねぇっつう立科家のご当主と、あんな所で会うとは思わなかったぜ」
「僕も、まさか彼女が君の従兄妹だとは思わなかったよ」
 秋平には悪いが、いやな偶然だと思った。それはまるで、どこまで逃げても《立科》という名からは逃れられないのだと言われているみたいだと思った。
「あいつに聞いたか? 従兄妹だって」
「うん」
 彼は人懐っこい性格のようだった。
 第一印象とも、第二印象とも大分違う。初め会食で会った時、僕は彼を両親に護られる気楽な大学生だと思い、次に彼女の家で僕を見下ろす彼を見た時、彼は僕が逃げてきたものの象徴だった。
 しかし今の彼はそのどれとも違う。
 まるで、そう。まるで従兄妹の友人と接するような態度で彼は話していた。
「どうやってあいつに会ったんだ?」
 彼は両肘をテーブルにおいて身を乗り出した。
「桜の木の下でぼーっとしてたら拾われたんだ」
 それが出会いだった。かなり特異な出会い方であろう事は僕の常識から照らしてもわかっていた。
「いつ?ずっと猪子の家に泊まってるのか?」
 猪子。彼女の名前。
 恥ずかしいから名前では呼ばないでくれと彼女は言ったのに、目の前の男がそう呼んでるのが何だか悔しかった。
「先週の木曜から。ずっと」
「で、あいつはあんたの素性知ってるの?」
 彼はどうしてとは聞かなかった。
 どうして桜の木の下にいたのか。
 どうして立科の家に帰らないのか。
「知らないと思う」
 僕は答えた。知らないだろう、彼女は。ニュースだって見てないみたいだ。彼女は社会とは別の世界で生きているイメージだった。海をたゆたう人魚のように。
「あーのばか」
 秋平は、大きく息を吐くと背もたれによっかかった。
「知らない奴は家に上げるなってあれほど言ってたのに…」
 その忠告は、彼女の耳にはまったく届いていないと言っていいだろう。彼女から僕を招きいれたのだから。おいでと、僕を呼んだのだから。
「猫をよく拾うと言ってた。犬とか猫とか。拾うたびに逃げられるらしいけど」
 僕は言った。コップに手を伸ばし、水を飲む。からんと氷が音をたてた。
 逃げなかったのはあんたが初めてよ、と彼女は言った。
 だからあんたは特別ね、と彼女は言った。
「愛してんの?」
 ぶはっ。
 僕はおもわず水を吐いた。水が気管に入って咳き込む。
 けれど秋平は気にせず繰り返した。
「猪子、愛してんの?」
 彼は真面目だった。
 背もたれに背中をあずけて、両手を腹の上で組み、まっすぐに僕を見ていた。冗談ではなかった。彼の人懐っこさは、いつのまにかどこかへ行っていた。僕も息を整えると、彼を見返した。
 答えなど決まっている。
 初めから。
「愛してる」
 彼女を。
 口に出して言うと、その事がすとんと身体の中に落ちていくようだった。浸透していく、まるで初めから僕の中にあった感情であるかのように、僕の心の中に居座る。
 不思議な感覚だった。
 秋平は、ため息をついた。
「あんたさ、何考えてんの?」
 彼の言葉の意味をつかみそこねて、僕は眉をひそめた。初めて、彼の言葉に非難がこめられた。彼の目には嫌悪感があった。
「やめてくんない? そういう夢物語言うの。愛してる? 愛してたら全部解決すると思ってる? あんた、会社動かすのはうまいかもしんないけど、どっかまだ子供みてぇだな」
 彼の言葉は刃のように僕に刺さった。
 彼は僕を諭していた。
「あんた婚約者はどうすんの? いるよな? 立科のご当主さまには、幼い頃からの許婚がさ。その約束やぶって猪子と結婚するの? やめてくれよ。そんなのあいつが苦労するだけだ。あいつが辛い思いをするだけだ」
 物心ついた頃に未来の妻だという少女を紹介された。それはメイドや食事と同じように、僕には与えられたもので、拒めるものではなかった。そして彼の最後の言葉は、僕に母を思い出させた。
 母は、決して幸せではなかっただろう。僕はそれを知っていたのだ。
「あんたが立科を捨てるっていう手もあるけど、忘れんなよ、そしたら何百って人間が路頭に迷う。今の立科には他に当主となれる人間はいねぇ。あんたしか立科を支えられねぇんだ」
 驚いた。
「詳しいね」
 彼は、そういう事には興味がないと思っていた。
 秋平は鼻で笑った。
「勉強したんだよ。あんたと会ったその日に」
 誰のためかは考えるまでもない。
 彼の大事な従兄妹のためだ。大事な従兄妹が惹かれた男が、彼女にふさわしい男かどうか調べるためだ。
 たぶん彼は、彼女の事が好きなのだろう。
 僕は笑った。
「本当は、君のような人の方が彼女にふさわしいのかもしれない」
 この言葉に、秋平はかっとなって立ち上がった。彼の左手が僕の胸倉を掴んでテーブルの上に引きずり出す。そして拳を作った右手が振り下ろされる前に、僕は続けた。
「けれど、譲るつもりはない」
 そうだ。
 譲ることなどできない。
 僕は僕の胸倉をつかんだまま、あっけにとられたような顔をしている秋平を睨むように見た。
 誰にもだ。
 彼女だけは。
 譲ることなどしない。
「君にわかってもらえるかはわからないが、これまで僕は生きていなかった。僕いう人間は、生きていなかったんだ。彼女だ。彼女が僕を生かしてくれた。彼女が僕を育くもうとしてくれた。僕はもう彼女を知ってしまった。触れてしまったんだ。もう放せない。彼女を手放すのは、生きるのを放棄するのと同義だからだ」
 初めて空気を美味しいと感じた。
 初めて目覚める朝が楽しみだと思った。
 もう手放せない。
 中毒のようだ。
 彼女がいなくては生きていけない。
「僕は彼女を愛してる。そして僕は、僕が彼女を愛しているのなら、それが本当に強い思いなのなら、すべては何とかなるのだと信じている。……子供だからね」
 最後は笑った。
 僕は今、彼女によって生まれたばかりの子供なのだ。世界の美しい部分に始めて触れて、その事に感動して涙をながしている子供なのだ。そして子供だからこそ、できる事がある。
 しがみつこう。
 泣いたっていい。
 我儘を言い通すのだ。
 僕は彼女が欲しい。
 そして立科も潰さない。
「何とかするよ、僕が」
 僕はこの時初めて、これまで自分が育った環境に感謝した。幼い頃から学ばされた帝王学や経営学、あらゆる知識が僕にはある。
 それがこんなに心強いなんて。
「……ああったく!」
 秋平は、そう言うと、僕を突き放すように押して自分は椅子にどかりと座った。がじがじと頭をかく。今の彼には、さっきまでの、人懐っこさが戻っていた。
「完敗だよあんたにゃ。ちくしょう、かっこよすぎるぜ」
 僕は笑った。
 人の賞賛を素直に嬉しいと思ったのは、本当に久しぶりだった。