十年のやくそく


『初めの三日間こそは病気だったが、それからは表に出て立派に政務をこなしておられるよ。立科のご当主は』
 それが秋平が僕に教えてくれた情報だった。
 つまり、影武者だ。
 僕に似た少年が、僕の代わりに当主の座に座っているのだ。恐らくその間にも、奴らは血眼になって僕を捜しているだろう。影はいずれ気付かれる。そうなってからでは立科は周囲の信用を失う。ビジネスでは信用は重要な取引材料なのだ。
 滑稽でならない。そう思う。
 当主には、《代わり》がいるのだ。
 影には教育がほどこされる。いつどんな時に当主の代わりに表に出てもいいように。つまり、それは立科当主のレプリカだ。
 反吐がでる。
 ずっと目を逸らしてきた。
 傷からも痛みからも。
 蹲り痛いと叫んでも、誰も手を差し伸べてくれない事を知っていたから。
 誰も助けてくれないのに助けを求めるのは愚かだ。恥ずべき事だ。そう思っていたから。
 けれど。
 痛いと言わなければ声は届かない。
 叫ばなければ。
 自分の中で押し殺しているだけでは、本当に欲しいものは手に入らない。
 叫んで初めて、世界が動き始める。




 コーポ春風に帰る途中のコンビニで、アイスクリームを買った。僕にはバニラのカップ。彼女にはチョコレートのコーンだ。彼女はコーンのかりかりするのが好きなのだ。
 けれどアパートが見える所まで来て、僕はさっと血の気が引くのを感じた。
 見覚えのある黒のベンツが桜の木の下に停まっていた。
 僕は舌打ちをして、走り出した。
 彼女の家の、玄関ドアの前に黒服の男がいる。かっとしたのは、その男が玄関ドアを少しだけ開けてる彼女の、その細い腕を掴んでいるのを見たからだった。
「放せ!」
 走りながら叫んだ。
 男が驚き、彼女から手を放して振り向く。僕はすぐに男と彼女の間に入り込むと、彼女を背にかばうようにして男を睨みつけた。知った顔だった。
 五十もすぎた、白髪交じりの男。
「彼女に気安く障るな、高峰」
 僕は命令した。
 高峰は僕をまじまじと見て、慌てて頭を下げた。
「当主、ご無事で」
 高峰は僕の側近だ。幼い頃から側にいながら、ずっと僕を子供として扱ってこなかった大人の代表格。
 今も三十は年下の僕に躊躇いもなく頭を下げる。たかがこんな子供にだ。
「怪我はない? 変な事されなかった?」
 僕がちらりと彼女を振り向くと、彼女は少し驚いたように僕を見て、そして数秒してやっと言葉を理解したかのように首を横に振った。
 よかった。
 ほっと安堵の息をつき、僕は向き直って高峰を見た。
「頭をあげろ」
 言うと高峰は頭を上げる。僕は高峰を睥睨した。立科当主として。
「何をしにきたとは聞かない。お母様にお伝えしろ。僕は明日に屋敷に帰るとな」
「は、しかし……」
「口答えを許した覚えはない。さっさと行け」
「……はい、承知しました」
 高峰はもう一度僕に頭を下げると、ベンツに戻って行った。
 高峰がベンツに乗り込み、やがてその黒い車体が視界から消えてからやっと、僕は彼女を振り向いた。
「……ごめん」
 彼女はまだ目を見開いて僕を見ていた。僕はなんて言ったらいいのかわからなくて、思いついたまま謝罪を口にした。全てが、彼女には寝耳に水の事だろう。
 そのまっすぐな目がいたたまれなくて思わず俯いた僕の頬を両手で挟み、彼女は僕を正面から覗き込んだ。
「目」
 彼女が言った。
「目が、また宝石みたいになってるわ」
 彼女の言っている意味はよくわからなかった。ただ、僕はなんだか許された気がして、目頭が熱くなるのを感じた。
 彼女はまっすぐに僕を見る。
 上目遣いではなく、何かを窺うようにではなく、僕を見る。
「……うん」
 僕は彼女を抱きしめた。
 そっと背中に回された小さな腕が、まるで僕を包み込む海のようだと思った。




 アイスクリームは、夕飯の後に食べようと言って冷凍庫に入れた。
 全てを話す間、彼女はずっと僕の目を見ていた。
 それはまるで、いつ僕の目が《宝石の目》というものに変わってしまうかはらはらして見守っているようだった。
「ふうん。なるほどね。それで秋平が気にしてたんだ」
 彼女はそのことに、しきりに納得していた。
「そっかそっか」
 僕は苦笑した。笑いをもらした僕に、彼女は首を傾げる。
「なに?」
「いや、うん。あまり、驚いてないなと思って」
 安心する。
 彼女のこの反応は。
 まるで、僕のいたあの世界が、とんでもなくちっぽけなものだったようで。この大きな世界のほんの小さな一部だったようで。
 安心した。
 あれは、絶対ではない世界なのだと。
 彼女は笑った。
「だってあんた、お坊ちゃまってかんじだもん。世間知らずだし。予想してたよ」
 ああ、そうだね。君は物知りだ。僕よりもずっと、賢いんだ。
 広い世界を知っている。
 僕よりも広い世界を。
「世間知らずかな?」
「そりゃそうよ。ドリカムも知らないなんて、相当よ」
 言ってから彼女は、優しげに目を細めた。
 彼女はその雰囲気をころころと変える。
 燃える炎のような激しさと、包み込む水の優しさを併せ持つ。それが一体彼女だからなのか、それが女という生き物の特徴なのかは、僕にはわからなかった。
「桜太。帰るのね」
 どこへとは言わない。
「ううん。行くんだ」
 帰るのではなく。
「聞いて」
 僕が言うと、彼女は真っ直ぐに僕を見返した。
 開け放たれた窓。ゆれるカーテン。
 赤い卓。畳まれた布団。
 不思議な空間。
 僕の場所。
「君は今、いくつだっけ?」
「十八よ」
 僕が十八だったとき、僕はどんなんだっただろう。
「そっか、じゃあ、十二……いや、十年、待っててくれる?」
「いいわ」
 言下に答えた彼女に、僕は少し拍子抜けした。
 彼女はにっこりとしたたかに笑った。その笑顔がかわいらしくて、僕も思わず笑いをもらした。
「……僕は、立科に責任がある。あと十年、僕は立科当主として生きる。けれど十年で、僕の後を継ぐ人材を育ててみせる」
 できるだろうかとは考えない。するのだ。
 僕にならできる。
 これまで立科当主として生きてきた僕も、まぎれなく僕という人間なのだから。
 利用するんだ。経験を。
「そうしたら、僕は僕と君のものだ」
 十年。
 それは決して短くない。
 そしてその長い間ずっと、彼女という世界の宝を僕だけに縛り付けていられるとは、僕も思っちゃいなかった。
「じゃあ桜太。あたしは十年、女を磨くわ」
 彼女はそう言って笑った。
「色んな恋をする。そして十年後、最高の女になる。十年、あたしはあたしだけのものだけど、十年後、スーパーレディになったあたしは、あたしとあんたのものになるのよ。最高でしょ?」
 不思議だった。
 こんなに輝かしいものが世界にあるなんて。
 こんなに愛しく思える人がいるなんて。
「十年後、あたしはあんたにおかえりって言うわ。だからあんたはただいまって言うのよ」
 そう言う、彼女が、愛しい。
 涙がでるほどに。
「うん」
 僕は笑った。
 最後の口付けは、涙の味がした。
 それは彼女の涙の味だった。甘い果実のようだった。
「猪子」
 僕が呼ぶと、彼女は嬉しそうに笑った。




Q「これまで生きてきたなかで、やり直したいと思った事はありますか?」
A「昔はね、生まれた所からリセットできたらいいなぁとか思ってたけんですけど、今はもう思わないですね。二十歳までの僕は今の僕とは確実に違うけど、あの頃の僕がなかったら今の僕もないし。人生、つみかさねですよね。どれか一つでもなかったら今の山にはならない。反省するのは大切だけど、後悔は必要ないと思うんです。幼い頃の苦い経験のおかげで、僕は今、若輩者には厳しい世の中を渡っていくだけのしたたかさを手に入れる事ができたわけですし」

Q「二十歳の頃が転機という事ですよね?その頃具体的に何あったんですか?もしよろしければ教えてください」
A「うーん。そうですね。ある人がね、桜の木の下で、拾い物をしたんですよ」




 桜太が行ったその日の朝、桜は満開に咲いていた。
 僕らの門出を祝福してるみたいだねと彼は笑った。
 あたしたちは、これから別々の道を行く。
 彼はまた宝石の目をたたえて部下達を睥睨するだろうし、あたしは多くの恋をするだろう。
 けれど帰るのはいつも、たった一つなのだ。
 あたしはきっと強くなる。
 たとえ世界に終わりがこようとも、最後まで生き残れるほどに強くなるだろう。
 だって、あたしは出会ったのだ。
 桜の木の下で。
 あたしが一生、護ってあげるひと。
 女はね、強いからね。
 生まれてから死ぬまでずっと戦って戦って傷を作り続ける生き物だからね。
 そうして初めて美しくなる生き物だからね。
 弱くないよ。
 なめないで。
 十年後にはきっと、ただいまとゆってね。